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特別ロング・インタビュー 青空も青春も、あらゆるブルーを嫌う少女が過ごす異人との夏。『ブルーを笑えるその日まで』(2023年12月、アップリンク吉祥寺で公開)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で上映。武田かりん監督への独占取材で本作への思いを聞いた

タイトル写真『ブルーを笑えるその日まで』より

 7月15日~23日までの間、埼玉県川口市でSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2023が開催された。「若手映像クリエイターの登竜門」として、日本のみならず世界各国の新鋭作家による作品を上映する映画祭。コロナ禍でも、創造のともしびを消すことなく奮闘し、20回目となる今年は昨年と同様、リアル会場とオンライン配信のハイブリッドで開催。長編、短編含めて多様な映画がそろったラインナップの中で、武田かりん監督の初長編作『ブルーを笑えるその日まで』を、7月17日のワールドプレミア後に行われた舞台挨拶の模様と共に紹介する。さらに、武田監督への独占ロングインタビューで本作への思いをうかがった。

上映後のフォトセッションにて。(左から)片岡富枝、夏目志乃、渡邉心結、武田かりん監督

「ヤな天気」アンはそうつぶやく。中学生のアンは青が嫌いだ。青空も、青春も、制服の青地も。それなのに、憎たらしいほど快晴は続き、制服を着させられ、嫌でも青春を過ごさなければならない。学校にも家にも居場所を見いだせないアンは、昼食時間中もいつも独りで、校内の立入禁止の階段に座り、薄暗い空間で弁当を食べている。ある日、不可思議な商店で謎の店主から万華鏡をもらったアン。いつもの暗闇の中で、それを覗いてみる。すると、立入禁止の扉が開き、その先の屋上には、同じ万華鏡を持った見知らぬ少女・アイナがいた……。
 武田かりんは、東京工芸大学映像学科映画研究室に在学中より、助監督や制作部として、プロアマ含めた多くの映像制作に携わる。2020年、卒業制作として、39分の短編『そして私はパンダやシマウマに色を塗るのだ。』を監督。本作は、白黒ハッキリつけないと気が済まない極端な思想の女性が主人公。恋人に別れを告げられたことで、アイデンティティがゆらぐ危機に直面した彼女が、目の前に突如現れた、自称幽霊の中年男性と出会ったことから、自身を見つめなおしていく。白と黒しかなかった彼女の見る世界が、文字どおり段々と色づいていく楽しさ。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭、神戸インディペンデント映画祭に入選し、カナザワ映画祭では主演の有雪が「期待の新人俳優賞」を受賞した。
 ノストラダムスの大予言がはずれ、終わらなかった世界を舞台に、自称幽霊の謎の男を伴い、新たな感情と色を獲得していく物語の『そして私はパンダやシマウマに色を塗るのだ。』。それを経た最新作では、青々とした世界を嫌悪する中学生が色と対峙する新たな青春譚が綴られる。
 主人公のアンを渡邉心結が繊細に演じ、彼女に共鳴するミステリアスな少女・アイナ役を角心菜が務めた。商店を営む店主役の片岡富枝、図書館司書役の夏目志乃が、アンを見守る大人の立場で登場し、脇を固める。他、佐藤ひなた、成宮しずく、丸本凜らフレッシュなキャストも出演。

撮影中の武田かりん監督

 アンを強迫観念的に取り囲む無数の”青”。教室の壁いっぱいに貼られた、生徒たちによる書道の”青春”の言葉は、アンにとっては呪詛でしかない。本来なら、瑞々しい青春を象徴する色であるはずの”青”は本作でアンを追いつめる悪魔の色として、彼女の世界を覆っている。ナイトシーンも漆黒ではなく、青味がかった黒であり、校内の暗がりであっても、青空から降り注ぐ太陽光の明るさからは逃れられない。どこまで逃げようとアンを追い詰める青の地獄。
 青に対するネガティブな感情は、武田自身の経験からきている。「中学生時代に、青い空が嫌いで、カーテンを閉め切り、ヤな天気だなと思っていた」と当時を振り返る。「タイトルの”ブルー”も、青空や憂鬱な日々や、青春とか、若い日の記憶とか、いろんな意味の青を笑える日が来るまで、という意味なんです」とタイトルに込めた思いを説明した。
 ”キタノブルー”と海外で形容された北野武の『ソナチネ』を思わせるカットもあり、本作は”タケダブルー”と表現したくなる、創作者の心にあるブルーで塗り潰された映画だ。

