「言語論的転回」に対する遅ればせながらの批判
もしかしたらさすがに誰かがすでに指摘しているかもしれないが、自分でひらめいたので一応載せておく。アリストテレスのいうように、真理は独立に何度でも発見されうるからである。
「言語論的転回」とは
「実在は言葉があって初めて存在する, という話になる. こうした発想」が「『言語論的転回』という名称で呼ばれる現象を引き起こすことにな」った(井坂理穂「第10章 『近代』の知を問いなおす—歴史学・歴史叙述をめぐる問い」『東大連続講義 歴史学の思考法』東京大学教養学部歴史学部会、岩波書店、2020年、172頁)という。
命名のパラドクス
しかし、言語が思考や「実在」を規定しているとしたら、「命名」というものができなくなる。
証明。
命名には固有名をつけることと、普遍名をつけることの2種類がある。人名やペット名、地名、船舶名などは前者に、新種の生物や新商品などの命名は後者に属する。
普遍名をつける命名の代表例として新しい生物種を発見した例を考えよう。
この種は、当然、発見される前には名前を持っていなかったのだから発見された瞬間にもその種を指し示す名辞は存在しないはずである。というのも、命名とは名のないものに名を与えることであるから。
しかし、「実在は言葉があって初めて存在する」ならば、「言葉のないところに実在は存在しない」ことになり、やや命題を変形すれば「名辞のないところに対象は存在しない」ということになる。
ならば、命名すべき対象はいまだ命名されていないのだから「実在」せず、ゆえに命名もできない。
固有名は、ある個体を同一種の別の個体から識別するための名辞である。
ゆえに、「言語論的転回」の発想に従えば、識別するための言葉がない対象は識別できない。
したがって、命名すべき対象はいまだ命名されていないのだから、他の対象と識別できず、命名ができない。
証明終わり。
発見のパラドクス
「言語論的転回の発想」に従うと「発見」ができないことの証明。
名辞が対象を規定すると仮定する。「言語論的転回の発想」によれば言葉が実在を規定するのだから、その変形である。
新しく発見されたものはいまだ命名されていないものであり、つまり名辞を持たないものである。
言葉が実在を規定するならば、名辞を持たないものは対象として実在できないことになる。
実在しないものを発見することはできない。
証明終わり。
人間の認識はどこまで言語由来なのかという疑問
ここからは単に私が感じていることを徒然なるままに書くだけになるが、ところで、人間の認識というものはどこまで言語由来なのだろうか。
たとえば、人間は「名辞のど忘れ」というものをする。実際に私も「スケートボード」という名前が出てこず、「あの細長い車輪が2つついた板の名前はなんだったっけ」と考え込んだことがあった。
もちろん、単語を忘れたとしてもその内包を言語によって説明しているのだから同じことだという反論もあるかもしれない。しかし、先ほど見たように、本当に言語だけが世界を規定いるのなら種に対しても個体に対しても命名という行為はできず、しかしながら実際には命名はありふれた営みであるのだから (人はみな自分の名前を持っている!)、少なくとも世界認識において言語以外の要素は何かしら必要であろう。
たとえば、図と地の区別ができなくては「対象」をとらえることはできないが、動物も獲物と風景の区別くらいはつくだろうから、対象認識には感性的部分も必要であろう。もっとも、当然のことながら、動物の「主観」などがどうやってわかるのか、人間の他者の主観はどうやってわかるのか、そもそもそれがわかるとはどういうことなのかという哲学的難問もあるが。
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