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“完璧なセットリスト”とは何か──200曲以上の引き出しを持つGRAPEVINEが設計した今

7月8日、Zepp DiverCityで行われた「GRAPEVINE tour2021」を観た。

この日は、東京に4回目の緊急事態宣言発令が宣言された日。適用は7日12日以降ではあったものの、「もしかするとライブがキャンセルになってしまうのではないか」という直近の不安と、「いつまでこんな日々が続くのか」という将来への不安を改めて覚えた瞬間でもあった。

雨のなか、お台場へ向かう。なんとか無事にライブが開催されるという安堵もあったが、私にはなぜか疲弊感のほうが大きかった。天気に誘発されたのかもしれない。

でも、きっと多くの人が1年以上、こんなことを繰り返しているのだ。

この日は田中和将(Vo・G)曰く「ツアーの中締め日」。最新アルバム『新しい果実』を引っさげ、6月12日の福岡公演を皮切りに7都市を巡ってきたツアーは、ここからおよそ2ヵ月の小休憩に入る。とはいえ、東京公演を含む9月のライブが無事に行われる保証はどこにもない。実質これがツアーの最終公演になるかもしれない。

なので、このライブで感じたことをここで一度まとめておきたい。本記事では印象的だった3曲のみをピックアップするが、そのネタバレすらも避けたいという方はここでブラウザバックしてほしい。

声を上げることもなく、1階最後列からステージを見つめた2時間。私が感じていたのは、これが「完璧なセットリスト」であるということだった。

ライブにはさまざまなセットリストがある。盛り上がるセトリ、ドラマチックなセトリ、古参が喜ぶセトリ、ある種合理的なセトリ…… そこに決して優劣はなく、どれもがベストなセットリストだろう。しかし、その「ベスト」をも凌駕するセットリスト、それが組まれていたのが今回のZepp DiverCity公演だった。

「完璧なセットリスト」を別の言葉で言い換えると「必然性」ということになると思う。

必然性は、偶然性の反義語と捉えられることが多いが、自由と対比されることもある概念だ。つまり「その選択以外は存在しなかった」という状態である。

今回のライブは、GRAPEVINEが既存200曲以上のなかから「ここでこの曲が歌われるべきだった」という必然をとんでもない精度で当て続け、トータルで「あのセットリスト以外はなかった」と感じさせるという意味で完璧だったのである。

まずは序盤に披露された”SUN”。1999年発表のアルバム『Lifetime』に収録されている曲だ。

タイトルである”SUN”はSON(息子)とかかっており、サビでは、その次世代の存在に対して《見えるかい?》《理解(わ)かるかい?》と問う。しかし、この曲が向けられているのは一貫してパートナーの《君》であり、そんな君を含めた《僕等》だ。

というのも、アルバムがリリースされた1999年当時、田中はまだ25歳。長男はおろか、第一子である長女すら生まれていない。つまり、パートナーとのこれからを思い描くなかで子どもの存在にもふれているという印象だ。

その文脈のなかで、Cメロでは《遠いはずの明日の為に》《生まれ落ちた子供達の為に》と歌われる。ここが22年の時を経て、このご時世に歌われる必然性に繋がる。

GRAPEVINEは3月17日、アルバムの告知に先駆けて新曲”Gifted”をリリース。この曲は、声すら聞いてもらえない弱者である《若い私》の視点で、《狩る者と狩られる者と/ここでそれを嗤っている者》といった生々しい世界が描写される。したがって、"Gifted"はコロナ禍の世情と結びつけて解釈されることが多い。

しかし田中は、今私たちが感じている「生きづらさ」はコロナ禍でわかりやすくなっただけだと語っている。いわゆる「社会的弱者」として子ども時代を過ごした彼には、この世界の生きづらさは決して目新しいものではなかっただろうし、3人の子どもの親である今、そのことから目を逸せないのも自然なことだ。

それは、この時代に居合わせた私たち大人もきっと一緒だ。この混乱のなかで露呈した、大人が関与する「生きづらさ」の要因に対して、それぞれの形で落とし前をつけなければならない──こんな世界に《生まれ落ちた子供達》が、少なくとも今よりは生きやすい《遠いはずの明日》を迎えるために。

“SUN”は、今歌われることで当時とは異なる表情を持ち、重要な意味を孕んでくる。だからこそ今回のツアーに組み込まれるべき曲だったのだろう。

ちなみに”SUN”は「新しいアルバムの曲中心でやっていくんでよろしく!」(田中)という最初のMCの直後に披露された。会場にいた誰もが「いや、それ22年前の曲!」と心の中で突っ込み、笑みをこぼしたあとで、なぜ今”SUN”が歌われるのかという必然性と対峙することになった。

