「愛だと思っていたこれが愛じゃなかった!」というゲシュタルト崩壊。〜聖母マリアのコスプレをしたスネ夫〜
人から愛されている、を
「正気で」感じるということ
(正気、ということをもっというと、頭の中や、止まった状態で観るのではなくて、日々の暮らしの中で行動する中で「気がついて」「うわ!」となり「感じる」こと。)
人から愛されていることを、すごくポジティブに受け取り、
そしてその愛を原動力に「その場」で進む
と、明らかに、自分の身体、こころ、動き、に、変化が訪れるんだと思う。
愛の効果効能。それは
40年近く患っていた、ささくれが完治たこと。
寝れていなかったのに「寝れていた」と勘違いしていたこと。(本当は全然寝れてなかったということを、寝られて気がついた。)
「私は大丈夫」仮面がぼろ・ぼろと剥がれたこと。
思考停止した頭がすこしずつ動き出していること。
すぐに攻撃されていると誤認知した脳みそが出来事を「直視」できるようになったこと。
惜しみない愛。愛する人からの愛を受け取った、私の身体。
変化している。着実に。
おそらく、
いままで。
脳みその中で、
「愛される=痛み=苦しみ」
とずっと解釈されて、身体に定着していたので、
私の解釈した「愛を由来とした生き方」は私の中でどこかもう詰んでいて、
そこには恨みつらみ由来成分の愛が80%を占めているのだから、
身体はカチコチに、なり、
もう(誤解した)愛を原動力に生きるということが
できなくなっていたんだと思う。
私が愛、と思っていたものは、あれは確実に愛ではなかった。
つまり恨みつらみ由来成分の愛というのは、
紐解いていくと
・自己顕示欲=よく見せたい・特別でありたい=人のことより自分に矢印が向いている
・承認欲求=みとめてほしい=人のことより自分に矢印が向いている
・自己充足感欲求=自分が、飢え、乾いている状態をどうにかしたい=ひとのことより自分に矢印が向いている
これらを主成分として成り立っている。
巧妙に巧妙に、これがベースにあるのに、
それを「ひとのために」というラッピングをつけて
ひねくれ、ねじれたカタチをつくりあげ、
それを「愛」ということにして、
他者に提示し
「どや!!!!!!」と見せていたんです。
や、それ愛じゃなくてわたしの欲求っす。
ここにいるのは、
聖母マリアのコスプレをして
「みんなのこと愛してます!」と言っている嘘八百女の
そのベールの下に
「もらえるかね?」「これやったらくれるだろ?」
「くれるかね?」「よし!くれ、くれ!」
と言っている意地悪でニヤニヤした痩せたスネ夫のようなやつ。
表面では「自己犠牲してまで愛して、なんて、けなげな私。」とか思っているお花畑のマリアコスプレ女。
裏では「ここまでやってるのだからふんだんに愛を注がれるだろう」
と思っているえげつない乞食みたいなスネ夫野郎。
そこにあるのは「相手に尽くして与えて相手の力を奪う。」ということ。
思い切りこちらが力を尽くして愛を注いだフリをして
相手に私なしではいられない状態にさせて(コントロール)
彼女の愛は無性の愛なのだと勘違いさせ
その状態をキープさせて
相手から思い切り搾取しようと姑息に働く。
その目的は。
ただ、ただ、自分が大事にされたかっただけだ。
私だけ愛されたかったのだ。
相手のことなんて全然考えてない。
相手の未来なんてガン無視して
「マリアコスプレのスネ夫」を思い切りやっていただけなのだった。
ひー、おそろしや。
これを、昨日、まざまざと身体で正気の状態で、気がついた感じがする。
昨日の誕生日に、愛と、欲求、何が違うのか。ということを。
ひとみちゃんはいつだって、愛そのものだ。
ひとみちゃんはいつだって
妖精のように、そう、
ティンカーベルが
「ちょん」と、魔法のマドラーをくるくるして魔法をかけるように
それがひとみちゃんがやったことだということを
みんなが気が付かないレベルで、もしくは気が付かないように
スパイスのように私たちにふりかけていく。
それは、「やったった!どや!!」というものと真逆にあって
「うふふ」といって魔法をかけて、通り過ぎていく。
そしてその後のみんなの成長を、微笑みながら眺めてくれている。
それが愛。
そこには全く自分が不在なのだ。
自分のことよりも、相手の未来が輝くように
自分のことよりも、
みんなの未来を見据えて、
みんなの可能性を伸ばすことに全力投球している。
全力投球。ここにあるイメージよりももっとふわっと軽やかに。
ティンカーベルの全力投球「ふわ!」という魔法のスパイスを
いつだって。
地球全体にまぶしてる。
愛由来で動く。
それは、力んだ身体で動くのではなく
身体の中心から無限に湧き出てくる、静かなあつい熱で動く。
そんな感じがする。
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