ネバーエンディング・ピングドラム ―成熟拒否を乗り越える物語

ネバーエンディング・ピングドラム
―成熟拒否を乗り越える物語

*『輪るピングドラム』についてのネタバレを含みます。

 幾原邦彦監督による『輪(まわ)るピングドラム』(2011年公開、以下『ピンドラ』)は、カルト的思想・手法・言説が社会のあらゆる場所に跋扈する現代社会において、確かな希望の物語を描き出した。さらに本年(2022年)公開の前後編劇場版によって、『ピンドラ』は作品そのものの主題を改めて明確化し、過去30年来の日本社会にはびこる、成熟拒否という「呪い」を解くための手掛かりを提供してくれた。本作がとりわけ重要なのは、現代社会において、抑圧され攻撃される女性と共に考え、行動し、時に自ら被害を引き受ける「アライ」であろうとする男性にとって必見の作品だということである。以下、『ピンドラ』の主題とその芸術的な狙いを分析し、現代社会への処方箋としての「ピングドラム」を明らかにすることを試みる。

1. ピングドラムの謎


『輪るピングドラム』は、多種多様なメタファーやイリュージョンによって特異な世界観を描き出した『少女革命ウテナ』(1997年)に続く、幾原の監督第二作アニメである。1990年代前半に『美少女戦士セーラームーン』シリーズの演出およびシリーズディレクターを務めた幾原は、少女アニメ的な技法や世界観を自身の作品にも応用する。しかしそれは、女性性をエンタメとして消費し搾取するためではなく、社会における女性性・女性像を問い直し、女性による自己決定を感性的なレベルで表現するための芸術的戦略である。『少女革命ウテナ』は、とある学園において「王子様」を目指す少女ウテナが、「決闘」の勝者に与えられる「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女アンシーと出会い、彼女を解放しようと悪戦苦闘する物語である。最終的にウテナは全世界の悪意に敗北して学園を去るが、それまで学園という箱庭の中で運命に従属するだけだったアンシーが、ウテナを追って学園を去るという「革命」を果たす。一見すると奇抜な視覚的効果や衒学趣味が際立つ幾原作品は、女性の解放と自己決定というフェミニズム的思想に基づいていると言えるだろう。なお幾原が『ウテナ』製作のために結成したチーム「ビーパパス(Bepapas)」は「大人になろう」という意味だとされるが、「父親になろう」というメッセージとも読める。その後の幾原の作品における、解放と成熟という主題がここにも現れている。

『ウテナ』以後十数年を経て幾原が作り上げた『ピンドラ』は、『ウテナ』において描き切れなかった「革命の後始末」を描き出した。それは、『ウテナ』以降、あらゆる言説が相対化され、成熟拒否と逃避願望が社会を支配していくプロセスに対する応答に他ならない。『ピンドラ』は、高倉冠葉(かんば)・晶馬(しょうま)・陽毬(ひまり)の三兄弟による平凡な日常風景から始まる。実は陽毬は難病に侵されており、冠葉と晶馬はできる限り陽毬の望みを叶えてやろうとする。三人で訪れた水族館(池袋のサンシャイン水族館がモデルと思われる)で陽毬は倒れ、病院に運ばれるが、そのまま息を引き取る。絶望する冠葉と晶馬の前で、ペンギンの帽子を被った陽毬が突如起き上がり、「生存戦略ー!」と叫ぶ。ペンギンの帽子を被った陽毬は別人格「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」へと変貌し、陽毬の余命を延ばすためには「ピングドラム」を手に入れなければならないと冠葉と晶馬に命じる。二人は何が何だか分からないまま、陽毬を生き永らえさせるために、「ピングドラム」を追い求める。これが『ピンドラ』冒頭の展開である。
「生存戦略ー!」の掛け声と共に始まり、「イマージーン!」によって終わる、約1分にもわたる、陽毬の別人格「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」の登場シーンのアニメーションは、第7話まで毎回執拗に反復される。明らかにこれは、『セーラームーン』に代表される少女アニメにおける「変身シーン」の文法を踏襲している。第1話における「変身シーン」後のセリフを抜き出してみよう。

きっと何者にもなれないお前たちに告げる。(冠葉&晶馬「あれ、あれー!?」)
ピングドラムを手に入れるのだ。(晶馬「何言ってるんだよ陽毬。」)
妹ではない。わらわはお前たちの運命の至る場所から来た。(冠葉「帽子だ、あの帽子が陽毬を操ってるんだ。」晶馬「そんな、あれは水族館で買ったおもちゃだよ。」)
今この娘はわらわの力で一時的に余命を延ばしている。しかしこの世に無償のものなどない。その命の代償、頂くぞ。(晶馬「待てよ、代償とかっておかしくねぇ?」)
生存戦略、しましょうか。

