渦巻く感情と欲が、「本当に知りたい学び」への道を邪魔していく。ということを素直に認める。
幼少の頃、なぜ大人はお互いを陰で罵り合い、表面上笑顔を絶やさずにいるのか?ということを憂いていた。
小学生の頃、世界はなぜ戦いばかりなのか?ということを憂いていた。
なぜ学校では、こころから楽しい!が実現できないのか。ということを憂いていた。
高校の頃、人はなぜ生きているのか?ということを憂いていた。幸せと不幸がごったに存在する地球の不条理を憂いていた。目の前の友と、日々あほなことで笑い合うことはこんなにこんなに楽しいのに、なぜその時間が永遠に続けられないのか。地球にはなんでこんなに苦しい想いが蔓延しているのか。
大学にあがり、こんなに腐った世の中で、どうして人は平然と子どもを増やすのか?ずっと愛し合えないくせになぜ結婚するのか?自分が不幸なのになぜ子どもを作ろうとするのか。不幸な人を増やすだけではないのか?と考えていた。(その癖自分のあらゆる欲望に負けて結果2度も結婚し、離婚する)
社会人をドロップアウトして、なぜ、人は、親、年長者、経験を先に持った人(先輩)など「上」と呼ばれるひとが偉そうに振る舞うのか。ということを考え始めた。そのことで可能性を踏みにじっていないか。(そのくせ自分は癖で「上」と呼ばれる人にすぐに迎合するし、年下に圧力をかける)。
本当に誰しもが、心から幸せに暮らしていける地球とは、どのようなものなのか。
家族の中で、誰かだけが苦しい思いをしていることがない家族のカタチとはどういうものなのか。
いつも考えていた。幼少の頃に見ていた、
「大好きな人がずっと幸せに笑っているひかりの世界」が永遠に続く方法はないのか。
けれどいつしかその問いは
自分の「欲」と「感情」が飲み込んで
癒着し、形をなくした。
自分が有名になりたいとか
自分が褒められたいとか
自分が愛されたいとか
自分が楽したいとか
そういう欲。
可愛い子に嫉妬するとか
満たされなさから人にマウントを取るとか
バカにするとか
茶々を入れて誤魔化すとか
拗らせまくった感情
拗らせた感情たちは、
自分を生きさせない・世界を平和にさせないために、
手を変え品を変えて、自分を邪魔してくる。
そしてそれは、メディアから。
文化から。その邪魔を強化してくる。
お笑い、などは最たるもの。
わたしが拗らせまくったのは
自分が「バカにされるキャラクター」。を、選び取ったこと。
自分を蔑む行為が常套化し、
自尊心を踏み躙ることに対して感情を麻痺させた。
「いじられるキャラクター」
「茶化されるキャラクター」
「できないドジなキャラクター」
を延々定着させることで
みずから相手をコントロールして
ほら、わたしできない、ダメな子なので、やってください。
と、相手を巧みにコントロールすること。
できないわたし、を貫けば、人の関心をひいて、
ひとが笑ってくれる。という謎な認知を定着させた。
自虐を定着化させ
人から支配させるような構造を自分から作り
自分を無力化させ
被害者意識を定着させて
意地汚く生きる。
よく見ろ、わたし。
ひとをコントロールしまくって、蔑ませるのもいい加減にしろ。
幼少の頃のひかり由来だったころの夢を思い出せ。
自分で自分を殺してる暇なんて、ないぞ。
お前は何しにここに生まれついたのか。
地球上の
すべてのひとが
こころから楽しい!優しい世界をつくる。
それだけに生きろ。
それができる世界だとおもったから、
在る森のはなしに身を置いているんじゃないのか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?