南方第三陸軍病院
1941(昭和16)年5月29日にサルタン・イブラヒムによって正式にオープンしたジョホールバルGHは、あっさり数ケ月後には接収されて「南方第三陸軍病院」となり、サルタナ・ウンク・トゥン・アミナ(=サルタン・イスマイルの妃)の死後に、現在の名称サルタナアミナ病院に改められました。
なんでもPalmer & Turner事務所がデザインしたそうで、1942年完成のサルタンイブラヒムビルも同事務所が設計しています。Palmer & Turner事務所と言えば、サッスーン・ハウスやHSBCなど上海のバンド(外灘)に並んでいる摩天楼の生みの親。
よく見ると、サルタナアミナ病院ってアールデコかもしれませんね。それもストリームラインモダン様式の特徴が見られます。そう言えば。階段が描く曲線も可愛らしいものでした。
この病院。戦争中は南方第三陸軍病院になりました。故郷を離れ、こちらで戦病死された兵隊さんも多かったことでしょう。また従軍看護婦として働いておられた大和撫子もいらしたはず。オマールさんが浜島先生に出会ったのもこの病院。そして谷豊(ハリマオ)も昭和17年に入院し、その後シンガポールの同仁病院、タントクセン病院へ転院後に、同病院にてマラリヤで亡くなりました。
写真画報昭和17年7月22日号では、運動会の様子が報道されており、お神輿担ぎや、傷病兵と看護婦さんのリレーの写真が残っています。マラリアに罹ったり、戦場でお怪我をされた傷病兵ですから、きっと痛かったり辛い思いをされていたことと思いますが。内地の家族には心配をかけないようにと写真では笑っていらしたのかな。
サルタナアミナ病院の入り口には、戦争中に犠牲になった医療関係者を偲ぶ「WAR MEMORIAL」が残っています。
敵の行為の結果として亡くなった医療関係者を偲んで
1941年12月-1945年9月
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