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哲学思想日記 2023-W19 — 「体にいい」って何 ?

2023-05-08/14


本当に重要な問題

本当に重要なのは「今ここが夢の中だったとしても, それでも人を殺してはいけないのはなぜか (道徳を守らなくてはいけないのはなぜか)」という問いだ.

人権について

日本ではあまり「人権とはヤクザなものである」ということを教育・啓発していないように感じるのが不思議だ. しかも社会科では社会契約説を教える (これは非常にいいこと) のにもかかわらず. 人権というのは「人権を認めろ! さもなくば反乱だ!」という決死の闘争の果てに承認されたもので恩寵じゃない.

功利主義と利己主義

功利主義は義務論である. というのも, 「最大多数の最大幸福を実現すべき」という神聖な義務への意志を要求するから.

利己主義がなければ道徳ゲームに参加する動機がない?

たまに「⟨私⟩ なしで倫理的行為は可能か」という問題を考える. たとえば自己犠牲で1人助ける人と, 他人の善意をしめしめと思い助かる1人がいたとき, 功利計算では1人助かり1人死ぬわけで等しいはずなのに, 利己主義者にとっては, いや「この私こそ利他的に行為する」と決意する善人にとっても大違い

たしか『⟨子ども⟩ のための哲学』に書いてあったが, たとえば親は子どもに「もっと欲を出せ」と普通に言うわけであって, 道徳ってそこまで重視しないんだよね. これは道徳から見れば悪いことだけど道徳から見なければ「いい」ことなのかも. 人間愛からの悪徳教育.

服がダサいことの哲学的分析

服がダサい人の哲学的分析: 服のダサい人は世間的オシャレ基準を知らない場合と知りつつあえて背く場合がありうる. 前者の場合まあ服屋のマネキンの観察なりすればいいだけだが後者は自分にはダサいと思われる服装を世間的オシャレを達成するために用いなければいけないのだから苦しいだろう. たとえば私はたぶん韓流の影響だと思われる「カジュアルでズボンにシャツを入れる服装」のよさがわからない.

世間的オシャレ基準を知らないからダサい人は「認識論的にダサい」のであり, 世間的オシャレ基準を知りつつダサい人は「存在論的にダサい」ということ.

ちなみにオシャレの問題だけでなく性的指向についても同様. 異性愛者は同性愛感情がわからないのではなく同性愛感情を持っていない. 認識ではなく存在の問題.

記憶と人格

なんで記憶が人格の同一性にこんな大きな関係を持つ (ように見える) んだろう? そもそも時間の流れるこの世界が記憶なしには成立しないから?

家事の中昭和天皇の写真を守った教師の話を聞いたことあるけど, 「昭和天皇の写真」が「人格」だったと言えるのかな?

情動説は誤っていると思う

祖母が軽度の認知症なのだが, 親戚と世間話をしているときに「自分でそれがいいって決めた進路なんだから文句言うのはおかしいわよねえ」とか「自分がされて嫌なことはしちゃダメよねえ」と言っていて, 庶民でも道徳判断の際には前提に依拠する論理性を使うのだから実情の記述としても情動説は誤りだろう. もちろん「なぜ自分がされて嫌なことはしてはいけないのか」と尋ねることはできるし, それに答えることは多分できないのだけれども.

哲学には異様に勉強が必要

「勉強と研究は違う」と (人文系) 研究者はよく言うが, (西洋) 哲学という分野ではなんだか異様に「勉強」が必要だね. まず英仏独羅希の語学勉強, ギリシア以来の古典哲学書の勉強, その古典を解釈する現代論文の勉強, 現代哲学で行われている議論の勉強など.

あと人文系全部そうだが「先行研究」は当然年々増えていくのでいつか人類の能力と寿命が不足する. 巨人の肩に乗ろうと思っても巨人が高くなりすぎて登りきれないし, 登ってる最中にも巨人は発育を続けてしまっているので追いつかない. 実際もう生物学的脳なんか捨てて半導体の速度で思考する「AI」になってしまいたいけどね.

科学哲学と哲学科学

「科学哲学」はあるが, 「哲学科学」はないのかな? あるだろう. というか, たとえば「カント学」とかは実際にもう哲学科学 (科学というのは文系も含む Wissenschaft) だろう. でもそういう文献学的意味だけでなく, 道徳の科学的解明なども哲学科学だろう. 記述倫理学がそう ?

哲学的につまらない道徳の起源: 発達心理学, 文化人類学, 社会心理学, 歴史社会学, 生物学等々で明らかになるだろう. 哲学的に面白く道徳の起源を語ることは可能か ?

「Duhem–Quine These って倫理学に応用できるのでは!?」というメモが残っていたのだが詳細を忘れてしまった. たぶん「前提条件が無限に必要」という点で道徳と同じなのだろう. だんだん思い出してきた.

生命倫理について

日本の「いただきます教」にはめまいがする. なんで「いただきます」と言ってから生き物を食べるのと言わないで食べることが道徳的に重要な違いなのだろう? じゃあ命をいただきますと言ってから脳死患者から臓器をもらったり受精卵をいただきますと言ってES細胞を作ればいいじゃないか!

Hans Jonas って「グノーシス研究の人」だと思ってたら生命倫理学の論文集に大御所として出てきて驚いた. D. W. Ross もてっきり Aristotelēs 研究者の人だと思ってたら倫理学の教科書に義務論のお偉いさんとして出てきたときには驚いた. みんな多才ですね.