まず「ピングドラム」が何なのか、陽毬を蘇らせたペンギンの帽子「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」が何者なのか、また時を同じくして彼らの前に現れる三匹のペンギンがどういう存在なのか、一切説明はない。観客は、ただこの不条理な展開を黙って見続けるほかにない。「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」に導かれるまま、冠葉と晶馬は、「ピングドラム」を持っているらしい(「多分な」)少女、荻野目苹果(おぎのめ・りんご)を追うが、次第に彼らは、彼ら自身の過去と向かい合うことになる。
全24話のうち前半部分(1~11話)は、特に晶馬が「ピングドラム」を手に入れるために苹果のいささかエキセントリックな恋愛に巻き込まれる、ラブコメ風騒動が中心となる。場面に独特の緩急を生み出すのが三匹のペンギンのコミカルな振る舞いだが、それは物語の展開にさほど関わりない。ちょうど半分の第12話で、晶馬と苹果の過去の因縁が明らかにされる。苹果のエキセントリックさは、16年前に死んだとされる姉・桃果の存在によるものだが、彼女の死を招いたのが、晶馬の両親だというのである。16年前(すなわち放映当時から換算して1995年)に、とあるカルト集団に属していた晶馬の両親は、地下鉄でテロを起こし、多数の人を殺傷していた。桃果もそれに巻き込まれていたのである。

ここから物語は急展開を見せる。再び死に瀕した陽毬を救った医師・眞悧(さねとし)が実はそのカルト集団の指導者であること、冠葉、晶馬、陽毬が実は兄弟ではなく他人であること、かつて親に見捨てられ「こどもブロイラー」で「透明な存在」にされようとしていた陽毬を救ったのが晶馬であること、冠葉と晶馬が檻に閉じ込められ、一つの林檎を分け合って生き延びたこと、苹果の姉・桃果がかつて「運命の乗り換え」を行う呪文によって地下鉄テロを防ごうとしたことなどが次々と明らかになる。
つまるところ『ピンドラ』とは、1995年の地下鉄テロに象徴される、1990年代の亡霊に決着をつける物語である。冠葉と晶馬も、苹果もそして陽毬も、何らかの形で1995年の出来事に囚われている。彼らが過去の呪縛から逃れようとあがくほどに、自分も周囲の人間も傷つけてしまう。このようにして、「お前が余計なことをしなければ良いのだ」という「呪い」が繰り返し立ち現れることになる。自ら意志を持ち、行動すること、それが悪だという呪縛。その呪縛を解く唯一の鍵が、「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉なのだ。

作中で繰り返し参照される宮沢賢治『銀河鉄道の夜』において、林檎は贈与と分配の象徴である。『ピンドラ』において林檎としてイメージされる「運命の果実」もまた、持つ者の持たざる者への再分配を象徴する。それは「蠍の火」のような、悲壮な自己犠牲ではない。持つ者が持たざる者に分配し、分配された者はまた別の者へという、共有と継承のネットワークが、個別の存在を脅かす呪縛に対して唯一効果的な対抗手段なのだという、極めて現実的・合理的なテーゼである。「ピングドラム」は、愛ではない。愛による贈与の連環のネットワークである。

2. 運命の乗り換え


『ピンドラ』全編を通して、東京メトロ丸ノ内線のモチーフが繰り返し登場する。作中の出来事はすべて丸ノ内線沿線(荻窪、東高円寺、赤坂見附、国会議事堂前、池袋)を舞台としている。三人が暮らす荻窪から終点の池袋までの24駅が全24話に対応し、各話途中のアイキャッチは一駅ずつ電車が進むアニメーションとなっている。また場面転換や回想シーンの演出は、自動改札や電光掲示板など、電車に関わるデザインが用いられる。そして、物語上重要な展開が、しばしば(現実あるいはイマジネーションの)電車内で行われる。

こうした執拗な電車のイメージは一体何か。一つには、同じコンセプトのデザインを反復することで、製作のコストを抑えるという実利的な意味があるだろう。モブの人物がすべて無個性なピクトグラムとして描かれるのも、本作における実利を兼ねた美的特徴としてよく指摘されるところである。しかしもちろんそれだけではなく、電車のイメージは「運命の乗り換え」というモチーフを感覚的に了解させる仕掛けとして機能する。

