見出し画像

雑記

作詞家の松本隆が、詩は日常のひび割れであるみたいなことを言っていて、確かにそうだなと思いつつ、それって別に詩だけの話ではないんじゃないかと思った。
多くの作家は伝わるか伝わらないかで日々苦心している(してほしい)と思うんだけど、各々の感受性が捉えるひび割れの程度みたいなものがどんどん大雑把になっていないかと思う。割られてる部分を修復しようとする人たち、ひびではなく完璧に割ってそれを誇らしげに他人に見せる人たち、そもそも割れてること自体になんの関心も向けない人、など。
創作や文化、文学でも何でも他人という存在を捉えるすごさを伝えようとする点で厄介なのが、なんの関心の向けない人の存在だ。
当たり前だろと思うが別に上記の人たちが何をしようとも我々は何もし得ないのであって別のすごい人から見たら僕たちは全然上記の人に当てはまるのだ。

自分は今高校生で軽音部に所属していて、よくTwitterやなんかだと体育会系の狭さ圧力の雰囲気の嫌さみたいなのが定期的に語られるが、別にそんなに軽音部も変わらない。上下関係みたいな目に見えるやつで言えば一年は全然大きいアンプを持たされて一階から四階に持ってきせられたりするし、まあそういうところでも"体育会系"の幻想みたいなものは語れるんだけどそういうのは置いといて、軽音部特有の嫌さみたいなものがあってじゃあその体育会系の幻想とやらと何が違うんだと話にもなるが、ここでの嫌さは音楽や芸術の権威的な部分を多いに感じるのだ。まず流行りの曲みたいなものの圧力がすごく、かといってそんな盛り上がるわけでもない(みんな知ってるから)のに未だ選曲基準として大きく影響している部分や、あと副顧問が音楽にうるさい顔してそんな音楽を知らないのとか色々あるがやはり大きな部分は高校生特有の自意識が楽器の熟練度と重なっていてる部分だ。その場にいる少しでも他人について考えたことがある人は見てられないと思う。楽器が上手くなるごとに聴衆の評価はもちろん顧問も褒めてくれるし、曲がりなりにも高校生の"表現"なので、賞ももらえる。
ここでの表現とはみんなを喜ばせることであって表現の奥行きさや技巧、物珍しさみたいなものとはあんまり関係なくて、喜ばせるということで評価が上がるので必然とマイノリティ的な表現をしている人のあたりが強くなり….あー!!!!!!こうやってぶつくさ書いてても結局自分が知ってる視点でしか語れないし、俺のこの文章他人を変えようみたいな圧力があって怖い!ともかく軽音部も軽音部なりの嫌なことがあるよ!っていう事を伝えられればOKです!みんなありがと!さよなら!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?