アン(演:渡邉心結)の日常は”青”の呪いで覆われている

 アンは、度々訪れる商店で、顔なじみの店主から万華鏡を渡される。見た目はごく普通の万華鏡だが、特別な力があるという。これを手にしたことをきっかけに、アンを苦しめる青一色の世界に変化が生じていく。この商店は、よくある雑貨や菓子類を扱う個人商店のように見えるものの、アンを新世界に導く”ゲート”の役割を果たす。こういった不可思議な店は、テレビシリーズ『13日の金曜日』(ジェイソンは出てこない)に登場する、魔力を秘めた骨董品を扱うアンティークショップや、『昭和歌謡大全集』で拳銃を売る金物店、あるいは『笑うせぇるすまん』でメフィストフェレスの喪黒福造が迷える者を誘い入れるBar「魔の巣」を想起させる。現実からの逃避を切望する者だけに開かれる神殿。この商店の扱いに、武田は相当に悩んだそうだ。「(脚本では)ひとりぼっちの女の子にしか見えていないという気持ちで作りました。でも、書いているうちに現実に存在している感じになり、わたしの中でも曖昧になってきてるんです」と作り手自身すら惑わせる、夢か、うつつか判然としない空間ができあがった。

迷える少女に導きを与える、謎の店主(演:片岡富枝)

 屋上へ行くことができないよう、閉じられた扉。しかし、アンが魔法の万華鏡を覗くと、扉が開いた。屋上には、謎めいた雰囲気の少女・アイナがいた。彼女もアンと同じ万華鏡を手にし、そして孤独であった。波長が合った二人は、夏を共に過ごし、心を通わせる。息苦しい日々から解放される、夢見心地の二人だけの時間。

二人だけのかけがえのない夏。アンの心を開いていくアイナ(演:角心菜)

 アンが通う学校にはある噂があった。屋上で死んだ生徒の幽霊が現われるというのだ。大林宣彦が映画化もした、山田太一の小説『異人たちとの夏』は、子供の頃に死んだ両親と、ひと夏を過ごす男の物語だった。『ブルーを笑えるその日まで』も”青春ファンタジー”と銘打っているが、現実と幻想を描くにあたって、武田には強い意志があった。「ファンタジーだけど、現実の中に存在しえるファンタジーにしたかった。この映画を夢物語にはしたくなかった」と思いを述べていたが、少女たちの幻想的な物語に現実感を与えることに大きな役割を果たしているのが、主題歌の「君が僕を知ってる」だ。RCサクセションが1980年に発表したこの曲。”何から何まで君がわかっていてくれる”、”僕の事すべて わかっていてくれる”と、二人の信頼関係を歌い上げる内容は、相手が自分を包み込んでくれると心の底から信じあえるアンとアイナの関係に重なる。主題歌に採用した経緯も、本作を作り上げていく過程と密接に関わっていた。「わたしには、この人がわたしのことを知ってくれているから大丈夫だと思える相手は、中学生時代もいまもいなくて」と心情を吐露する武田。「だから、あこがれみたいな、アンとアイナの関係は、そうであってほしいという部分がありました」と登場人物に託した思いを明かす。続けて、「脚本の第一稿を書いたのが三年前なんですが、三年前からずっと、アンとアイナは存在していて、その関係性がズレないよう、勝手に自分で主題歌にして聴いていたんです。プロデューサーに話したら、主題歌にできないかと言ってくださって。まさか、そんな恐れ多い、と思いながらも、事務所さんにお手紙を書きましたら、使わせていただけることになりました」と忌野清志郎の歌声に導かれ、本作が完成したことをしみじみ語った。

互いを信じあえる二人の関係性には、武田の羨望が込められた

「君が僕を知ってる」がリリースされたのは1980年。武田が生まれる前の時代だが、そのときに生きた者の気持ちが込められたレコードには、”あの頃”の記憶が色あせることなく包み込まれている。それは何十年経とうと、新たに耳にした者に、歌い手の当時の記憶を体験させる。アンを気にかける図書館司書の愛奈は言う、万華鏡は二度と同じ模様は見えない、と。本作は、追憶の映画である。万華鏡も空模様も移り変わるが、レコードに刻まれた音と同様、スクリーンに投影される映画の中身は変わることがない。武田がこの先、いかなる人生を歩もうと、彼女がいま、作り上げた映画は固定され、いつまでも”あの頃”の記憶を風化させることなく留める。そして、その記憶にはいつでも誰でも触れることができるのだ。これから生まれてくる者たちであろうと、武田が作った、あの頃の記憶に触れ、そこから新しい色を手に入れることができる。
 SKIPシティでの上映に際し寄せたメッセージで武田はこう言った。「今もどこかで泣いているかもしれない昔の私のような誰かがブルーを笑えるその日まで」と。

