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アルジェント、バーヴァ、フルチ……悲しき旧世代監督たちのマカロニTVホラー、知られざるイタリアTV秘史 映画秘宝傑作選

文:山崎圭司
初出:別冊映画秘宝『怖いテレビ』

●マカロニ・ヒッチコック、お茶の間を席捲!

 イタリアは60年代から怪奇映画を量産してきたが、恐怖物は大人の娯楽という意識が根強く、お茶の間に直結するTVにはなかなか浸透しなかった。そんな状況を打ち破り、マカロニTVホラーに先鞭をつけたのが、伊製恐怖映画の第一人者ダリオ・アルジェントの『サイコファイル』(1972年)だ。当時のTV業界は、半隠居のロートルや職にあぶれた監督たちの吹き溜まり。表現や内容に関しての規制も厳しい。猟奇的な推理劇“ジャッロ”にとって、TVへの進出は非常にリスキーな選択だった。だが、裏を返せば不特定多数の視聴者を開拓できる絶好のチャンス。アルジェントは大きな賭けに出た。
『サイコファイル』の原題は“暗闇への扉”で、1話完結の全4回構成。アルジェントが演出に関わったのは、路面電車に一瞬生まれる死角トリックと犯人当てを描く本格推理劇『変死体』と、美女が姿なき殺人者につけ狙われるサスペンス『目撃証人』。どちらもアルジェントが十八番とする題材だった。残りの2話は賃貸部屋の死体入り冷蔵庫実話に基づく『隣人』と、いかにもTV的なドンデン返し小噺『人形(演出はTV局の社員監督が担当)』。
 アルジェントは『ヒッチコック劇場』(1955〜65年)よろしく冒頭に案内役で登場。眼光鋭く独自の恐怖哲学を語った。イタリアの国営放送RAIが73年に『サイコファイル』を放送すると、従来のTVドラマとは一線を画す映画的スリルを盛り込んだ斬新な作りを、新聞雑誌がこぞって絶賛。イタリア国民の半数をTVの前に釘づけにする社会現象を巻き起こした。まあ、それも当然。当時の放送チャンネルは2つしかなく、TVをつければ1/2の確率で『サイコファイル』が流れていたからだ。それでもアルジェントは恐怖のカリスマとして有名人となり、その圧倒的名声をもとに映画でも大成功を収めた。『サイコファイル』はスター監督アルジェントの礎を築いたのである。
 80年代に入ると、TVの地位も向上。アルジェントは1987年10月から翌年1月までRAIが金曜夜に放送するショー番組『ジャッロ/GIALLO』に参加した。番組の前半では実録犯罪や未解決事件を紹介。後半はアルジェントの案内で『深夜勤務』『ダリオ・アルジェントの悪夢』と題された短編ドラマがオンエアされた。『深夜勤務』は3人のタクシー運転手が出会う様々な怪事件を、犯人探しタイムを設けて推理する15分のミステリー劇。『〜の悪夢』はアルジェントが自らの夢を3分で再現する企画で、クリスマスの晩に幼女を怪物サンタが襲撃する『サミー』や、全身から虫が這い出す『うじ虫』など、かなりの脱力系エピソード揃い。暇潰しにヒッチコックの『裏窓』(1954年)を観ていた青年が、窓越しに双眼鏡で現実の犯行現場を目撃する『裏窓』なるストレートな挿話もあった。デビュー時から“イタリアのヒッチコック”という呼称を頑なに否定し続けてきたアルジェントだが、TVでなら自らを茶化す余裕もあったということか。
 視聴者からの相次ぐ抗議で『ジャッロ』は短命に終わったが、この反響を肯定的にとらえたRAIは再びジャッロの連続ドラマを提案。アルジェントはまたしてもヒッチコックを題材に選び、第1弾『ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック』(2005年)を完成させた。シネフィル学生がビデオ屋で『見知らぬ乗客』(1951年)風の交換殺人を嗅ぎつけ、『裏窓』的出歯亀状況で殺しを目撃。『サイコ』(1960年)のように浴室で襲われる。タチの悪いユーモアを身上とした英国人ヒッチコックと、ユーモアを描いても必ずギャグになるラテン系アルジェントの相性はやっぱり微妙。『〜ヒッチコック?』の評判はRAI局内でも芳しくなく、シリーズ化構想は無期延期。本作自体も暫くお蔵入りの憂き目に遭った。

