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哲学思想日記 2023-W23 — であるからである; ISO 8601, ISO 639, ISO 3166

2023-06-05/11



宗教

最近読んだキリスト教・教会と同性愛に関する2冊の本 (Alan A. Brash; 岸本和世 (訳)『教会と同性愛 : 互いの違いと向き合いながら』新教出版社, 2001. Jeffrey S. Siker 編, 森本あんり (監訳)『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』日本基督教団出版局, 2002.) の中に指向は罪ではないが行為は罪だと言う人や長期の誠実な同性愛なら良いと言う人がいたが, 私は「非変態の異性愛者だけセックスで気持ちよくなれるなんて不公平じゃないか !」と感じた. なら非変態の異性愛者も生殖に必要最小限の頻度で最小限の快楽を伴う性交以外すべきでないでしょ

私は両性愛的か同性愛的な性向を持っており, なおかつマゾヒズム的性向も持っているが, キリスト教根本主義者なので, 女性と結婚して徳の道を歩きたい. 神中心の価値観においては情欲に基づく恋愛ではなく, 道徳に基づく関係を築くべきだと思うから. 主を愛する夫婦は共に神の子であるから.

Nietzsche はどこかで誰かの本を引用して (探したけどわからなかった) 「聖書の中でイエス・キリストが笑った記述はただの1つもない」と言っていた. これって大変なことだよね.

歩いていたとき, 道沿いの公園に, 着替え中で上半身裸の青年がいた. 私はそれが目に入ってしまったので「神! 神! 神!」「キリスト! キリスト! キリスト!」と心の中で唱えて, 欲情しないようにした. ところで心の中で唱えるとはなんなのだろう? 私は私が心の中で唱えるのがわかるが, 他人も唱えるのか?

修辞

「である調」で理由を述べるとき, 「〜であるからである.」とすべきなのかいつも悩む. 「〜だからである.」の方が簡潔だし自然に聞こえるけど「である調」と「だ調」って混在していいのかね ? でも「である」が2つあるのも冗長に見えるし. 私的な文だと単に「〜であるから.」で終えたくなっちゃうけど.

倫理

道徳的に悪いから制裁 (法的刑罰や社会学的行為) が下るのではなく, 制裁が下るから道徳的に悪いのではないか?

「なぜ野菜を食べるべきなのか」という問いには「健康のため」と目的論的に答えられ, 究極的目的は幸福だということになる (ニコマコス倫理学). 「なぜ善行をすべきなのか」という問いも同様に解くのが古典古代の eudaimonism. ここでは道徳を幸福に下請けして説明しようとしている.

道徳主義的誤謬という言葉を初めて知ったが, そして検索して出てきた「バーナード・デイビス」のWikipedia記事の主旨がよくわからなったが, これや欲求主義的誤謬には何か宗教性を感じる. 救われるべきなら救われており, 救いを求めているなら既に救われているという. 私が宗教的なだけかもしれないが.

ただ道徳主義的誤謬や欲求主義的誤謬は自然主義的誤謬よりも「陥りにくい」のではないか. なぜなら「である」という事実に蓋をするのは難しいから. むしろ誤謬に陥っている状態が「私が思うにこうである」という事実を作り出し, 新しい事実が生まれている ?

当初の私の問題意識は, 「べき」という命題は検証のしようがなく, 認識のしようがないということだった. たとえば受精卵を殺すべきでないとして, もし殺したらどうなるのか (cf.『論考』6.422) ? 倫理学は賞罰という事実を用意できないが, 賞罰がないならどうやってそれをすべきか否か判断できるのか ?

倫理学って結局仮言命法しか扱えないんじゃないのか ? 「〜という帰結が嫌ならば…せよ」とか, 「〜という原則に従うなら…せよ」とか.

存在と無, 差異と合同という2組の反対概念を倫理学と形而上学に応用するとどうなるか ?

「働いたらお給料がもらえる」というのも, Hume 的な因果関係の問題と関係しているように思う. 大変申し訳ないのだが, 私には労働の尊さみたいなものをあまり感じない. 働き, そのあとにお給料が振り込まれるとして, その両者のつながりにいまいち熱狂することができない.

諸学

Image by Erik Lyngsøe from Pixabay

「学問分類論」に興味があるのだが, どのくらい研究史ってあるのかな?

科学 (⊃ 自然科学・人文社会科学) と哲学との間の距離よりも哲学と倫理学 (主に規範倫理学のことだがメタ倫理学にも「それでは倫理的直観を説明できない」などと侵入してくる!) との距離の方が大きいと思う. 科学と哲学はただ単に世界のあり方を記述しているだけなのに対し, 倫理学は政治的.

Wittgenstein は『青色本』で哲学者が科学に誘惑されがちであることに警鐘を鳴らしていたが, 誘惑に一番まんまと屈しているのが Aristotelēs だろう. Platōn の方がマシだがそれでもたまに科学的話題になってしまっている.

独在

René Descartes はなぜ「誰かが思う (cōgitat?)」ではなく「われ思う (cōgitō)」と言い, 「誰かあり (est?)」ではなく「われわり (sum)」と言うことができたのか ? なぜ取り違えなかったのか ? それは (この意味で) 思考しているのはいつもわれだけであり, 存在しているのも常にわれだけだから.

標語

「性行為は不衛生行為」というスローガンを広めましょう !

自己分析

ISO 8601 普及委員会会員なので普及させたい (あと ISO 639 普及委員会, ISO 3166 普及委員会, USB-C 普及委員会にも入っています).

こないだ自己分析した結果突然分かったこととして, 私は宗教というものが大好きであり, そのため宗教哲学を勉強した方がいいかもしれないということがあった.

その他

日本のキリスト教徒のすごいところはいまだに踏み絵を恨んでいること.

『ウィトゲンシュタイン全集2 : 哲学的考察』の月報の廣松渉の「ヴィトゲンシュタインには日本将棋を教えたかった」から始まるコラム (?) は目を見張るほど面白い.


大修館書店『ウィトゲンシュタイン全集2 : 哲学的考察』の月報

2023-06-21
BGM: BTS, “‘고민보다GO (GO GO)”


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