アンがブルーを笑えるその日は来るのか

 劇中でアンがブルーを笑えるようになったのかは、作品を観ていただくとして、アンを生み出した武田は本作を通し、大きく成長を遂げた。出演者を含めた皆で改稿を繰り返した脚本、撮影開始後も納得がいくまで話し合いを続けた現場、それらの作業が作品を、そして互いを高めていった。
 夏目は「顔合わせをした2年前から、監督の胸にあるずっしりとした思いが伝わっていて。会えば会うほどに、その思いが大きくなっているのを肌で感じました。現場に入ってからも、すり合わせをずっとしていた気がします。こういった作品はわたしにとっても、初めてだったので、心がすごく入った作品となりました」とかけがえのない経験だったことを述懐。
 片岡は「初めていただいた台本から一年経ち、二稿目の完成台本を読んだとき、監督の成長を目の当たりにしました。削ぎ落とされていき、骨格が見えて、鳥肌が立ちました」と当時の気持ちを思い出すように感嘆した。そして、作品が完成してから、さらに月日が経った今日のこの日を迎え、「ものすごい、いい顔になってて、泣きそうになりました。日々、人ってのはどんどん成長していくんだな、豊かになっていくんだなと、まざまざと感じた次第でございます」と讃えた。
 渡邉も、演じたアンの繊細な気持ちを表現するため、武田とは何度も役について話し合いを続けたことを振り返る。「映画を撮影してるときから、一年経ち、こんなステキなところに立たせていただいて、たくさんの方にこの映画を見ていただけて、本当にうれしいです」と語る渡邊は、万感の思いに浸っているようだった。
 舞台挨拶の最後に武田は「この映画のことが、自分のつたない部分、反省点は多いんですが、大好きで……大好きです」と途中、言葉を詰まらせながら正直な気持ちを吐き出し、集まった観客からの大きな拍手を浴びた。

上映後、舞台挨拶の様子

 映画祭の閉幕から数日後、武田かりん監督にインタビューを行い、創作の原点や最新作への思いなどをうかがった。(2023年7月、オンラインにて)

