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『全部を賭けない恋がはじまれば』書評 ー レスキュー・ヴィーナス ー

はじめに

山本英晶といいます。
おいおい36歳になる、普通のおじさんです。
これから『全部を賭けない恋がはじまれば』という本の書評を書きます。

この本を発行した、ひろのぶと株式会社。
会社を立ち上げた田中泰延ひろのぶさん(以下、田中さん)は、株式投資型クラウドファンディングの募集を開始するとき、こう言いました。

お金は、たんまりある。


仲間を募る。

そして準備された800株は、一人10株までという制限のなかで、30分と経たずしてすべて買い手がつきました。
幸い、僕もその一人になることができました。

株を購入して5か月が経ちました。
ひろのぶと株式会社から、ついにはじめての本がでました。
それが『全部を賭けない恋がはじまれば』なのです。
ハロウィンにふける山本家のポストに届きました。
夜更けに、読みました。


こんな本読んだことねぇや。

恋愛小説は、20年来ご無沙汰でした。
あの頃の僕はたしか、市川拓司さんの『いま、会いにゆきます』を手に図書館の窓際でうっとりぼんやりと春の日の中たたずんでいるだけでなんだか恋愛の達人になったような心持ちでこんなのモテるに決まってると思い込んでいてきっと傍から見たら周囲の空間が歪んでいたことでしょう目も当てられません。
そんなあの頃の初心初心うぶうぶした自分が、この本を読んで、口をぽかんと開けています。
初心初心おじさんの僕に、この本の書評が、書けるのか。
不安な心が、前出の田中さんの著書に書かれていた言葉を思い出します。

読みたいことを、書けばいい。

『読みたいことを、書けばいい。』より

タイトルに、書いてありました。
自分が読みたい、読んでおもしろいと思える書評を、忖度なしで書く。
この本の出版社の株主として、仲間として、この本を知ってもらうために。
前置きが長くなりましたが、そんな気持ちで書きだしてみたいと思います。


『全部を賭けない恋がはじまれば』書評

 この本は、作家である稲田万里さんの初の著書であり、編集者である廣瀬翼さんの初の書籍編集が行われた、ひろのぶと株式会社の初の発行本だ。
「この小説を世に出すために、出版社をひとつ、つくりました。」
 と、帯にある。小説をひとつ生むために、出版社がひとつできた。このご時世に。そんなことって、あるだろうか。でも田中さんは、たしかに出版社を作った。読む前からなんだか凄まれている気がする。すみません。装丁も、ちょっとどぎまぎしてしまうほどに艶やかだ。おそれいります。手にとった感触から、普通の本ではないことがなんか分かる。ふつつかものですが、よろしくおねがいいたします。
 著者の稲田万里さんのことを知ったのは、ひろのぶと株式会社の株式投資型クラウドファンディング募集にまつわる、田中さんへのインタビュー動画を見たときだ。そこからTwitterで、彼女の動向をしばらく追った。

ママとしてスナックに立っていたり

占いをしていたり

苔をつついて売っていたり

ゴリラのことを敬意とともに愛していたり

エロスに積極的な姿勢も感じる。

 僕の中にある抽象的な作家像とはまったく異なる、アクティブお嬢さん。そして稲田万里さんはnoteにも文章を書いていたのだが、その書きっぷりがあけすけだった。いや、明けたり透けたりどころではなかった。すっぽんぽん。まっぱんぱん。稲田万里さんの描いた『ヴィーナスの誕生』があるとすれば、きっと掛けられる外套を振り払いホタテ貝の上でそのホタテを炭火で焼いていただきつつ全裸で仁王立ちすることだろう。ジャングルジムの上に仁王立ちする女子3人より、各々がスカートをたくし上げ堂々たるパンツを見せつけられた幼稚園時代の記憶がよみがえる。みなさん、元気にされていますか。


 そんな稲田万里さんの書いたこの本を評するにあたり、「パイパン事件」からは逃げも隠れもしようがない。タイトルからして、初心初心な僕はめまいがする。そもそも第一章のタイトルが「性欲」て。「起承転結」の「起」が強すぎるでしょういやむしろある意味それで正しいのかな性欲だしないやいやちょっと頭が変になってるななどと思ったまま読み進めるごとに文章の節々から溢れ始める、ユーモアと言うにはユーモアに失礼じゃなかろうかと見知らぬユーモアさんを気遣いたくなる言い回し。軽々しいほど軽いフットワーク。この世のものかと目と文字を疑う展開の連続。「生きてると、こんなこともアルヨネ。」(p.26) ない。絶対という言葉を僕はそうそう使わないが、絶対ない。小学校高学年の僕が命綱なしに海沿いの岸壁を20mほど登ったはいいが降りられなくなってレスキュー隊を親に呼ばせ海でのレジャーを楽しむ家族連れやらいちゃつくカップルやら一帯の住民ご一同様やらの集まる大騒動となるくらいに、ない。あのときはピンチの時には本当にヒーローがやってくるものだなぁと思ったが、生きてると、こんなこともアルヨネ。
 「パイパン事件」の元となったnoteの記事も存在している。無粋を承知で読み比べたが、主人公の破天荒さをそのままに一編の小説として鋭く再編集されており、廣瀬翼さんの編集者としての切れ味を味わうことができた。このいろんな意味で切れ上がった「パイパン事件」こそ、田中さんが出版社を立ち上げ、紙の本として読みたかった一編なのではないかと勝手に想像している。

