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哲学思想日記 2023-W28 — 中世大学は職業訓練校だった

2023-07-10/16


哲学

« 科学哲学 » というものに人々が求めているのは « 科学はどう語られるか » という説明ではない. « 科学的に正しい » という表現がどう使用されるかを知りたいのではない. むしろ端的に « 真理とは何か » が知りたいのではないのか ?

たとえば私の右腕が光るとしよう. 右腕の光は私以外の人にも知覚できる, ある意味客観的な事実になる. 他方で, 私の左腕が痛むとするとき, 左腕の痛みは私以外の人には知覚できない, ある意味主観的事実である.

いやしかしこれは単にたまたま私の神経が他者と繋がっていないという偶然的事態のせいであって, 同様にたまたま私の目と他者の目は同じ光を受け取るようにできているというだけの事柄であろう.

倫理

私は普段あまり « 悪い人 » という概念を使わないようだ. それはキリスト教 (プロテスタント) の幼稚園で性善説的な人間観を教わったせいなのか, あるいは反対に私が利己的すぎて « 善い人 / 悪い人 » という対立軸ではなく « 私にとって都合の良い人 / 私にとって都合の悪い人 » という対立軸でしか他人を見れないせいなのかはわからない.

Narrative-based medicine は evidence-based medicine と次元の異なる話であろう. それは効く・効かないの問題なのか, それとも同意の問題なのか ? 効く・効かないの問題なら narrative を database 化すればいいだけの話.

学問

たまたまチャンネルを回したら放送大学で気象学の講義をしていた. 少し聞いて気づいたことは, これほどまでに予測・予報というものに目的を特化した学問領域って気象学以外にないのではないかということ.

『文庫クセジュ: 大学の歴史』(Christophe Charle, Jacques Verger (著); 岡山 茂, 谷口 清彦 (訳); 白水社, 2009) によれば, 大学って中世からフランス革命前までずっと職業訓練校みたいなものだったらしいよ. つまり, 聖職者階級は神学, 市民階級は法学という実学を学んで仕事で出世できるようになることが目的だった. 教養による人格陶冶という理念はベルリン大学以降.

この本には書いていないが, 純粋な学問のための学問をする機関という位置づけはさらに新しいはず. もしかしたら scientist の登場と軌を一にするのかもしれない.

哲学は実学の婢女だった.

宗教

C. S. Lewis は “Lunatic, Liar, or Lord” の三者択一で Lord を選んだが, Lunatic と Lord は必ずしも矛盾しないのでは ?

イエスは空腹になったときイチジクに (季節ではないので) 実がなっていないのを呪った (マルコ 11:14). イエスが律法学者と論争しつつ奇跡を起こしたのを聞いて, 身内の者たち (οἱ παρ᾽ αὐτοῦ) はイエスの気が狂っていると思い, 取り押さえに来た (マルコ 3:21).

しかし, もしナザレのイエスが精神疾患の患者だったらなんなのか ? キリスト教とは, 苦しんでいる人のためにある宗教だ. そして神みずからが人となり, 十字架に掛けられる苦しみを負った. 屠られた子羊こそ神だったのだ. たとえ現代の誰かがイエスを精神疾患と呼ぼうと, 大した問題ではない. 精神疾患を持つような最も弱い人たちに近づき, 寄り添い, 癒したのがイエス自身だったのであり, そしてイエス自身が1人の人間として受難したのだから.

Image by Frauke Riether from Pixabay

人生

なぜ私はニュースを見ないのか. それは正直に言えば世の中のことなんてどうでもいいから. きっかけは「Curriculum Vītae Meae (私の履歴書)」を引用すれば,

「専門家」「クラスター対策班」が、国民に向かって「危機感のレベルがオーバーシュートしてしまっている」というジョークを投げつけ、衛生観念を持つ国民をバカにしたツイートを見て、「ふざけるな!」と思った。この瞬間を境に、もうコロナなんてどうでもいいと思った。私は愛国者としてこれまで頑張ってお国のために努力してきたのに、その国家サマに「危機感のレベルがオーバーシュートしてしまっている」と言われたのだから。今見てもゴミみたいでクソみたいだと思う。憎しみの情を抑えられない。このとき初めて「もうこんな国滅びてしまえばいい」と思ったし、この日本に対する軽蔑は今でも変わらない。

Elius, Curriculum Vītae Meae (私の履歴書)

という一件だった. しかし, 今テレビをつけても本当に毎日毎日どうでもいい, しかも面白いわけでもなく, 同情の苦痛と快感を誘うような低俗な社会面の噂話ばかり流れてくる. 昔読んだ森達也の本に「誰が誰を刺したとかもううんざり」と書いてあったが, この言葉に限っては一字一句その通りだと思う.

ニュースは哲学の対極に位置すると言ってもいい. ニュースは毎日消費されて, 毎日忘却される. ニュースには体系性がなく, 物事の仕組みをまとめて蓄積して探究しようという姿勢がない. 常に新しいことを追って, 根本的な教養という土台がない.

けれど, 人生は短い. ニュースを見るのは時間の無駄だし, 何より感情と知性を高める上で一番の桎梏になる.

私は5歳くらいから今に至るまで, 自分の吃音を呪わなかった日が一度もない. この文字通り毎日感じてきた « 世界への根本的な憎悪 » « 世界からの根本的な疎外 » のようなものが私の世界観・人生観の形成に影響を与えたのかもしれない.

正気を取り戻す方法として読書が有効だということに気づいた. 狂気に陥っている状態とは, たとえば常に脳裏に « ⭕️にたい » という言葉が響き, 個室トイレにうずくまっているような状態. もちろん他人と会話することも正気回復に効果あるが, 会話が終了して相手と別れるとすぐに狂気が再発することが多い. 読書だと, まず読み始めることで狂気から注意を逃がして気持ちを落ち着けることができるし, 読後も正気持続時間が会話より長いという利点がある.

詩作 : 私と君は, 花とハチドリ.


2023-07-20
BGM: Major Lazer & DJ Snake, feat. MØ - “LEAN ON”

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