--本日はいろいろお話をうかがえればと思っております。『ブルーを笑えるその日まで』(以下、『ブルー~』と記載)を観て、この作り手に影響を与えたであろう映画というのが思い浮かばなかったのですが、ご自身が影響を受けた作品はございますか。
武田 子供の頃は映画より、本を読むことが多かったですね。一冊あげるとしたら、『赤毛のアン』シリーズです。『ブルー~』を作るにあたって、アンとアイナの関係性は、アンとダイアナのような関係がいいと思っていて。絶対的な友情にすごい、あこがれがありました。中学生時代に、ちょっとだけなんですけど、入院していた時期がありまして。当時、人と対面するとうまく声が出せなくて、誰ともしゃべれなくなり、三年間、ほとんど学校に行けませんでした。その理由が、話すことができないから誰とも会えないと思って、部屋に閉じこもってたんです。入院していた時期、持ち込みしていいものが本や身の回りのものなど限られていました。それで、ずっとひとりで本を読んでたんです。物語の中の友情にあこがれてて。わたしの中で大切な原点になっていると思います。
--その頃はあまり映画を観ることができなかったんですね。
武田 それもあって、強い影響を受けた特定の映画や監督さんはおりませんでした。『ブルー~』を作る際、影響を受ける映画があったら、もしかしたら作っていなかったかもしれません。自分の見たいもの、あの頃の自分が見たかったものを詰め込んだのが本作でした。
ーー本好きだった中学生時代を経て、映画監督を目指すことになったきっかけは?
武田 通信制の高校生時代も人とうまくコミュニケーションが取れませんでした。そのとき、自分にとっての人とつながる手段として絵を描いていて。描くことで、自分の中にあるものを吐き出したかったんです。高校三年のとき、映画の好きなシーンの構図をクロッキーする課題を出されました。それまで、あまり映画とは縁のない人生だったんですが、名作と呼ばれるもの、例えばキューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』とかを観て、”こんなものあるんだ!”と頭をぶん殴られる衝撃を受けて。それで映画を観るようになりました。進路を決めないといけないとき、ひとりで絵を描くようなアート系に進もうかなと思ったんですけど、エンドクレジットにたくさんの人の名前が流れるのを見て、うらやましくなっちゃって。こんなにたくさんの人と関わって、大きなものを作れる世界があるんだと知ったとき、このクレジットの中のひとりになりたいと。そう思い、映画の大学に入りました。
ーーそれが挑戦の第一歩だったんですね。とても勇気が要ったと思います。東京工芸大学の映像学科に入られますが、入学時はまだ監督志望ではなかった?
武田 三、四年生から専攻が分かれるんですけど、一、二年生は広く浅くの学習で。映画の授業もあったんですが、わたしがやったのは照明助手でした。
ーー在学中から、自主映画含めて、いろんな現場にスタッフとして参加されたんですよね?
武田 現場をとにかく経験したかったんです。ネットとかで調べて、ノーギャラでもいいから制作部や助監督を募集しているところに応募して、飛び込んでました。
ーーすごい行動力です。印象的な現場はありましたか?
武田 いい現場、よくなかった現場どちらもあります。後者の例では、とあるメジャーな商業の現場に、制作会社の方にアルバイトで呼んでもらったときのこと。映像を学びたくて行ったんですが、エキストラが足りないから出てと言われ、骨付きお肉の被り物を被らされて、クラブで踊るシーンに出ました。その帰りに、”ごめんなさい、ちょっとギャラ払えないから、クオカードでいい?”と言われて(笑)。深夜3時くらいにタクシーで帰ったとき、何やってるんだろう、という気持ちになりました。
ーーキツいですね。しかも、クオカード……。よかった現場での思い出は?
武田 大学三年の頃、48時間映画祭(その場で発表されたお題で、48時間以内に脚本、撮影、編集を含めて完成させるコンセプトの映画祭)に参加したかったんです。でも、監督する勇気はなくて。共同脚本として脚本を書き、あとプロデューサーとして人を集めました。監督は、大学の同期の子にやってもらって。『それでも踊る』というタイトルのその作品は、学生賞をいただきました。初めて、自分の作品を観て泣いたんです。

