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大人になるってどういうこと?


「悠葵ちゃん、成長したね」と言っていただくことが増えた。
ここ1年、病気の状態が急に良くなってきた。
自分の気持ちや感情、現状と向き合うことも少しづつできるようになってきた。でも急すぎて、なんか自分についていけなくてぐっちゃぐちゃになる。


色んな経験を経て、たくさんのお話を聞いて知って、数えきれない希望と絶望をみてきた。
そうしたら、多くの予測ができるようになる。
例えば、机の端っこに水の入ったコップを置いておくと引っ掛けてこぼしやすい、とかを知ってるから、私たちはコップを机の真ん中の方に置く。

大人は、こぼしても泣いて怒ったりできない。ママのせいにして黙っててもお父さんが拭いてくれるなんてことはない。
大人は、こぼしても静かに息を吐いて、自分の気持ちを落ち着かせる。自分で拭けなかったら、拭いてもらえますか?って人に聞いてお願いができる。


私、この間まで大人ってみんな、喧嘩しないで悩みもなくて全ての答えを知っているものだと思ってた。


私たちは、何も知らない。
今日、好きなアノ子が何しているとか、このお茶は本当に国産なのかとか、宇宙は本当にあるのかとか、本当は何も知らないんじゃないか?と思う。


「仕方ない」が受け入れられるようになってきた。
最近までは、そう思い込ませていた。相手の状況に共感して理解した上で「仕方ないさ」って自発的にいうようになってきた。


親しい人に、あなたは感謝が足りないって言われた。

本当にその通りだった。静かに思い返したら、この人生、有難いことばかりだ。なのに、私は、それを踏みにじるようなことばかりして生きてきていて、過言じゃなく、大切なものを全部私が壊してきた。それに「安心」という言葉を当てはめて、自分を認める行為にしていた。なんて最低な人間なんだってシャワーを浴びながら泣いた。そうやって言葉にして私が理解するまで説明してくれる人がいて、私は本当に幸せ者だ。小学生の時「叱ってくれる人がいるのは幸せなことなんだよ」って言われたことを今思い出している。


今までの20年間で関わってきてくださった人1人残さずに謝ってから感謝をしたい。

「おかげさまで、ここまで生きてこれました。」


課題とか映画とか本とか絵を描くことで自分と向き合うことから逃げていた。
いや、本当にやることが終わらなかったのもあるんだけど、というか今も終わっていなくて終わりが見えなくて目の前の締め切りから一つ一つこなしていくしかないんだけど、その案を練るのにも散歩したり映画見たりしなきゃいけなくて。
元々口にするのが苦手だった私の感情は、好きも嫌いもどこかに隠れてしまって、もくもくとしている不安たちだけが顔を見せている。どうしたものかとノートに書き出して整理するけど、感情たちは出てこない。

友だちが話を聞いてくれた。
ようやく豊かな感情が戻ってきて、というか、戻りすぎて、楽しくなりすぎたり、急に何もかもがダメなんだと感じる。
逃げちゃダメってわけではないけど、自分の感情から逃げると、とても心地が悪い。すごくダメな人間だと思い込んでしまう。

今まで自分のことに精一杯で、人間関係に悩むことがあまりなかったから、相手を見過ぎようとして穴が開いている。結果、何も見えていない。
言葉や行動の裏側を憶測して妄想になっている。


みつめるって、信じるってことだ、きっと。


今までのその人の言葉や行動を信じて、信じきれなくなってきたら、感情を、今持ち合わせている精一杯の表現方法で伝え合うしかない。

信じられなくなったから終わるなんてことはない。期待はしないけど、嫌な意味ではなくて、そこに在るものを受け止めて、受け入れる。それ以上でも以下でもない。

これらが無意識的になるといいな。


今日も ご機嫌よく、生きよう。


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