つまり、今回の「完璧なセットリスト」の入り口にある曲だったと理解している。

次にピックアップするのは中盤で披露された“lamb”だ。2001年リリースのアルバム『Circulator』に収録されている。

この曲は、2007年リリースの『From a smalltown』あたりから徐々に定番化し、2017年の『ROADSIDE PROPHET』で顕著になった田中の文学的手法(物語を書くように主人公を立てて歌詞の世界観を作る方法)の走りとも思われる曲だ。

この曲については「感覚的に捉えてほしい」と、あまりインタビューで語られることはなかった。そのため予想にすぎないが、歌詞の主人公は近世の画家か何かで、彼の凋落のシーンを描いているのではないかと考えられる。

その文脈のなかで、Cメロでは《仔羊の肉を食らって赤いワインを/飲散らかしているはずだったんだ》と、大サビに向かってヒートアップしていく。

この部分は、栄光のときが過ぎ去り、落ちぶれていく主人公の心情なのだろう。しかし、2021年に歌われることで、”SUN”が彷彿させる弱者への視点とはまた違う、強者への批判として強い意味を持ってくる。

このような凋落の時代に立ち会わなければ、生きづらさとは無縁だったはずの者。あるいは、このような状況になってもまだ過去の栄光を望む者、それに縋る者。もしくは、今も優雅な日常を送り、他者の生きづらさに無視を決め込む者。

そのような社会的強者に対し、田中は最新アルバムのインタビューで「(生きづらさは)社会構造全体の問題なわけですから。お前無関係やないねんで、と思う」とこぼしていた。その思いが反映された選曲だったのだろう。

さらに感心するのは、この曲が前述の”Gifted”へと続く流れだ。これまで優雅に《仔羊の肉を食らって赤いワインを/飲散らかして》きて、ここにきてなおそれを望む自己中心的な強者を、弱者が《若い私が見えないか》と睨む。この流れを設計するには、20年前のアルバム収録曲を引っ張り出し、ここで歌う必要があったのだ。ここはライブのハイライトでもあったように思う。

最後にピックアップするのは、2015年リリースのアルバム『Burning tree』収録の”Weight”だ。

この曲は、人間が生きていくなかで《抱えた負債》について一人称で歌われる曲だ。《「ここに雨を降らしてよ/全てを洗い流してしまうくらい」/何もかもを濡らして/朝になれば乾いてしまうのか》と、救いを求めながらも救われないことがわかっている閉塞感や、途方もない虚無感が歌われる。

当時のROCKIN’ON JAPANのインタビューの前文で、編集者の小栁大輔氏はこのように書いている。

「そもそもは”Debts(負債)”というタイトルだったというこの曲を”Weight”(重し、重圧)というタイトルにしたというエピソードが象徴的だ。田中は今、第三者的な俯瞰的な言葉ではなく、『重圧』という、主体を含んだ言葉にアイデンティティを感じたのである」

つまり、この曲の主人公の負債は、赤の他人の負債の話ではない。私の負債であり、あなたの負債でもある。それはちょうど今私たちが主体として、私たちの世界に対して負債を抱えているように。

生きづらさ、理不尽や不安、未来への閉塞感や絶望。あるいは強者・弱者の対立構造をもつこの社会、それを作り出してしまった私たち──できることなら雨を降らして、洗い流してほしいと思うもののすべて。

私たちはそんな負債を抱えて、今この時代を生きている。”Weight”の世界観はこのとき、それを伝えるために鳴らされていたのではないだろうか。

弱者への視点、強者への批判、そして私たちの現在地。それらを表現する選曲は、きっとGRAPEVINEにとっては当然のことなのだろう。この時代を生き、曲を作り、ライブをしているのだから「当たり前だ」とでも言いそうだ。

しかしこの作業は、200曲以上に及ぶ自作曲を客観的かつ多角的に見ることができなければ実現できないことである。少なくとも当時はそのような意図で書かれていないのだから当然だ。

その難易度の高い作業をやってのけ、とてつもない高精度で必然性を設計したGRAPEVINE。それができるのは、現在デビュー24年目というキャリアの長さだけではなく、その間、決して安易な励ましや共感に傾倒せず、我が道を進んできた彼らならではといえるだろう。

以上のことから、Zepp DiverCity公演は「完璧なセットリスト」だったと感じている。そして、その完璧なセットリストは偶然によって生まれたのではなく、GRAPEVINEがGRAPEVINEであり続けてきた先にある、必然によって生まれたものなのだ。