国葬なんてどうでもいい。安倍さんがかわいそうだ。
国葬とか、どうでもいいと思う。国葬がどうのこうのみたいなニュースばっかりで、安倍さんを偲んで静かに悲しむようなムードじゃないのが故人にとってあまりにもかわいそうだと思う。
なぜこの記事を書く気持ちになったかと言えば、ふと思い出して、小田嶋隆氏と岡康道氏の対談の中の大好きな一節、
岡:要するに、自分のことにしか興味がないよね、僕たちは。
小田嶋:人の話を聞かないとか、自分の話ばっかりしているとかいうのはね。岡とも話したよね。俺らって本当に自分のことにしか興味がないんだなって。だって、そもそもインスタントコーヒーを100ケース売ることがモチベーションになるか、なんて自問すること自体が、すでに普通からはみだしちゃっているんだよ。これが俺の人生の目標だろうか? なんて、もう1回引いて考える必要のあることじゃないじゃん、普通だったら。——小田嶋隆・岡康道『「夢」と「離婚」と「セカンドライフ」と』2007-12-21 (初出)
という文章が収録されているページを探していて、そのついでに小田嶋氏への追悼文を読んでいて、気持ちが高まり、死者を弔うことについての文章を書きたくなったからだ。
これから、国葬はどうでもいいという文章を書く。
一般論として国葬はどうでもいい
まず、もちろん政教分離とか、国葬一般についてどうでもよくない問題はあるものの、それでも特定の個人について死んだ後で国葬を上げるか否かみたいな議論が起こるのが馬鹿馬鹿しくて、呆れてしまう。
国葬なんて、首相(あるいは両院議長や最高裁判事)経験者全員に平等にするか、平等に全員やらないか、どっちかでいいじゃないか。なんでこんな本当にどうでもいいつまらないお話ばっかり真面目な顔してできるのか、意味がわからない。
特殊事例においても国葬はどうでもいい
次に、安倍さんという事例においても、やはり国葬するかどうかなんてどうでもいいと思う。
「弔問外交」という言葉があるらしい。なるほど外交政策から見れば国葬はどうでもよくない問題なのだろう。けれど、人が一人死んでるんだよ。本当に安倍さんを弔いたいと考えている人は、その場を外交の舞台なんかにするだろうか。
一度失われた命はもう二度と返ってこない。安倍さんはもう帰らぬ人になってしまった。その事実を前にして、国葬をするとかしないとかで揉めて、何になるのだろう。
私はあの事件についての情報を聞いたとき、「安倍さんも、残された家族も気の毒だ」と思った。
正直に言えば安倍さんはあまり好感を持てる政治家ではなかったし、首相在任中は、選挙や経済政策には強いのだろうがもう少し倫理観やリーダーシップを持ってほしい、と思っていた。辞任して後継が岸田さんになったときには少し安堵も感じてしまった。
けれど、やっぱり殺されるのはかわいそうだ。ただ、このように言うことしかできない。
戦後初期、死刑の合憲性が争われた「死刑制度合憲判決事件(昭和22(れ)119)」(『刑集』第2巻3号191頁)の判決文において、裁判官は「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。」と述べた。
私も、安倍さんの生命は全地球よりも重いものだったと思う。
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