●バーヴァ親子の遺した隠れた秘宝

 もう少し通好みの作品をお探しなら、PAIが1981年に放送した『悪魔の目/I giochi del diavolo』はいかが。18世紀の怪奇幻想文学を題材にした計6話のシリーズで、ヘンリー・ジェイムズの「エドマンド・オーム卿」、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「びんの悪魔」、H・G・ウェルズの「故エルヴシャム氏のおぼえがき」と並んで、神秘主義を愛した仏作家プロスペル・メリメの「イールのヴィーナス」を、60年代マカロニホラーの巨匠マリオ・バーヴァと息子のランベルトが映像化している。資産家の地所から発掘された災いを招く女神像。結婚を控えた一族の息子が冗談で彫像に指輪をはめると、初夜の晩に彼は殺され、花嫁は発狂する。父バーヴァはサスペンス味に乏しい物語に興味が持てず、息子に現場を一任。結果、もっさりした仕上がりになったが、それでも偉大な父バーヴァの遺作であり、最後の親子コラボ作品としても貴重な1本だ。
 同シリーズでは他にも、眠らない子供の目を奪う怪人に怯える青年を描く、独文学の奇才E.T.ホフマンの「砂男」を、伝説の残酷西部劇『情無用のジャンゴ』(1967年)のジュリオ・クエスティ監督が映像化。若い母親と少年幽霊の儚い交流を綴る心霊小品『暗闇のささやき』(1976年)のマルチェロ・アリブランディ監督はロマン派の仏詩人ジェラール・ド・ネルヴァルの世界に挑戦、と魅力的な顔合わせの妙が楽しめる。
 父の死後、1980年に監督として独立したランベルト・バーヴァは、80年代中頃から猛然とTV界に傾倒。アルジェントの『ジャッロ』で『深夜勤務』の演出を手がけつつ、1987年にはシルヴィオ・ベルルスコーニが興したTV局メディアセットで『黄色い戦慄/Brivido Giallo』シリーズを4本演出。翌88年には『ハイテンション/Alta Tensione』シリーズで更に4本を撮り下ろした。
「私は映画畑出身なので、正直TVの仕事は嫌いだ。しかし、映画はもう斜陽でTVと優劣が逆転しつつあった。そこで映画には寸足らずなスリラーを撮ることにしたんだ。労せずして大勢の視聴者に観て貰えるのもTVの魅力だね」とバーヴァは複雑な内情を吐露している。
『黄色い戦慄』の4作品は海外では各々単体でセールスされ、日本でも劇場映画扱いになった。ヒューマックス配給で1989年に劇場公開された『バンパイア最後の晩餐』は『フライトナイト』(1985年)路線のニューウェイブ吸血鬼物。永遠の命を持て余す吸血鬼(肩書きは大物ホラー映画監督)が古城に若手俳優4人を招き、“ドリアン・グレイ”をヒントに夜明けまでに自分を殺せと迫る。残る3本は“イタリアン・ファンタ”と銘打たれた映画祭で限定上映を実施。『グレイブヤード』はワゴン車で旅する若者5人が、怪しげな酒場の地下に広がる墓場で一夜を過ごす賭けに挑む。迷路のような墓地には不気味な生物や無数の目を持つ奇妙なゾンビが跋扈。だが、中盤から人間臭いゾンビの低脳寸劇が盛り込まれ、完全なる中だるみ地獄に突入する。『オウガー』は古城を訪れた女流小説家が、夜ごと蘭の香りを放って出現する忌わしい魔物に襲われる。
 心霊版『郵便配達は二度ベルを鳴らす』こと『アンティル・デス』は、『黄色い戦慄』唯一の本邦未ビデオ化作品。映画祭終了後、各ビデオ会社に営業をかけたが全て門前払い。本編を観たはずの誰もが結末を覚えていないなど、数々の伝説を残した問題作だ。愛人と共謀して夫を殺した若妻が、亡夫の面影を宿すミステリアスな美青年に翻弄される。ラストですか? 泣き落としに入った若妻を幽霊が許す衝撃展開が待ってます。そりゃ全人類の記憶から抹殺されるわ! というわけで、『黄色い戦慄』はいずれもツカミは上等。しかし、次第に物語が停滞し、閉鎖空間で登場人物が右往左往するグダグダの泥濘展開に。もちろん派手な流血も皆無で、睡魔が降臨。ふと目覚めるとビデオが巻き戻っている始末。まあ、所詮はTV、飽きたらいつでも寝て下さいという意思表示なのかもしれないけど……。その辺を突っ込まれたバーヴァはこう答える。「TVでは子供受けを狙わないとね。冗長なのは貧しい脚本と予算不足のせいさ。それでもアルジェントの『サイコファイル』よりずっとマシだよ(笑)」そんなバーヴァが製作も兼任し、予算の配分にも目を光らせ、慎重にシナリオを練り上げたと豪語するのが『ハイテンション』シリーズ。こちらは1本も輸入されていないが、愉快な珍品奇作揃い。「恐怖の王子/The Prince of Terror」は、恐怖映画の大家ヴィンセント・オーメンを逆恨みした脚本家と俳優が、彼とその妻子を自宅に監禁。ところがオーメン氏は本物の悪魔で、脚本家は氏が打ち放ったゴルフボールで足の骨をへし折られて七転八倒。死んだ俳優はゾンビと化し、口からゴルフボールを機関銃の如く連続発射する。あまりにもシュールな結末は爆笑必至だ。「死なない男/The Man Who Didn’t Want to Die」は、『愛よりも非情』(1993年)の人気作家ジョルジュ・シェルバネンコ原作の復讐サスペンス。負傷した仲間を見捨てた窃盗団がひとりずつ殺されてゆく。「恐怖学園/School of Fear」はバーヴァもお気に入りの小佳作。名門校に赴任した若い女教師が、クラスで密かに流行する奇妙なゲームの存在を知り、不可解な事件に巻き込まれる。学園物特有の不吉な密室感描写はなかなか。バーヴァが小馬鹿にした『サイコファイル』の挿話と同名の「目撃証人/Eyewitness」は、閉店後のデパートで殺人現場に遭遇した盲目美女の物語。容疑者となった彼女の恋人が無鉄砲過ぎる行動で捜査を翻弄、真犯人は致命的におっちょこちょいで人違い殺人を連発。盲目美女が養護施設に身を寄せると、犯人は盲人に扮して魔手を伸ばすが、施設の利用者たちに見つかって集団リンチされ、気がつくと絶命していた。想像を絶する投げやりなオチは、ある意味不条理なホラーの真髄。監督本人でさえ「もう題名も覚えていない」ほどの突貫作業で、文字通りマカロニ=空洞感溢れる恐怖世界を構築したバーヴァ。現在もコンタクティVホラーを撮り続けるその動向がちょっと気になる存在だ。