第1・2話がそれぞれ晶馬と苹果の運命についてのモノローグで始まっていることからも、本作の主題の一つが「運命」であることは明らかだ。運命があらかじめ全て決まっているのならば、人間の意志や感情には何の意味もないかもしれない。だから晶馬は運命を厭い、逆に苹果は運命を求める。晶馬は陽毬の死という運命を拒絶し、苹果は運命日記に書かれた未来の内容を実現させようと試行錯誤する。しかし運命を拒むのも、それに盲目的に囚われるのも、運命という概念そのものを疑っていないという意味では、同じコインの裏表である。ではどうするか。

ここで運命とはどういうものかと考えよう。運命という概念は二つのモデルとして考えられる。一つは直線的・不可逆的なモデルであり、もう一つは円環的なモデルである。一方では、この世の初めから終わりまで一直線の矢印が伸びており、その到達点から眺めれば、全てのことはあらかじめ決定されていると考えられる。他方では、万物の終わりは始まりに等しく、あらゆる事象は生々流転の変化の中で無限に運動し、終わりは存在しない。前者をキリスト教的世界観、後者をニーチェ的永劫回帰の思想と言うことができる。『輪るピングドラム』というタイトルが示す通り、本作において重要なのは後者のモデルである。ただしニーチェの永劫回帰思想は、その後独裁政治に悪用されたという歴史を持つ。万物が永遠に回帰する中でそれでも行為するという人間の意志を重視するニーチェ哲学は、社会が混乱する中で正当性を無視して決断・実行するカリスマを肯定することにつながったからだ。

故に『ピンドラ』では、「運命の乗り換え」という形で、ニーチェの思想的問題を乗り越える。確かに運命はある。それは地下鉄の路線のように、あらかじめ決められたレールの上を走っていく。ただし、そこには様々な「乗り換え」のための出口が開かれている。それゆえ円環は単なる繰り返しではなく、絶えず変化の可能性を含んでいる。こうした考え方は、カルト的共同体の中で育てられたカルト二世の支援においても重要である。彼らは強固な価値観によって社会から隔絶され、定められた世界の中を生きなければならない。直線的な運命モデルでも、円環的な運命モデルでも、彼らを救うことはできない。しかし、「運命は乗り換えられる」という明確なメッセージは、閉じた世界を抜け出し、新たな運命を切り開くための助けになるのではないか。

ここで本作は『ウテナ』の思想的限界を乗り越えたと筆者は感じる。『ウテナ』のキャッチフレーズは「世界を革命する力を!」だった。ただし本当の革命とは、学園を改革することではなく、アンシーというたった一人の少女が学園を歩いて出て行くことだった。「この先には絶望が待っているかもしれない、それでも出て行く」というアンシー(とウテナ)の決意は、間違いなく感動的に美しい。しかしそれは、最終的に女性(たち)に決断とその責任を負わせるものだったことも否めない。言い換えれば、家父長制を抜け出していく女性たちに対して、「不幸が起こってもそれは自己責任」という非難を投げつける余地を与えてしまっていたのである。

それに対して『ピンドラ』における「運命の乗り換え」は、「運命の果実を一緒に食べよう」という呪文によって成就する。もちろん運命の果実とは、アダムとイブが食べた知恵の実のイメージにも重なる。イブが悪魔にそそのかされたとか、アダムがイブにそそのかされたとか、責任を押し付けるのはもうやめよう、分け与えることで運命を乗り換えよう、というわけである。何より本作が重要なのは、運命の乗り換えに際してわが身を焼くのが陽毬と苹果ではなく冠葉と晶馬だということである。これは、一見するときわめて保守反動的な、「女を救うために命を投げ出す男」というマッチョな男性像に見えるかもしれない。しかしそうではない。事実、冠葉は作中で一度ならず陽毬を助けようと我が身を犠牲にしようとするが、それはいずれも失敗に終わっている。運命の乗り換えによって彼らが救うのは、「女を救うヒロイックなオレ」ではないことは明らかである。彼らが救うのは、贈与の連環によるネットワークとしての「ピングドラム」そのものである。彼らの行為は、一度限りの陶酔的な自己犠牲ではなく、分配と共有のネットワークを未来へと繋いでいく行為である。

