ロシア産くにおくんが想像以上におっさんの思い出にぶっ刺さる話
まえがき
こどもの頃、僕らは「くにおくん」シリーズで友情を育んだ。
いや、正確にはたまに人間関係に亀裂を入れたり取り返しがつかなくなったりもした。だってれいほうを使うアイツが悪い。
ともかく、おおむね楽しい思い出をたくさん残したように思う。
今回、ゲーム感想文コンテストにエントリーするにあたり、くにおシリーズのファンメイド作品「The friends of Ringo Ishikawa」を題材に、同作から新しい視点を与えられた話をしたい。
The friends of Ringo Ishikawaとは
ロシアのインディーゲームスタジオyeoによって開発されたアクションRPG。
昭和の香り漂う町並みを舞台に、不良の番格「石河倫吾」とその仲間たちの物語を描く。Ringo=倫吾だ。林檎ちゃんではない。無念。
製作者はロシア人だが子供の頃に「くにおくん」シリーズをプレイし、その愛ゆえにファンゲームである本作を開発。日本の町並みや不良文化、台詞回しにいたるまでを本邦もびっくりの精度で再現している。間違いなく中身は日本のオッサンだ。
※補足「くにおくん」シリーズとは
テクノスジャパンによって主にファミコンにて展開されたアクションゲームシリーズだ。プレイヤーは正義の熱血硬派くにおとなり、ときに悪の不良と戦い、ときにヤクザをシバき、ときにスポーツ大会に汗を流す、涙とは無縁の痛快活劇だ。筆者のように心技体揃ったおっさんになりつつある人間にはスマブラ並の必修科目だが、以後本稿は読者もシリーズをご存知であるという体で進める。知ってるやろ?な?
※熱血硬派くにおくんシリーズ
プレイの流れ
プレイヤーは石河倫吾として、彼とその友人たちの高校卒業を控えた一年(正確には2ヶ月ほど)を体験する。
一日のうちにプレイヤーは何をしてもよく、通学・自習・部活・バイト・筋トレ・読書・映画鑑賞・ビリヤード通い、そしてもちろんくにおらしくそのへんの他校のチンピラをぶん殴って金を巻き上げてもいい。食事や就寝・起床時間すらも自由だ。圧倒的自由。僕もこんな生活したい。
これらの行動にはいずれも何かしらのコストやメリットがあり、ときメモばりに多種多様なパラメータが上下動するが、一方でこれらにはほとんど説明がない。どこに行けば何ができるのかは掲示板や人の話、あるいは自分の足で開拓するしかなく、パラメータが上がれば得られるメリットは自ら気づくしかない。
※ステータス画面。これ以外にも多種多様な効果が存在する
チュートリアルなどという近代文明は存在せず、イベントマーカーなど夢のまた夢といった本作だが、唯一の例外は人のぶん殴り方だ。これとメインメニューの開き方だけは親切に教えてくれる。惑星ベジータか範馬家でのみ許される教育方針だが、残念ながら倫吾くんは戦闘民族の血が薄いらしく、チンピラ3人に囲まれればもう勝ち目はない。仕方がない、仲間を連れて盾にしてぶん殴ろう。不良の戦いも数だよ。
あふれる無駄と愛
前項で「何をしてもいい」と言ったが、その逆も真だ。つまり、何もしなくてもいい。
特に喧嘩に明け暮れなくてもストーリーは進むし、エンディングにステータスによる分岐条件はない(致命的な失策でバッドエンドはあるようだが、見たことはない)。要所でイベント戦じみたものはあるが、それらはこれまでの育成結果を問われるようなものではない。要は、なにをしてもしなくても見られるエンディングに違いはない。何をしても得るものはあり、同時に無駄だ。
しかし無駄だからといってただ制限日数を寝て過ごすにはこの世界は魅力とこだわりに溢れすぎている。今からその一端を紹介する。
まずは風景だ。ドット絵風に描かれているがファミコンのそれよりは数段美しい。ただ歩いているだけでも目を楽しませてくれるが、各所のオブジェクトはインタラクティブなものが多く、ベンチには座れるしベランダや柵にはもたれかかれる。桟橋では縁に座ることもできる。黄昏れている絵面が多くなるのはそういうお年頃だ。ちなみに校舎のガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したりはできない。
不良らしく無為に時間を使うことももちろん可能だ。
バーに入り浸ってビリヤードやポーカーに耽り、街をくわえタバコで歩いて所構わずポイ捨てる。ゲーム的には不必要な要素だが、これらの作り込みに世界への愛が垣間見える。
ちなみにビデオポーカーはもし勝てれば儲けが出るが、ビリヤードと喫煙に関しては無駄どころか有償であり、ステータスも一切上がらない。娯楽行為は時間の無駄だとシステムから突きつけられて凹むが、喫煙で体力が下がらないだけマシか。
