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哲学思想日記 2023-W27 — 教員免許について

2023-07-03/09


哲学

Ἀριστοτέλης を読むと I. Kant を読みたくなってきてしまう. Kant だったらどう言うかなといちいち考えてしまう.

昔, 新聞か何かの人生相談欄で中学生から「付き合うって何することですか」という質問が来ていて, 回答者は「大人にも難しい問題です」と答えていた. しかし今から思えば「付き合う」というのは関係カテゴリーなのであって, 行為の属するカテゴリーとは異なるのでは ? つまりこの質問はカテゴリー錯誤だったのでは ?

昔言語哲学の授業を受けていて思ったこと : ここで扱っている問題は言語についてのものなのか, それとも世界についてのものなのか ?

John Arthur Passmore『分析哲学を知るための哲学の小さな学校』を読んで思ったこと :

どうやら Derrida の archi-écriture は〈私〉問題を扱っているらしい. 読んでみようかな.

なぜ幼児は音と声を区別できるのか ?

Noam Chomsky の独創性は統語論に専念したところにあったのか. たしかに “言語哲学” ってほぼ意味論しか扱っていなくて事実上 “意味の哲学” 状態にあるもんね.

ἐπιστήμη と δόξα はいかにして区別可能か ? L. Wittgenstein は『青色本』で “何かが見えているなら見ているのはいつも私だ” と独我論者に語らせているが, “何かを知っているなら知っているのはいつも私だ” とも言えないのかな ? たしかにある意味では私以外の他者も知識を持つが, しかし哲学という営みは “他の誰でもなく真にこの私が知りたい” という渇望を持たなければ生まれようがないであろう.

後期 Wittgenstein は難しい. 哲学がお嫌いなのは伝わってくるのだが, 『確実性の問題』などは本当によくわからないし, G. E. Moore はじめ分析哲学の文脈を勉強した方が良さそう.

知識人という存在も各地域と時代の言語ゲームの体系の中でその意義が決まるのであろう.

私は哲学者の歴史に関心がある. 19世紀にはなんで Hegel 等々のように哲学者が社会的影響を持ったのか. 20世紀にはなんであんなに現代思想が影響を持ったのか. おそらく社会構造等の観点から理解ができるのであろう.

矛盾して何が悪いのか ? 私が道端で “P ∧ ¬P” と叫んだとしよう. そしたら何が起こるのか ? そう叫んでも地球は回っているであろう. 何も起きないであろう. 世界は滅びない.

我々はたとえば語学の授業で “掛かる” とか “受ける” とかの動詞を使って言語の文法自体を吟味できる.

倫理

ホストのトラックって SDGs の意識とかどうなっているんだろう ?

倫理学の根本命題 : 褒められる行為は善く, 叱られる行為は悪い.

人生

Image by Annette Meyer from Pixabay

私は文学部というものが非常に好きなようだ. 文学部は良くも悪くも広大で寄せ集め的だが, なぜかその中のいずれの学問分野も私は好き. まあ自然科学も嫌いではないが単によく知らない.

私には “悩み癖” がある.

神話に文芸の観点から関心が出てきた.

“つましい” という言葉を初めて知った. ずっと “つつましい” だと思っていた.

司書か学芸員か教職の資格とっとけばよかったな. ただ学部1年のとき教職の説明会に行ったら “所定単位が多いし教育実習が企業の面接時期と重なるから保険感覚ならやめた方がいい” と言われて, それがまさしく親から “保険として取っとけ” と言われた直後だったから, 取るのやめたんだよね.

吃音があって, ちょうどその時期応募した塾のアルバイトも, 今でもはっきり覚えているが研修で “was” の /w/ の音が出てこなくて, 私にはこの仕事はできないなと思って初出勤日前に辞退した. だから教職も同様に難しかったのかもしれない. でも人に教えるの好きだけど.

手に職をつけるのは大切.

しかしもしあのとき教職課程を取っていたらそのあとどうなったのだろう ? 教師として働いていた ? この文章は可能世界意味論を前提としないと理解できない. 少なくとも21世紀の日本人にとっては B. Russell の確定記述の方が反直観的で面白いし, Russell が元々 Hegelian だったせいか何か聖性すら感じるが.

人と話すのが苦手.

就職自体はしたいが就活が嫌い. どうして学部時代就活が嫌になって挫折したのか思い出した.

私にとって哲学とは傾向性である. 頭が勝手に働いて哲学的問題を考えてしまう. しかし, 哲学とは所詮言語使用の混乱に過ぎない. 他にも使えるかもしれない才能を哲学に浪費してしまっているのは倫理的に悪である. ゆえに, 意志の力で傾向性に勝って就活しなければならない.

まあ正直に言えば学部1年次のときは自己を過大評価していた. 教職よりもっと上の職業に簡単につけると思っていたから. というかそもそも教職説明会って科目登録の前にあったんだっけな ? 後にあったら意味ないので前にあったと信じたいが.

端的に言えば私はお金持ちになりたかった. 教師という職業ではお金持ちになれないと判断した. お金持ちになれないなら有名人になりたかった. 教師という職業では有名人にもなれないと判断した. ただそれだけ.

夢の中で本を読んだり哲学的議論をしたりすることがしばしばある. 最近は夢の中で L. Wittgenstein の日記を読んだりフランス語の勉強をしたりした. 昔は夢の中で “でも今この現実が夢ではないという保証はないじゃないですか !” と叫んだこともある.

覚書 : 東京学派についての研究を参照する.

非常に傲慢な言い方をすれば L. Wittgenstein が『論考』を書き終えたあと小学校の教師になったときと今の私は似た感情だと思う. 倫理学の問題は完全に解消した. 倫理学以外の哲学の問題は見失った.


2023-07-13
BGM: Favé « Urus »


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