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なんでもいい

先日あるプロジェクトに参加した時のこと。

私は全くの専門外で、右往左往するしかなく、闇雲にヘラヘラしながら出番を待っていた。
(緊張するとヘラヘラするか、無駄にガンを飛ばすかのくだらない癖をしかも2択で持ち合わすやっかいな私)

「じゃあ瑛子さん、どうぞやってみてください」と言われても、プロの前で私にできることなんてあるのだろうか?それはなんぞや?と震えあがってしまう。
その状態を見て察したのかどうか、相手のプロの方に言われた一言が、

「なんでもいいんですよ」

だった。

不思議なことに、ああ私なんでどうでもいいですよねなんでもいいですよね素人がいっちょ前に緊張なんてしくさってとお思いですよねこれ終わったら本当にすいません切腹してお詫びしますんでちょっと待ってください、、、なんてこれっぽちも思わなかった。

懐の深い「なんでもいい」だった。
これは委ねてよし!と私の中の赤子のような心がたちまちリラックスしだしたのをいまだに思い出す。

リラックスしたおかげで素晴らしい出来に・・・なんてことはなく、案の定な結果。
ですよね、ですよねと心で苦笑いしていたけれど、先日送ってきてくださった試案を確認して目玉自体が落ちた。
とっても素晴らしい仕上がりになっているじゃないですか。
プロの手で美しく仕上げてくださったのだ。

「なんでもいいんですよ」

あの言葉が蘇る。


ああ、そうだった。
私の周りにはこの「なんでもいい」が言える恰好いい人が沢山いるんだった。

普通だったら投げやりにすら聞こえるこの言葉をプロフェッショナルという土台に乗せて見ると180°景色が変わる。

一気に豊かに、鮮やかで、優しさを含んだ色の言葉に衣替えするのだ。


ヨーガの指導者でも、技術職の上長でも、ライブ会場のスタッフでも、どんな立場の人でもそれは同じことだ。

今までの努力や経験や知識に裏打ちされているからこそ言える「なんでもいい」が。

前述の彼はきっとこう言いたかったのだろう。

私が責任を持つからどうぞ自由にやってください、どんなものであろうとちゃんと仕上げますから。と。


多分その意味での「なんでもいい」が言えるようになるまでには、とっても深い技術の熟成が必要だろうと思うし、多くの人々との関わりを経ていないと安易に口に出せないだろう。


そして、きっと誰にでも「なんでもいい」は言わない。

そう言ってよい相手かどうか見極めているはずだ。

なぜならば、その言葉通りに受け取ってなんでもいいって言われた!!とえらいことをしでかす人だっているとは思うから。

そう考えるとやはり「なんでもいい」と慈しみを持って言える人は偉大だ。
結果を予測した上で相手を尊重し、相手を受け止める度量を持ち合わせているのだから。

そして「なんでもいい」と言ってもらえる人は幸せなのだ。

(私の場合は単純に相手のプロ技術が卓越していただけで、私が彼が思うところの土俵に乗っていたかと言えば決してそんなことはないのでやはり切腹覚悟だがとにかく相手に感謝×100した後ちょっとは私も頑張ったのだと自分で自分を褒めてあげようと思う)

ヨーガにおける指導においていうと、
この段階をしっかり見極めている先生と生徒の信頼は深い。

質問に対して「明確に指針となる一つだけの答え」を言う時と「なんでもいい」と言う時の使い分けに、先生側での迷いがないからだ。
生徒は生徒で、どちらの回答にせよ100%受け止めている。
本人が期待した回答と別だったとしても、丁寧に受け入れる準備に入る。
こういった形での信頼関係を築けている先生と生徒は双方に美しく愛おしい。

周りにいる素晴らしいヨーガの先生はたいがい経験も長く知識量が多い。
知識量が多いからと言ってひけらかすことはせず、必要な時に必要な分だけ生徒に手渡ししている。

これが一番先生として力量の問われるところだろう。生徒の成長がいまどの段階にあるのか、次のステップに進むために必要なことは何か。そもそもこの道なのか?

知識が多く専門的だからと言って決して視野狭窄にならずジェネラルスタンスも持ち合わせる。
いつでも先生としての愛情をもって生徒と接している。
愛とはただの褒め合いではない。

ああ私も私も確固たる意志をもって、そういう人間関係を築き上げたいものだ。


帯を締め直すきっかけをくれた「なんでもいい」に敬意を表してこの言葉で締めくくろう。

「え?今日のランチ、バスマティライス売り切れ!?じゃあ・・・ナンでもいいですよ」



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