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哲学思想日記 2023-W30 — 謙譲語は謙譲表現ではない

2023-07-24/30


倫理

科学が « どこでもないところからの眺め (view from nowhere) » (cf. Thomas Negel) を目指すものなら, 倫理とは « 誰でもない人からの眺め (view from nobody) » であろう.

私の言いたいことはすべて『倫理とは何か——猫のアインジヒトの挑戦』(永井均, 筑摩書房, 2011, 特に pp. 22-7) に書いてあります. (見開き3頁くらいなら引用要件達成しているでしょう)

私は電車に座れない人がこの世に存在することの非倫理性がつらいと感じる. この世界の電車には座りたいと思う人数に十分な座席が用意されていないこと. « お年寄りに席を譲るべき » という格率はそもそも席の数が足りないという世界構造の欠陥に由来している. その世界による根本的な悪によって道徳的善が可能になっているという醜さに耐えられない.

私は復讐感情をあまり持たないようだ. 嫌いな人から危害を被ったとして, その人に危害を返したいと思えない. 危害を与えたくないほどに嫌いであるから.

先週も言った気がするが, そもそも « 悪人 » という概念が理解はできるもののそれを体得しきっていない. 私には他人がちょっと複雑な回転串焼き機 (cf. Immanuel Kant) にしか見えない. それゆえ, 他の倫理学者が « 悪い人間 » と呼ぶ人が « 欠陥ある人間 » にしか見えなくなってしまうようである. 他人を人の皮のかぶった機械としてしか見れない私は人の皮をかぶった怪物なのであろうか ?

悪行の原因が悪い人にあるという見解が « 法学部っぽい » 発想なのかもしれない.

感情や嗜好や選好など脳やホルモンの状態に由来するものに過ぎないのであろう. だからこそそのような当てにならないものではなく道徳法則に従って行為しなければならないのであろう.

哲学

« ギリシア哲学はどこまで哲学か » という主題が気になっている. 後者の哲学は Descartes 以降の哲学という意味でもあり, Kant 以後自然科学から独立した哲学という意味でもある.

なぜ日食の原因が「天照が隠れたこと」であってはならないのか ?

社会

そのうち絶対地形ブームが来ると信じている. たとえば観光名所として考えたとき, 人間の建造物なんてどこも大して変わらないし, 建物は移築することもできる. 他方で自然の地形は簡単に動かせないし人間の思いもよらないような複雑な形を見せる. ゆえに, 地形を観光するブームが来るはずである.

学生運動のように社会に反抗しても何も生産的な帰結は生まれない. 重要なのは社会の反抗者になることではなく社会の支配者になることだ.

就職活動とは花魁道中である. まさしく労働は自己の売却であるから. 選んでもらってカネを稼ぐためには身だしなみを整え, マナーを身につける必要がある.

日本語

手元の辞書にはなぜか「いらす」という尊敬語が乗っていない. 「見える」という尊敬語は辞書に載っているがなぜかマナーの本に書かれているのを見たことがない. どちらも祖母が使っていた. 「来なすった」とも言っていた.

謙譲語は謙譲表現ではない. マナー教室では講師が当たり前のように « 謙譲語は自分を低くする言葉です » と言うしマナー本にもたいていそう書いてあるが, それは謙譲語ではなく謙譲表現の説明だ. 高校の古文の授業で « 謙譲語とは動作の受けてを敬意の対象とする言葉である » と習った. 後者の説明に改善点がないとは言わないが, « 自分を低くする » という解説に比べたら遥かにマシだ.

というのも, 目上の人との会話で « 私の実家へ行く » の « 謙譲語 » として« 実家へ伺う/参る » とは言えないから. 自分を低くする謙譲表現なら相手に対してたとえば « 実家は何にもない田舎ですよ » と言うことができる (なお, 謙譲表現の場合は相手が目上でなくても構わない). 同様に, 取引先に対して « うちの部下に申し上げる » とも言えない.

なぜ « 実家へ伺う/参る » と言えないのかといえば, 敬意の対象が実家という身内になってしまうから. というより, « 実家へ伺う/参る » と言えば, 目上の相手の実家という解釈になろう. これは蛇足の仮説に過ぎないが, 日本語で主語がしばしば省略できる理由の1つは敬語体系が備わっていて, 述部だけで話者と受け手の敬意関係が理解可能であるからではなかろうか.

性愛

Image by AlKalenski from Pixabay

セックスは現世にしか存在しない. というのも, 一方で, 天国にいやらしい物があっては不条理であるから. 他方で, 地獄にきもちい物があっては不条理であるから.

人生

私には個性がないと考えていたが, そのこと自体が個性の症候なのかもしれない. つまり, 私に似た人をあまり見かけないから私には個性がないように感じていたのではないかということ.

小さい頃, 大人はどうしてあまり死ぬのが怖くなさそうなのか疑問だった. 大人になってわかったのは, 大人になるとあまり人生で楽しいことが起こらず, お世話になった人や仲の良かった人も少しずつ死に別れてしまうから, あまり生きていても面白くなくなるということ.

オレはニートになりたいなんて一言も言ってない.

就活を始めたら 37.1ºC の熱が出た. 昔一度就活したことがあるがそのときも ES 書いたら熱が出た.

新興宗教の教団とかに入ったらコミュ力とか周囲の人への感謝とか優しさとか素直さとか一生懸命さとかが身に付くのかな.

人の一生が短い中恐縮ですが.

批評

小田嶋隆氏の文章はどれも大好きなのだが (それで文章を書く仕事に憧れ, ある種その手段として研究職を目指していたところがあるのだがそれはさておき), 中でもたまたま最近読んだこの2017年の『「個性」とはなにか?』というコラムはいかにも小田嶋氏らしい本当に良い文章だ.

小田嶋氏が亡くなったとき, 新聞記事は版を押したように「反骨の」だとか「世相を斬る」だとか的外れなおべんちゃらを垂れ流していて気色悪かった. あえて断言するが, 小田嶋氏は決して反骨でもなければまったく世相を斬ってなどいないし, ましてや「反権力」なんぞではなかった.

私は内田樹が好きなわけではまったくないのだが, それでも内田氏の「小田嶋隆の文章は本質的に説明だった」という追悼文は世界で最も的を射た批評だと思う.

岡:要するに、自分のことにしか興味がないよね、僕たちは。
小田嶋:人の話を聞かないとか、自分の話ばっかりしているとかいうのはね。岡とも話したよね。俺らって本当に自分のことにしか興味がないんだなって。だって、そもそもインスタントコーヒーを100ケース売ることがモチベーションになるか、なんて自問すること自体が、すでに普通からはみだしちゃっているんだよ。これが俺の人生の目標だろうか? なんて、もう1回引いて考える必要のあることじゃないじゃん、普通だったら。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/082600230/?P=4

この, ひたすら自分の話をする姿勢は, 権力か反権力かでしか世の中を分けられない人たちにとっては, 昼の星のように不可視のものなのであろう.

宗教

天国に行ったらたくさん本が読みたいな. あとは野原で追いかけっこして, そのあとお昼寝したい.


2023-07-31
今日の一曲 : ちゃんみな「Can U Love Me」

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