最後は授業中だ。ただ授業を受けているだけなのに、なんと十字キー4方向+ニュートラル+Aボタンで都合6パターンのドットを用意する熱の入れようである。右ヒジと左ヒジを交互につけば2700ごっこも可能だ。やったぜ。
余談だがこれらボタン操作も例によって一切の説明が存在せず、Aボタン(勉強)以外のポーズを取っていると授業が終わってもステータスがほぼ上昇しないので貴重な半日が時間の浪費に終わる。勉強しなければ知力が上がらないのは当然といえば当然だが、このゲームの落とし穴の一つだ。しかし、だからといってこれらこだわりのポーズたちを罠と憤る気にはなれない。これもひとえに不良の日常を表現したいがためであり、無駄の充実こそが世界を鮮やかに彩るのだ。
空気の違い
ここからは少し真面目に、ゲームをとりまく空気の話をする。
これまでの説明で皆様は同作をくにおテイストのまま日常を送れるゲームだという印象を受けたかもしれないが、実態は大きく異なる。
くにおの世界をとりまく空気が初夏の陽気だとすれば、倫吾の世界は木枯らしの吹き始めた晩秋のそれだ。
※OPからろくでなしBLUESも真っ青の荒みっぷりを見せる
倫吾と仲間たちは他校の生徒と乱闘を繰り返すが、そこに冒険活劇の明るさはない。彼らはもはや原因も行く末もわからない、大人にとってはとるにたらないと言えるような抗争を続けながら、各々漠然と将来に悩み、怪我に苦悩し、ときに友情に亀裂を走らせる。
※冒頭の時点で倫吾の友人たちはそれぞれ漠然と将来を考えている
また、少々ネタバレになるが、彼らの友情の行く末は円満とは言い難い。本作のタイトルの意味を強く考えさせる、苦さを含んだものとなるのだ。
モデルとなった作品のお祭り騒ぎぶりを知るものからすれば同作の作風には戸惑うことはまちがいなく、結末を受け入れられない人もいるだろう。
非日常と日常
突然だが、ハレとケという概念をご存知だろうか。
ハレとは「ハレの日」、婚姻や祭に代表される日常的ではない特別なイベントの日であり、つまりは非日常を指す。
対してケとは昨日も明日も変わらない、特別のことのない普通の日常を指す。
くにお愛を公言する作者が作るファンゲームがどうしてこうも暗く重い物語になるのか。2つの物語の構造を考える時、くにおは常にハレの世界であることに対し、倫吾は徹底的にケのみが描かれていることに気づく。
では、なぜケの日常しか描かれないのか。
その根幹は「悪の不在」だ。
※くにおくんの舞台の裏側には、常に悪役がいた
だが、倫吾の世界に悪役はいない。倫吾が向き合うのはあくまで他校のチンピラや自らの人間関係であり、自らを逆恨みして復讐の策を練るサイキックも、不良撲滅を目指し暗躍する御曹司もいない。他校の強者を倒したところで抗争は続き、劇的な変化は訪れないのだ。しかしその一方で将来を前にした倫吾の友人たちはそれぞれの道を歩み始め、不良の価値観から抜け出せない倫吾と袂を分かち始める。
皮肉なことに彼ら悪の存在によってくにおの日常はハレに満ち、彼らの存在しない倫吾の世界はケに取り残されるのだ。
※不良としてのの日常を貫く倫吾と、変わり始めた友人たち
だが、倫吾の世界は同時に「くにお自身もハレの日以外は案外こんなものなのかもしれない」という想像の可能性をも示した。
思い出の中のくにお
くにおの影としての倫吾
くにおの世界は断絶していた。
年を取り距離を作ってしまった僕や旧友たちと違い、彼らは永遠にネバーランドにいる。思い出の中で輝きつつも、やはりどこかで自分たちとは離れたものとして感じざるを得なかったのだ。
しかし、倫吾の登場は別の可能性を示した。倫吾の世界は徹底的にくにおの裏側だ。敵が居ない if の世界と言ってもいい。その世界で彼のモラトリアムは尽きかけており、苦悩と挫折を味わいながらも不良としての生き方にしがみついている。僕はそんな姿を通してくにお達の日常を思い描き、思い出の中の愛すべきツッパリたちが急に人間味と身近さを得たような気がするのだ。
あるいは製作者の語りたかったことも同様に、思い出の中でじっとしているままのキャラクターたちに将来の可能性を与えることだったと考えるのは感傷的にすぎるだろうか。
倫吾の世界は懐かしくもほろ苦い。
エンディングを迎えても数日はその結末の意味を考えてしまう。この苦さも味わい深いが、裏の苦味を味わったあとはやはり表で口直しといきたいところだ。
次に旧友と会うときは昔を思い出してプレイを提案してみようか。受け入れてもらえると良いが。
だが、れいほうを使うのは僕だ。
出典:
The friends of Ringo Ishikawa - ( Switch / Steam )
くにおくん ザ・ワールド クラシックスコレクション - ( 公式サイト )
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