「中絶は殺人だ」と言う人は少なくなく, 「正当防衛だ」と言う人も少なくないのに, 「胎児は母親に危害を与えたから中絶とは死刑なのだ」と言う人は聞いたことないのはどうしてなのかな? あと「中絶が殺人なら流産は過失致死じゃないか」と言う人も不思議といない.

宗教 (教会) も中絶とかLGBTQとかばっか槍玉に上げてないで「姦淫してはならない」とか「離婚してはならない」とか「婚前交渉してはならない」とか「心で女を犯したならもう犯したのである」とか「自慰は罪である」とか, そういうもっと根本的な教えを説けばいいのに.

「私にはタリバンが道徳的に見える」と言ったら倫理学者に絶句されそうだ. でも「タリバンは不道徳だ」というのは「我々の道徳規範と合致していない」という意味であって, 私が言いたかったのは「やたらめったら (イスラーム的) 道徳を重視している」という意味での「道徳的」.


Image by dae jeung kim from Pixabay

「体にいい」って何 ?

私は「この食べ物は体にいい」という言葉を聞くとイライラしてしまう. 「体にいい」の定義とはなんなのか? どういう意味で, どうして, どのように, どれくらい体にいいのか? 基本的にバランスよく食事して適度な運動をすること以上に「体にいい」ことはないと思うが……

E. Husserl と John Lennon

Imagine there’s no heaven / It’s easy if you try / No hell below us / Above us, only sky / Imagine all the people / Living for today

John Lennon の Imagine は Husserl の批判した自然的態度そのままだ. しかし西洋産倫理学を相対化するにはあえて自然的態度から考えることも必要だと思う.

つまり, 倫理学という分野では非自然的態度が主流すぎるので, あえて自然的態度, すなわちガリレイ的態度を取る方が新鮮だということ.

Über Nietzsche

『ちいさい秋見つけた』という童謡があるが, Nietzsche の「ちいさい悪見つけた」と言わんばかりの偽善発見力は才能の域だ. 一番すごかったのは「キリストや聖母マリアはなぜ若いのか. 教会には一番低劣な欲望が持ち込まれたのではないか」というもの.

Aristotelēs の「名言」

Aristotelēs の著作で感動的なのは『カテゴリー論』で「前とは何か」「上とは何か」などを議論していること. 「前とは何か」なんて普通の人はたぶん全然気にしないのに, そこからつまづいて必死で探究する. その点で本当に偉大な哲学者.

人生の選択

応用倫理学なんかに首突っ込まずに「ニコマコス倫理学第6巻の専門家」とか「ニコマコス倫理学第10巻の専門家」とかになってた方が幸せだったのかなあ……

偏見かもしれないけどいわゆる「分析系」の人って, 概念分析というお道具があるからいろんなことに応用できて正直ラクそうで羨ましい.

最近「もうダメ」感が強い. 私の才能もついにここまでか, 感.

『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』

Guy Deutscher『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(早川書房, 2022年) を和訳で読んだが大変面白かった. 哲学ではなく科学, 科学というより科学史に近い本だが, 高校世界史でおなじみの自由党グラッドストンによるホメロス研究以来の個性的な学者たちの探究の歩みが印象的.

青信号の日英差.まず reCAPTCHA でご存じのとおり「信号機」と「traffic light」は指示範囲が異なる. また古典的には日本語で緑も青に含まれる. 言語でなく概念なら双方向で通約可能かもしれない. しかし言語と区別された概念とはなんなのだろう. むしろ言語を一時的に歩み寄らせている?

独り言は言語ゲームなのか ?

言語ゲームって独り言にも当てはまるのかな? L. Wittgenstein もおそらく存在論的理由から後期は発話・会話に多大な焦点を当てたのだろうが, 他者なくして言語って本当に不可能なのかな? たとえば火星探査ロボが土を採取して組成を分析するときあらかじめ決まったプログラムの参照だけでよくないか?

Auther–date に反対

auther-dateに反対. 一番の理由は煩瑣だから. たとえば「Elius (2023)」とあったとして, その文献名を知りたいとき読者は文献表を見る必要がある. 書籍の場合文献表があるのは本全体の末尾なのか章末なのか確かめなくてはならない. その間に綴りと年号を忘れてもう一度元の頁を見るかもしれない.

青春の日々

中学生の修学旅行で座禅を体験する時間があったのだが, 公立なのでさすがに憲法は守らないといけないのか, バスに残り待機する選択肢もあった. ただ残ったのがヤンキーしかいなかったので参加した. でも自分は当時「敬虔な無神論者」だったからかなり葛藤はした.

高校のころ国語の先生が授業中「反比例」という言葉を使ったので, 「いや, それは負の相関ですよね? そもそも反比例のグラフは曲線ですし, 例外があるなら係数が負の一次関数でもないですし」と反論したのだが先生からも教室からも少しポカンとされた思い出がある.

象徴的と抽象的

「象徴的」と「抽象的」の区別をするなら, 倫理学の思考実験はだいたい象徴的で, 倫理学以外の哲学の思考実験は抽象的だと思う.

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2023-06-17
BGM: RAYE & 070 Shake “Escapism”


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