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「感覚派」の僕が社会人になって

こんばんは、きくやえいたです。
大学を卒業して、はや3ヶ月が経とうとしています。時の流れははやいですね。

日記をつけることも、手紙を書くことも苦手な僕がなぜnoteを書こうと思ったのか。まずご説明しますと、むちゃくちゃ悔しい思いをしているからです。

(卒業式での一枚です。研究室のみんな、元気にしてるかなぁ。)

総合人材サービス会社に入社してこれまで、有難いことにたくさんの研修を受けさせていただき、いまは福岡県ではたらいています。素晴らしい先輩方や同期にも恵まれ、楽しい日々を過ごしておりますが、ここ最近すごく悔しい思いをします。


それは、僕が超感覚派人間だから。


ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、僕は5歳で剣道をはじめ、人生においてやってきたことは剣道しかないという自己紹介をよくするぐらいに、青春を全て剣道に捧げてきました。

剣道という武道からは人生において大切なことを、ここには書ききれないくらい学ばせて頂きました。(今度剣道から学んだこともnoteにまとめようと思いますので割愛)


超感覚派 になったのもきっと剣道が影響していると考えます。

それは、間の理合(まのりあい)いう考えがあるからです。
間の理合とは、相手との物理的距離、タイミング、心と心の関係を意味しています。

一本を取るためにはこの間の理合が非常に大切になります。中心を取りながら相手との距離を詰め、タイミングを読み、相手の心を動かす。それを、0.1秒という一瞬で判断して技を出さなければ打たれてしまいます。


つまり、どんなに理論的であっても、相手との読み合ができなければあっという間に負けてしまう。それが剣道の面白さのひとつなのです。


その一瞬のために、1日数千本の素振りをし、基本稽古を行い、互角稽古を積むことで日々鍛錬してきました。


きっと、剣道をされている方の中にも理論派の方もいらっしゃるので一概には言えませんが、先祖からの遺伝と剣道が僕の感覚を作ったと、自分では理解しています。


それでなぜ悔しい思いをしているのか。


「詰められる」体験をしているからです。


感覚派である僕は、なんとなくこんな感じ?という発言をよくします。

すると理論派の方から、
なぜそうなるの?
なぜそう感じたの?
どうしてそう考えた?
〇〇だとしたら?
なんで?なんで?なんで?、、、、
という具合に集中攻撃。


理論派、ロジックで考えを述べることができる方々に強い憧れがあって、僕も日々トレーニング中です。

しかし時に、詰めることが正義、言語化できることが全て、理論的に固めることがかっこいい、という空気が流れる瞬間があるように感じます。

それって本当に必要?詰めるのが楽しいの?

と。


僕は感覚派ですが、これからロジックを手に入れていくため、こうして感じたことを言葉にしてみたり、自分に対してなんで?と問うてみたり、フィードバックをもらう等々して、トレーニングしていこうと思います。


ひとの考え方や感じ方は多様であっていいし、感覚派も論理派もいていいし、相手を受け入れ、そして気づいて頼り合うことが、なにより大切なのではないでしょうか。


そう、みんなちがってみんないい。


どちらが優れていてとか、そんなんじゃなく。


詰めることで、相手が困っている姿が面白い。論理派は優れている。


これは間違いだということを知ってほしい。
ただ、僕は論理も手に入れたいと思う。


感覚派、感情派、考えるよりも行動が早い人、走りながら考える人。そんなひとたちに寄り添い、理解し、その一歩先を読んで、論理的に組み立てたアドバイスや提案ができるように、これからも鍛錬していこうと思います。


ぼくが、ぼくであるために。


最後までお付き合い頂き有難うございます。
また感じたことを書きます。
noteの使い方、言語化や論理的思考に関する助言もお待ちしております。


2019.6.25

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