いまでは、劇場公開映画を手掛ける武田かりん監督

ーーその時点では、まだ監督をしたご経験はなかったんでしょうか。
武田 実は一回、やりかけたことがありました。大学一年の入学したての頃、皆で自主制作をやろうって。わたしに脚本を書くようお願いされました。一晩で書いたんですけど、楽しくてしょうがなくて、気がつくと、もう朝でした。映画のこともよくわかってなかったのに、物語を作ることが楽しくて、気づいたら朝になってた感覚が、いまの何かにつながるヒントになってたのかなと。
ーー初期衝動は大事だと思います。ミュージシャンでも、中学生の頃に初めてギターを手にしたとき、一日じゅう、かき鳴らしてたという話をよく聞きますし。
武田 かっこよく言えばそんな感じです(笑)。初脚本の映画は撮影もしたんですが、結局、途中で頓挫してしまいました。でも、初めて物語を作る興奮を経験しました。
ーーちなみに、その作品はどういうお話だったんでしょうか。
武田 『魔法のカフェオレ』というタイトルで(笑)。大学生の男の子が主人公で、はっきり気持ちを口に出せなくていつも後悔している子が、ある日、不思議な喫茶店に行ったら、不思議なマスターに、”君は優しすぎるんだよ”と言われて。マスターにカフェオレを作ってもらうんです。それが魔法のカフェオレで、それを飲むと次の日から思ったことを言えるようになる。物語の最後、マスターにお礼を言いに行ったら、マスターが”あれは普通のカフェオレだよ。変わったのは、君の力”と言われるお話(笑)。20分くらいかな。18歳の頃に皆で。
ーー正統なジュブナイルを感じさせるお話です。不思議な店が出てきたりと、ファンタジックなエッセンスは『ブルー~』にもつながっていってますね。卒業制作では、『そして私はパンダやシマウマに色を塗るのだ。』を作ることになります。
武田 一年をかけて皆で一本作るんですが、まず自分の企画のプレゼン大会をするんです。それで選ばれました。自分が監督をしなくてもいいのですが、企画を練っているうちに思い入れが強くなって。これを誰かに渡して違うものにされてしまったらイヤだと。失敗してもいいから自分でやろうと。
ーーカナザワ映画祭で拝見させていただきました。『ブルー~』とはかなり毛色が違う作品ですね。
武田 とにかく企画プレゼンで勝ちたかったので、ちょっとパンチの利いたものにしました。主人公の心情に合わせ、モノクロ画面が徐々にパートカラーになっていく斬新さで、投票してもらおうと。あと、卒業したら皆、就職してバラバラになっていく感じだったから、楽しく作って思い出になる作品にしようと。明るくて、コメディが混じった作品にしました。
ーーコロナの影響はありましたか?
武田 撮影時は大丈夫だったんですが、卒業式では皆マスクでした。
ーー卒業したあとは完全に自粛ムードの社会だった。
武田 皆が就活して卒業していく中で、自分はどうしようと思ったとき、もう一本作りたくなって、就職するのをやめました。生きているうちに、本当の気持ちでもう一本、映画を作りたいと。就職しないで、卒業したら映画を作るぞ! みたいな気持ちだったんですが、いきなり人と関われない世界になってしまい……。脚本はずっと書いてたんですけど、それもやりつつ、高校以来、久しぶりに絵を描いて過ごしていました。
ーー渡辺紘文監督が率いる大田原愚豚舎という、栃木が拠点の映像制作集団があるんですが、新作の『生きているのはひまつぶし』は、コロナ禍で自宅にこもって、ずっと絵を描いている渡辺監督自身を撮り続けるセルフドキュメンタリーでした。孤独な状況で自身を見つめなおす創作者の心のうちが似ている気がします。
武田 面白そうですね、その映画にすごい興味が出てきました。絵を描くことは大学に入ってからやめていたんですが、コロナになってまた絵を描き始めて。それをネットにアップしていたら、だんだん仕事をもらえるようになりました。いまはイラストの仕事もやっています。高校の頃、誰かとつながりたくて描いてた絵がいまにつながり、自分の一部になった。人生って無駄なことはないんだなと。
ーー描かれた絵は映画の中に出てきたりするんですか?
武田 出てないんですが、うまくつなげられないかなと。SKIPシティの映画祭で、わたしが描いたイラストを使った、『ブルー~』のステッカーを配りました。
ーー12月の一般公開のとき、イラストを使ったグッズを作ったら、売れると思います。
武田 ぜひ作りたいと思っています(笑)。

SKIPシティの上映会場で配布された、武田監督自筆イラストのステッカー

ーー話は戻りますが、『ブルー~』が、その”本当の気持ちで作りたい映画”だったんでしょうか。
武田 そうですね、心の奥底で思ってきたことを作りたいと思いました。卒業制作の映画も、当時の気持ちは入っていますが、どこかでやっぱり制限して、”人に見せていいのはここまで”と線引きしてる感じがあったんです。それを本心だと思われるのがイヤで。だったら、人にずっと隠してきた本当の自分を出して作りたいと。
ーー会社ではなく、自主制作の体制?
武田 はい。発端は三年前になります。大学を卒業したときに企画を作って、お金を貯めながら、脚本を書き進めました。キャストも集まりましたが、制作はなかなかうまくいかず、大学を卒業してから二年目にパイロット版を一度作り、一年後にまた会いましょうと約束をして。そこから紆余曲折ありましたが、多くの人たちの助けを借り、あらためて長編の制作が進み始めました。田口敬太プロデューサー(監督作『たまつきの夢』が公開中)の映像団体・映日果人が製作についてくださり、文化庁の助成金の申請をしていただき、予算を確保できました。ついてきてくれた、スタッフやキャストさん、キャストの事務所マネージャーさんたちには感謝してもしきれません。