陽毬も苹果も、それぞれに問題を持っている。しかし『ピンドラ』は、彼女たちが変われば万事解決、といった安易な結論を導き出さない。彼女たちの意志を支え、守り、運命の乗り換えの代償をその身に引き受けるのは冠葉と晶馬である。(なお幾原はアニメ『ユリ熊嵐』(2015年放映)において、「あなたを変えるのではなく私が変わる」という形で、引き続き同じ問題に取り組んでいる。)

3.『はてしない物語』と『ピンドラ』


 ここでいささか唐突ではあるが、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を引き合いに出したい。主人公バスチアンは、古本屋で見かけた『はてしない物語』に奇妙に心惹かれ、その本をこっそり持ち出してしまう。彼が学校の物置で読む『はてしない物語』は、次のようなものである。作中で描かれる世界「ファンタージエン」は、「虚無」によって滅びに瀕している。ファンタージエンを救うことのできる勇者を探すために、少年アトレイユが女王「おさなごころの君」の代理人として冒険の旅に出る。冒険の果てに、アトレイユは勇者を見つけ出せずに女王のもとに帰還するが、実は彼は任務を果たしていた。女王に新しい名前を与え、ファンタージエンを復活させることができるのは人間の子供だけであり、アトレイユの冒険を読み続けていたバスチアンこそがそれだったのである。彼は物語の世界に入り込み、女王に新しい名を与えて世界を救う。この前半部分がアメリカで『ネバーエンディング・ストーリー』として映画化された。しかしここで終わってしまっては意味がない。『果てしない物語』の重要な展開は、むしろ後半にあるからだ。バスチアンはファンタージエンを救い、その報酬としてどんな願いでも叶える力を手に入れる。彼は英雄として旅を続けながら次々に望みを叶えていくが、実はその代償に現実世界での記憶を失っていくのだった。やがてバスチアンは、親友であったはずのアトレイユをも追放し、暴君と化すが、記憶をすべて失った末路を知り、これまでの行いが過ちであったことを悟る。彼はアトレイユと和解し、彼の助けによってついに現実へ帰還する方法を見つけ出す。

 以上が『はてしない物語』のあらましである。『はてしない物語』は、異世界に入り込んだ主人公がアイデンティティの危機に直面しながらもそれを乗り越え、成長して帰還するという、典型的な「ビルドゥングスロマン」(教養小説)の構造を持つ。しかしそれだけではなく、虚構と現実の相互作用的な関係が巧みに描かれている。虚構の世界と現実の世界は互いに影響し合っており一方が滅べば他方も危機に瀕すること、双方の世界を健全に保つには虚構の世界を経験して現実世界に帰還する存在が必要であること、これまでも多くの子供達がそうしてファンタージエンを訪れてきたことなどが物語の中で明らかになっていく。すなわちファンタージエンとは、辛い現実から逃れ無垢な子供のままでいられるユートピアなどではない。そこには多くの罠(たとえば絶対的な権力や暴力への誘惑)が存在し、それに陥った者には悲惨な末路が待っている。ファンタージエンは、訪れた者が人間の弱さや醜悪さと向かい合い、それを乗り越えて成長し、現実世界をさらに良いものにしていくために存在するのである。原作におけるこうした抵抗と成長の物語というエッセンスは、映画版『ネバーエンディング・ストーリー』では完全に無視され、無垢な子供の幻想のみが虚構の世界を救えるという、単純化された成熟拒否の物語になってしまった。

 『ピンドラ』では現実と虚構のみならず、現在と過去の行き来が描かれる。主要な登場人物たちは双方を行き来することによって、アイデンティティの危機に直面する。その果てに彼ら/彼女らが出した結論が、「運命の乗り換え」であることはすでに述べた通りである。この点は、少女という存在がほぼ登場しない(つまり徹頭徹尾「男の子の/男の子による/男の子のための物語」であった)『はてしない物語』とは大きく異なる。『ピンドラ』は、『はてしない物語』が提起した、そして今なおそのアクチュアリティを失わない「抵抗と成長」というエッセンスを引き継ぎ、それを見事に発展させた。エンデはまた、別の作品『モモ』において、はてしない欲望の危うさを戯画的に描き出すことで、自己と世界を破壊し尽くすまで止まらない資本主義のエゴイズムに対して鋭い批判を投げかけた。『ピンドラ』は、成熟拒否とエゴイズムという現代社会の病理を批判的に描き出すのみならず、それは愛による贈与の連環のネットワークによって乗り越えることができるという道筋を示した。それはもちろん、英雄によるハッピーエンドが存在しない「はてしない物語」である。しかしその「終わりのなさ」こそが、この世界における一筋の希望に他ならない。

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