架空の虹を駆ける

 人類が天(そら)に住処を移して三百年が経つ。都市間を繋ぐ広大な空中道路は通称「虹(ラヨチ)」と呼ばれており、それを保守管理するのが俺の仕事だ。
工業大学を出て国家資格「イーリス」を取得したのち、株式会社スカイウェイソリューションズ(SWS)に入社、現在勤続八年目である。
「津山ー、次の検査なんだけど、サブのAE(注:アシスタントエンジニア)が体調不良で来れないって」
 係長がビジョン(空中に表示される通信画面)を閉じて、俺に言った。
「あー、マジっすか。誰か代わりを探さないと⋯⋯」
 国土交通省の定めにより、虹には年に一度の定期点検が義務付けられている。一人ではできない作業を行うため、必ず複数人で現場へ向かわなければならない。俺はチームの編成を担当しているので、こういう時には苦労する。
 休みの社員に連絡してみたが、どうしても代わりが見つからなかった。仕方がないので、客先に連絡して日程を変えられないか交渉してみることにした。

 株式会社ファーストスターレヴューの巻耳(おなもみ)さんは、快く日程変更を受け入れてくれた。
「大丈夫ですよ。最近流行ってますもんねー、頭腹尻病」
 頭腹尻病とは、発熱に始まり、頭痛、腹痛、腰痛を主な症状とする5類感染症(定点把握疾患)である。感染力が高く、大人がかかると重い症状が出やすい。急性期の症状が回復した後でもウィルスの排出が長く続くため、出社できないスタッフが何人もいる。検査の日程変更を余儀なくされる日が増えていた。
 巻耳さんに丁重にお礼を伝えて、予定表を書き換えた。

 検査当日。検査鞄を携えて虹に入った俺とサブの門別(かどべつ)は、口をあんぐり開けて立ち止まった。
 レビュワーだ。スターレビュワーがいる。
「私、レビュー、初めて見ました!」
 門別は頬を赤くして喜んでいる。俺だってこんな間近で見るのは初めてだ。

 レビューとは、天空を渡る芸術競技である。レビューの選手をレビュワーと呼ぶ。
 巻耳さんの手違いで、レビューのリハ実施日と検査日がダブルブッキングしたのだった。
「誠に申し訳ないですぅ。お詫びになるか分かりませんが、レビューのチケット、よかったら⋯⋯」
 あ、そういうのは社の規定で受け取れないことになっておりまして⋯⋯と言いかけたその時、俺の目は大翔(ひろと)を見つけた。
 大翔。忘れもしない。星渡りで、俺はあいつに⭐︎1をつけたんだ。

 大翔は美しい少年だった。顔立ちは平凡だったが、手足が細くて長くて、類稀なる身体能力を持っていた。大翔が踊ると薄汚れた田舎の体育館はオペラ座になったし、大翔が走ると雑草の生えたグラウンドはヘイワードフィールドに変貌した。オペラ座もヘイワードフィールドも、見たことないんだけどさ。かつて地上にあったということだけ、知識として知っている。
 星渡りは、五年に一度行われる国際的行事だ。
 三百年ほど前、人類は地上に住んでいた。ある日、ミミズに似た宇宙人に侵略され、人類の多くは天に追いやられた。地上に残された人々は宇宙人に最適化された過酷な環境で生きていて、星渡りは地上にいる同胞を励ますメッセージなのだとか、なんとか。
 大翔は星渡りの奏者を目指していた。星火(高性能な科学的灯火。地上まで光が届く)を持って虹を走る、儀式のメインとなる役割で、十四歳以上、十九歳未満の子どもを三名、全国からオーディションで選ぶ。
 基準を満たしてエントリーした二百名余りの子どもの中で、大翔は最も有望な候補者だった。
 俺は前回の星渡りで奏者だったから、その年、最終的な評価をする立場にあった。
 前回奏者である俺と、桃家と、赤佐田が、最終候補の十二名の中から、次の三名を選んだのだ。
 桃家と赤佐田は大翔に⭐︎5をつけた。最高評価だった。
 俺は⭐︎1をつけた。一人でも⭐︎1をつけたら、奏者にはなれない。
 大翔は完璧だった。だからこそ、選ぶわけにはいかなかった。
 この三百年、星渡りを完走したものは一人しかいない。ほとんどの奏者が最後まで走れない。やり遂げた十七歳の少年は、流れ星のような姿になって、地上に消失したと言われている。
 大翔ならきっと完走する。それが意味するものは死にちがいない。俺はなんとなくそう思っていた。
 虹を走り続けていると、奇妙な高揚感が湧き起こってくる。
 静かに夜の天空を駆ける、足先の熱。
 胸の奥に、跳ねる鼓動。
 それは音楽だ。
 俺の体が音を奏でる。楽器になる。
 叫ぶ。唸る。口ずさむ。歌う。嗚咽する。
 立ち止まることはできない。中間地点まで走らなければならない。中途で歩みを止めれば死ぬ。地上から、三千七百七十八メートル。種の存続をかけて築き上げて来た高度な科学技術によって天空都市を維持しているが、本来人類の生息可能な高度ではない。走るという運動によって得たエネルギーを用いて熱を生み出し、活動可能な体温を維持している。
 俺は死ななかった。最後まで走らなかったからだ。
 俺は地上の星になりたくなかった。天空都市でぬくぬくと、生き残りたかったんだ。
 大翔は違う。大翔は。この男は。
 最後まで走る男の子だ。

「ひろと⋯⋯」
 俺は思わず、巻耳さんの手からチケットを受け取っていた。
 大翔、大翔、あの大翔が、レビュワーになっていたなんて、全然知らなかった。あいつの走るところをもう一度見たい。

 レビュー当日、大翔は予定通り、虹を走った。弊社が点検したラオス(地名)の虹だ。身長183センチメートル、プロレビュワーとなった大翔は足が速かった。
 それだけだった。俺は心底がっかりした。
 自分の判断ミスを後悔した。
 大翔は⋯⋯星渡りの奏者として死ぬべきだったのだ。
 俺がその機会を奪い、大翔をあんなつまらない男にしてしまったのだ。
 今の大翔の走りには歌がない。

 レビューが終わり、俺は虹を後にした。
 夜道を誰かが凄まじい速さで追いかけてくる。俺は逃げた。それが誰の足音か容易に想像がついた。
 大翔は速かった。当たり前だ。あいつはプロのレビュワーで、今の俺はただの点検技術者なのだから。
 追いつかれた。背中に衝撃。転倒して、もみくちゃになる。
「おまえが! おまえが! 俺をこんなにしたんだ!」
 大翔の怒りは凄まじかった。俺が⭐︎1をつけたの、バレてる。
「なんで1をつけた? 俺の何が気に食わなかった? おまえさえいなければ、俺は今頃、地上に戻れていたのに」
 身長183センチメートルの筋骨隆々のアスリートが、俺の胸を叩きながら号泣して、俺の胸を涙で濡らして、俺の胸にしがみついた。息が苦しい。潰される。
「勘弁してくれ、勘弁してくれ」
 もう殺される、と思って、俺も泣いた。地上に戻るって、何? と思ったけれど、聞けなかった。
 星渡りを走った夜を思い出す。浅い呼吸で意識が朦朧とする中、不可思議な快感が、満ちる。

#古賀コン6

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?