 「性欲」で暴発的に始まったところを「恋心」「流転」と章を追うごとに全体の雰囲気を落ち着かせていく点にも、この本の完成度の高さを感じるし、うっ、とか、はっ、となる言葉が、心にスッ、と入り込んでくる。ずるい。しかし「パイパン事件」をはじめとして、何回パイパンいうんだ、稲田万里さんがこの本で描く女性の姿は、大和撫子のようないわゆる世間一般の想定するよくある女性像ではないだろう。「じゃがいも」という一編に登場する幼少の女の子ですら、思考も、選択も、読み手としての僕の想定を飛び越えていく。そして、そこに血肉を感じる。表面的ではない、人間の根っこから湧き上がるような血肉だ。
 少し逃げるように話をよそに飛ばす。僕を含む現世のおじさんは、肩身がとても狭い。香川県の小豆島にある土渕海峡くらい狭い。やることなすこと、なんでもハラスメント化するリスクを抱えて生きている。この書評も「書評ハラ」と言われて泣く泣くアカウントとともにネット上の人格を削除し、オンライン出家する覚悟で書いている。

 おじいさんになるまで、こんな状況なのだろうか。そんなのって、ないじゃないか。不老不死を願う秦の始皇帝の気持ちがよくわかる。いや、あまり知らなかったので少し調べた。

盧生說始皇曰:「臣等求芝奇藥僊者常弗遇,類物有害之者。方中,人主時為微行以辟惡鬼,惡鬼辟,真人至。人主所居而人臣知之,則害於神。真人者,入水不濡,入火不爇,陵雲氣,與天地久長。今上治天下,未能恬倓。願上所居宮毋令人知,然後不死之藥殆可得也。」於是始皇曰:「吾慕真人,自謂『真人』,不稱『朕』。」乃令咸陽之旁二百里內宮觀二百七十復道甬道相連,帷帳鐘鼓美人充之,各案署不移徙。行所幸,有言其處者,罪死。


司馬遷 /『史記 秦始皇本紀第六』より

さっぱり分からなかったので和訳本を購入し、当該部分を読んでみた。

盧生が始皇に説いて言った。「わたくしらが霊芝(さいわいたけ、瑞草)・奇薬・仙者を捜しましたが、いつも出会ったことがありません。何か障りがあるもののようです。方術(仙方)の中に、『人主時に微行をなし、もって悪鬼を去れ(君主は時々、臣下にかくれて微行し、体中に鬱結した悪気を去れ)』とありますが、人主は悪気が去れば真人になれるのでありまして、居所を臣下が知れば、神気に障りがあります。真人は水中を入っても濡れず、火中に入っても焼けず、雲気をしのぎ、天地と共に長久のものです。いま主上は天下を治めておられますが、まだ恬淡(道家の語で、無欲で淡泊の意)にはなっておられません。どうぞ主上のおられる場所を、人に知られないようになさいますように。きっと不死の薬が得られるでしょう。」そこで始皇は、「わしは真人になりたい。だから自分で真人といい、朕とはいわないでおこう」と言い、咸陽の近傍二百里内の宮殿二百七十に復道と甬道を連絡させ、各宮殿に帷帳と鐘鼓と美人を充たし、それぞれの部署を移動させず、皇帝が行幸する場所を言う者があれば死罪にすることとした。

小竹文夫・小竹武夫 訳 『史記 I 本紀』より

 皇帝の居場所を言っただけで死罪。さすがにそこまでして、不老不死を僕は望んでいない。盧生とかいう人もだいぶおかしい。よくわからない安心を得た僕はこの本を再度読み返し、考える。僕は、なにをやるにも内抱するリスクに目を奪われ、いやそれをじっとみるのが賢いと思っていて、なるべくやらない理由を探すのが得意な臆病者だ。そうして大人しいおじさんでいようとすればするほど、誰にもたたかれないかわりに、誰ともかかわれない。臆病者というライフスタイルは、まじわりが浅く、冷たい。
 この本は、とにかく登場人物が突拍子もないので「この登場人物の美しさやかっこよさに憧れなさい」とか「こういうときはこうしなさい」のようなことは、僕には読み取れない。しかし、自分に足りない、それでいて必要だと思えるものを、不思議と見せてくれる。それが、「なにかやる」ということなのだろう。もちろんなにをやるにしても、リスクはつきものだ。出会いを求めただけでパイパンになったりするかどうかはさておき、本屋に行き、本を一冊手にとっただけでも、「リスクがあるのを承知でなんかやった」という価値があると思う。「やること」にこそ、強くあなたの個性がでる。血肉が乗る。秦の始皇帝も、たぶんあそこまでやったからこそ「不老不死を死ぬほど望んだ人」と僕に認識されていたのだ。

 「かもしれない」運転は大切だが、かもしれない「だけ」運転では、車は動いてくれない。できうる確認をして、勇気をもって、リスクを踏まえたアクセルを踏むのだ。本屋に行き、本を一冊手にとるだけなら、小学生の僕が海岸の岩盤を登るより間違いなくローリスクでイージーなクエストだ。そしてそこにはヒーローであるレスキュー隊でなく、あけすけなレスキュー・ヴィーナスがきっと待っている。


あとがき

書評と言えるかわからないものができました。
面目ありません。
ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
ご興味が湧いてくることがあれば、それを勇気に変えて、書店等々でお手にとってみてください。
それだけでも、このnoteを書いたかいがあります。
なにとぞ、ぜひに。

(了)

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