悪意/偏見など

悪意について


人はチクッとする針を持っている。
それを表に出すのか出さないのかはさておき。
それは悪意だ。
普段はあまり見えない、だから刺さらないし痛くない。

暗黙の了解で人の前ではあまり出さない。
しかし時たまそれが破られて針を見ると残念な気持ちになる。

見えなければ存在しないのも同然に見えるけれど、心の中に悪意があってただそれが見えていないだけなら。それはそれで残念だ。
けれど明るい人当たりのいいあの子やあの子やあの子でも人間だから思うことはある。悪意のエッセンスがない人はあまりいないだろう。
人当たりは心を隠す能力だったりもする。

人は針と針を隠し持ちながら生活していく。

思うことがあっても陰口はあまり好きではない。
なんだか悪いことをしている気持ちが強い。実際に褒められることではないし。自分の中で思うのも仕方なさもありながらいいことではない。そしてそれを表出させたら良くない。ただ自分は出てしまう時がある。その時にやってしまったと思うけれど、結局は心が変わらないと繰り返す

大切なのは自らの悪意に目を向けることだと思う。
今自分は悪意を持っているなと知覚する。そしてその気持ちを恥じる。その心持ちを恥ずかしく思う。そうやって矯正していくしか人は変わらない。

偏見について

つい最近まで偏見を持たれていた。今は誤解が解かれたが偏見を持たれることに良い気持ちはない。悲しかったり悔しかったりもする。そして思うのが解かれないまま時が過ぎてしまうこともあるだろうなということ。そうやって知らず知らずのうちに壁を敷かれる。距離を置かれる。そういうこともあるだろう。

ただそういう自分も偏見を持ってしまう事がある。

「よく接していないのに決めてはいないか?」
「なんとなくで決めつけていないか?」
「偏見が尾を引いて冷静に勘定できておらず不当な減点方式をしていないか?」

これらの問いに対しては心許ない。
つまりはそう自信を持って答えられない。

偏見を持たずに接するオープンマインド。
これが一番難しかったりもするけれどこれを頑張りたい。
よく知らないくせに判断する。それは良くないない。されたら嫌だろう。

苦手かもと感じた人こそ関わる。結果は分からないのだから。
すぐに判断を下して可能性を消すなんて勿体無い。
自分視点じゃなく相手視点で考えてそもそも失礼。
勝手に判断するなんてリスペクトがないな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?