一度は完成を諦めかけたが苦心の末、皆との約束を果たした

ーーそして、完成した映画がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2023でワールドプレミアとなりました。
武田 参加できてよかったと思うのは、作品をたくさんの人に観てもらえたこと。夏が舞台の映画なので、夏に劇場公開したかったのですが、それは難しくて。でも、夏の時期に開催されたこの映画祭で上映してもらえました。想像以上に多くのお客さんに来ていただいて。涙をにじませながら直接感想を伝えてくださった方もおり、わたしはそういう人のために作ったと思ってて。たくさんの人に届けたいというよりは、あの頃のわたしみたいな苦しい経験をして大人になった人、あの頃に”ブルー”を通り過ぎた人たち、これから通る人たちのためだけに作ったので、観てもらえただけで、いままでのすべてが報われます。それに、ついてきてくれたスタッフやキャストの皆さんと、映画祭の舞台に来られたことは本当によかった。あとは……すっごい、授賞式の日に悔しくて。
ーーそれは、無冠だったことに対して?
※国内コンペティションの長編作品では、マキタカズオミ監督『ヒエロファニー』が観客賞、松本佳樹監督『地球星人(エイリアン)は空想する』が優秀作品賞とSKIPシティアワードを受賞。
武田 ここに来られただけで十分で、無冠でも悔しくなるとは思ってなかったんです。『ブルー~』を作りたいという気持ちでここまで来たので、この先も映画を作り続けたいという気持ちは、そこまでないと思ってました。でも、授賞式のとき、悔しくて涙が止まらなかった。”こんなに悔しいのは人生で初めてだ!”と(笑)。”こんなに悔しくなるなら、映画への思い、あるじゃん!”と気づいたんです。
ーーそれは、すばらしい気づきですね。
武田 その気持ちに気づかせてくれたのも、賞がもらえなかったからこそ。物語を作るひとりの人間として、わたしはまだ生きられるんだなと。悔しさをもらえたのが、賞よりもデカい財産だと思ってます。
ーー今後も映画に携わり続けたいと。
武田 はい。ただ、本気で映画だけを作ってる人たちと出会って、絵と映画のどちらもやってる自分は太刀打ちできないなと感じました。24時間、映画に捧げないと戦えないんじゃないかとも思いますし、でも、絵もやりたい。そのバランスに悩んでます。
ーー映画とは別の仕事をしながら、映画づくりを続けている人もいらっしゃいます。武田監督に合った創作スタイルが見つけられるといいですね。
武田 物語を作ることを続けたいです。すぐにでも何かを作りたいという気持ちだけはあります。
ーー頑張ってください。12月に一般公開を控えてますが、これから『ブルー~』に触れる方に伝えたいことは?
武田 監督としては、たくさんの人に観てもらいたいです! 頑張ります! みたいな感じのほうがいいと思うんですけど。『ブルー~』に関しては、たくさんの方に届けることより、わたしの観客はたったひとり、あの頃の自分みたいにいま悩んでる人に、これはわたしの、これは僕の映画だと思ってもらえたら、これ以上のことはありません。
ーー爆笑問題の太田さんが、著作のあとがきでこう書いています。ネタを考えてるときは、あるひとりの疲れたサラリーマンを念頭に置いていると。その人が、仕事で疲れて帰ってきて、テレビをつけたときに目に入った漫才で笑ってもらえたらいいなと。そのたったひとりのサラリーマンを笑わせることだけを考えてる、みたいなことを語ってました。
武田 それは自分が考えてることと似てて、いまビックリしました。中学一年の夏休み、初めて”死にたい”とつぶやいた夜のことをいまでも覚えてるんです。もうすぐ新学期が始まる時期、夜中眠れなくて、朝が来るのが怖かった。日々、学校に行く日が近づいてくるのが怖くて、眠れませんでした。深夜、テレビではどうでもいいテレビショッピングが流れてて、わたしはひとり泣いてる。そして、”死にたい”とつぶやきました。あのとき、わたしが想像してたのは、そんなときにテレビがパッと移り変わり、『ブルー~』が流れること。死なないで頑張ってみよう、とまでは思わないけど、明日が怖い、ひとりぼっちだ、と思ってたのが少しだけでも、何か引っかかってくれるかもしれない。『ブルー~』が流れ、それに釘付けになるあの頃のわたし。そういうのを頭の中でイメージしてました。いまの太田さんの話を聞いてシンパシーを感じるというか、たくさんの人に届けたいって言わないといけないかもしれないけど、本当に届けたいのは、たったひとりだと感じます。
ーー正直なお気持ちを聞かせていただき、ありがとうございました。届いてほしい人が『ブルー~』に触れるその日が来ることを願っております。
武田 こちらこそ、ありがとうございました。

『ブルーを笑えるその日まで』は、2023年12月にアップリンク吉祥寺にて公開予定。【本文敬称略】©ブルーを笑えるその日まで
(取材・文:後藤健児)

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