床の傾いた部屋
床の傾いた部屋に住んでいたことがある。
NYのセントラルパークの向かい、ハーレム地区の角にあるアパートの一室だった。
安さに負けて契約した部屋(ルームシェア)。
歩いて10分も離れていないのに、たぶん同じ駅を使うだろうに、アッパーウェストの部屋は、ここより150ドルも高かった。
床が傾いていることに、最初は気づかなった。
なんだか様子がおかしいなぁ、疲れているのかなぁ、ふらふらするなぁと思うこと数日。
ふとした瞬間に床が傾いていることに気付いた。
床が傾いているんだと認識できれば、もう大丈夫だった。
大雑把な性格は、こういうところでは役に立つ。
建物も中もきれいとは言えないアパートだったが、駅が近く、入居の条件として設置してもらったネットも快適だった。
薄暗くて黄ばんでいながらも、バスルームはまめに掃除されていた。
建物入り口のカギをまともに開けられたことがなかった。
ガチャガチャしていると誰か住人が来て、慣れた手つきで開けてくれ、後ろをついて中に入っていた。
大きなアパートだったので住人も多く、入れず困ったことはなかった。
大家がパラノイアのようだった。
彼の部屋は一番奥にあり、その部屋の中がどうなっているのか、長年部屋を借りているもう一人の女性も知らないという。
謎の人物だった。
ときどき彼の部屋から大音量でヒップホップが聴こえてきた。
ご機嫌なのかハイなのか。
そんな感じの1週間を過ごしつつ、彼の不思議な行動を観察しつつ、とくに危害が及ぶことがないので、まあいいかなと思っていた。
このアパートの一室には数年間ここに住んでいる女性がいて、彼女曰く「彼の言ってることはわからないこともあるけど、危ないことはない」とのことだった。
ところが、語学学校で一緒だった友人がわたしの隣の部屋を借りて入ってきてから、状況が一転。
彼女はNYに来たのは初めて。
なのに、彼女が来た日から、大家は取りつかれたように同じ文句を繰り返すようになった。
「彼女は前にうちの部屋を借りたことがある。彼女は俺のヒミツを知っていて、名前を変えて戻ってきたんだ。なんてことだ!」
この時点で、私はNYに来て1ヵ月も経っていない。
うすらぼんやりとした語学力で生きているのに、この話ははっきりと聞き取れた。
じょじょに大家の挙動が不審になってきた。
先輩女性は大丈夫だと言う。
一方、当のスパイ容疑をかけられている彼女はあっけらかんと気にしていなかった。
とくに危ないことがあったわけではないが、まだNYに渡って3週間ほど。
部屋の安さで決めちゃいかんなと、NYで知り合った頼りになる友人に相談をして、ちがう部屋を見つけて引っ越すことを決めた。
そのことを大家に伝えたところ、わたしの入居の条件のために契約をしたネットの違約金を支払うならということで了解を得た。
文句は言われたが、それはごもっともだった。
ただし、その日から数日間、アパートの外から彼が井戸端会議でわたしの悪口を大きな声で言っている声が聞こえるようになった。
その内容を、おぉそこまで言うのか~なるほど~と感心しながらベッドに寝っ転がって聞いていた。
ハッと気づいた。
うすぼんやりとした私のリスニング能力は、明らかに上がっている!
彼の言っているわたしの悪口の内容がすべて分かる!
うれしいような、うれしくないような、うれしくなくないような!
どっちなんだろう!
果たして、無事にこのアパートから、治安のよい静かなアストリアへと引っ越しをした。
この床の傾いたアパートの鍵を上手に開けられることはなかった。
ストリートビューを見ながら。
あの大家さんは元気だろうか。
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