第4章【アメリカ留学 準備と決意】とよ先生の半生記

高校3年生 進路選択の時期。


まず、説明しなければいけないのが、

当時の私のアメリカンフットボールへの思いです。


柔道部と兼部という形で続けてきたフットボール。

当時はテレビでたくさんアメリカのフットボールの様子が

放映されていて、フットボールを通してアメリカを見る機会が

たくさんあり私の憧れはどんどん大きくなっていきました。


特にテレビの放送の合間に流れた、強豪チームの選手が練習中に、

コーチと笑いながら話している光景が衝撃的でした。


「え?練習中って笑っていいものなの?」


そのころ、日本では「練習中に歯を見せるのはふざけている。強くなれない」のような風潮がまだ残っていました。


実際は、アメリカであろうとまずは根性論があってやるべきことをしっかり自分で出来る選手がコーチと仲良くできているんだと、この後、痛いほど知らされますが、


高校生の私は、「笑顔で練習して強いなんてかっこいい!」と、

どんどん憧れが膨らんでいきました。


更に、設備の整っていない公立高校でフットボールを体験したという事もアメリカへの憧れを膨らませる要因になっていました。


私は自分の高校では満足出来ずに、当時高校アメリカンフットボール日本一の私立学校の職員室に1人訪問して「練習に入れて下さい」と、交渉しに行きました。


高校生が別の高校の職員室に1人で訪問して練習に入れて欲しいとお願いするんです。自分の行動を誇りに思います。(結局これはケガした時の責任問題で断られました。)


自分の高校の卒業生にお願いして先輩達の大学や、社会人チームに行って練習させてもらいもして、高校生が1人で良く来た、と可愛がってもらったりもしました。


そんな時間を過ごしながら、本場ってどんななんだろ!アメリカンフットボールの生まれた地でプレーしてみたい。


どんどん憧れが大きくなっていきました。


一方、柔道。子どものころから恵まれた環境でやらせてもらっていました。小さな大会に出て上位入賞しては、大きな大会に出てすぐ負ける。こんなのを高校生でも繰り返していました。素晴らしい先生のもと、もっともっと努力して強くなっていれば。これは今でも後悔しています。人間の本質なのか、未熟な子どもの思いなのか、もしくはそこまで培った「人と違うことをしたがる本性」なのか、それら、全てなのか。私の中では手に入る恵まれた柔道の環境よりも、遠くにある憧れのアメリカの世界の方が、魅力的に見えてきていました。


ところでこのころ、記憶にある人もいると思いますが、アメリカで1人の日本人留学生がハロウインパーティーの仮装をして訪問先を間違え射殺される事件がありました。

(実際にはハロウインの前日であった事も、訪問先を過度に驚かせた要因になったようです)


私はカタカナ英語もままならない親の元、英語を知らない純日本な家で育ちました。上記の事件も手伝い、親にアメリカ留学の話しを切り出し了承を得るのは容易ではありませんでした。


学校では、進路相談の時間は「進学組」か「就職組」に分かれなくてはいけませんでした。「留学組」などもちろんありません。


相談に行った英語の先生も「前例がないから」と「留学組」私のケアはしてもらえませんでした。私は進路相談の時間に一人で図書館で英語の勉強をしていました。


この頃はもう、一人でいるのが当たり前。

グループに属さないのが当たり前って感じでした。


「一匹狼」 


当時も今も大好きな言葉です。


私しかいない「留学組」がとっても心地良かっです。

よし!絶対留学するぞ!決意は固まりました。


留学希望者のケアができない英語の先生は信頼できないので、

その先生の授業は単位を落とさないギリギリまで欠席して、

授業中に教室の一つ上の図書館で英語を勉強しました。


試験だけ出席して満点とって、成績は五段階中、四でした。

授業に出ないとさすがに最高点はもらえませんでした。


名ばかり英語の先生への私の反抗でした。


それまで私は、世界中の人がカタカナを読めると思っていたくらいですから、相当勉強しました。


電車で外国人らしき人を見たら「降りる駅までつきあって」と、とりあえず話しかけていました。ドイツの人で英語が苦手で結局日本語で話したり、そんなのも良い経験でした。


次は、親の説得です。「アメリカ=人が殺されるところ」な親を説得するのは大変でした。


今思えばただのわがままの押し通しですが、当時は必死にやる気を伝えたつもりでした。親は「死んでもしょうがない」と送り出したと帰国後に語ってくれました。「一人で留学、決意、準備、実行。すごいねー」なんて言ってもらう事もありますけど、一番大切なお金を全て出してもらっての留学なんて、ビニールハウスの中の話しだなって思います。今、e-kidsを運営をしてながらそれが良く分かります。


家計を支えるためにバイトしながら学校に通ったり、病気の家族の面倒を見ながら自分の生活をしたりしている人たちはたくさんいるはずです。そんな人たちに比べたら、親にお金を出させて留学なんて「所詮はビニールハウスの中の話」と、心から思ってこれを書いています。



では、どこの大学?


インターネットが無い時代です。


とりあえず、大きな図書館に行き、片っ端からアメリカの大学を調べて、条件に合う学校を探して住所を集めて願書を送りました。


20校くらい願書を送った学校の中で、1番返事を早くくれたところに絞りました。


早い反応くらいしか判断基準が無いんです。


小さな大学で1人1人のケアをしてくれていると感じたというのもありましたが。大きな学校で、願書を送って2年後(もう私は留学中)に返事をやっとくれた学校もありました。


この「偶然」に選んだ大学のフットボール部が「偶然」にも、奨学金生以外でも受け入れてくれるディビジョンに属していました。


日本式に言えば2部の学校。この偶然で私のフットボール人生はアメリカでも続けられることになりました。1部所属の学校ではとてもじゃないけど私はプレーさせてもらえていなかった・・・と、後で知りました。インターネットの無い時代です。情報が無かった中のラッキーです。


日本から夜中に留学先の大学に緊張して電話したのを覚えています。


半年間の英語学校への通学を条件に、

アメリカのインディアナ州にあるValparaisoUniversityに入学を認めてもらいました。


今、思えばただの親のすねかじりで、その恩返しをどうするかと今でも試行錯誤中ですが、当時は、自分で進路を掴み取ったぞ!という満足感で一杯でした。






この満足感、達成感はすぐに打ち砕かれるとも知らずに。



窪田豊彦  高校卒業。 アメリカへ

「とよ先生」まで後12年


e-kidsでは「お父さんお母さんに大きな声で毎回お迎えのお礼を言いなさい」と指導しています。そこに親がいること、助けてもらえる事を当たり前と思わずに感謝しなさい。親に甘えていた私だから、それを今こうして気がつき、次世代に伝える事が使命かと思っています。




とよ先生の半生記 e-kids

第4章【アメリカ留学 準備と決意】


最後まで読んで下さりありがとうございました。


次回は、ついに渡米してアメリカでのお話しです。

どうぞお楽しみに。


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