●フルチ×レンツィ、古参職人の逆襲

 TVホラーは熟練監督にも最後のひと稼ぎのチャンスを与えた。『サンゲリア』(1979年)の流血帝王ルチオ・フルチと、『人喰族』(1981年)の残酷モンド職人ウンベルト・レンツィは、レテイタリア資本で『呪いの館/Le case maledette』(1989年)シリーズ4本を監督。うち、フルチの2本は日本でもビデオ化済み。『ルチオ・フルチのクロック』は時計だらけの豪邸に住む老夫婦が死後、時間を逆行させて復讐を果たす。『ルチオ・フルチのホラー・ハウス』も非業の死を遂げた夫婦が幼い我が子と離れまいと成仏を拒み、血の惨劇を招く。一方、レンツィ担当分は未公開のまま。『魔女の館/The House of Witchcraft』は、オカルト狂の妻と結婚した青年がおぞましい魔女の悪夢に苛まれる。『迷える魂の館/House of Lost Souls』では廃屋を一夜の宿に選んだ旅の若者が次々と怪死。巻頭早々、僧侶が黄金の布袋像に斧を振り下ろし、叩き割られた脳天から血が滴る素っ頓狂な悪夢映像が炸裂し、洗濯機に襲われた少年は回転槽に首をもぎ取られる。ボロ雑巾のような物語に唐突に挿入される残酷イメージはマカロニならでは。しかし、こんなに血みどろで大丈夫なの? フルチもレンツィも「このシリーズの権利は世界中に売れたが、国内放映は未定」と述べており、案外TVレベルの安物映画を監督のネームバリューで海外に売り飛ばすのが目的なんじゃねぇのかと勘ぐってしまう。それでも晩年のフルチはこうした血まみれTV仕事で大奮闘。棒でブン殴られた有閑マダムの頬が裂け、眼球が飛び出す『タッチ・オブ・デス/死の感触』(1988年)、スケベなナチスの怨霊将校が美女を犯す『ルチオ・フルチのゴーストキラー』(1988年)は過激すぎて電波に乗らず(前者は真夜中にひっそり放映)、現在はフィルム素材も残っていないという。この2本と『ルチオ・フルチの新ゾンゲリア』(1988年)など数本の名前貸し“監修”作品の流血ハイライトを抜粋流用した、『ナイトメア・コンサート』(1990年)も見逃せない1本。エログロ撮影現場で疲弊し、心身共にフニャフニャの老監督をフルチ本人が自虐熱演。殺人鬼が犯行を映画監督のせいにするという「ホラー映画批判への皮肉」も込めた(本人談)会心作だ。本国では劇場公開作とする資料もあり、本来ここで取り上げるのは筋違いだが、撮影は16ミリだし、その素性は限りなく怪しい。そもそもTVで流れないTV映画って何なんだよ……。
「TVは難しいね。画面が小さいから平坦な絵作りしか出来ないし、視聴者も飽きっぽい。喉が乾けばビールを取りに行けるし、見逃した箇所はビデオで巻き戻せばいい。映画に対する扱いもひどい。作家の名作を深夜や早朝に放送して、プライムタイムには薄っぺらいバラエティ番組を流してる」
 フルチの言葉からは飯の種となったTVに対する複雑な心境が透けて見える。
 こうして眺めると旧世代の映画監督たちはメディアの違いを語りつつも、TV作品を映画の延長線上にとらえている。デジタル技術の導入で製作体制が一変するまで、それ以外の認識を許さない環境もあっただろう。旧世代マカロニTVホラーの正体は、映画として売り飛ばされた、映画ならざる悲しい何か、だったのだ。

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