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英賀保の苫編山に登ってきました。
英賀保の「苫編(とまみ)山」に登ってきました。
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『苫編』は「とまみ」と読みます。
漢字の意味を見ると、【苫】は『菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろ。和船や家屋をおおい雨露をしのぐのに用いる』とあります。
おそらく「苫」を「編」んだ人々が多く暮らした地域だったのしょう。
英賀はかつて、海運や商業のさかんな地域でした。
戦国時代、和船の帆の多くは筵(むしろ)でした。ここで編まれた「筵帆」が、漁や戦でも多く使われ、それを扱った商人が豊かになったのかもしれない……。そう考えると色々なイメージがふくらみます。
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調べてみると山頂には以前、マイクロウェーブの反射板があったそうです。
無線通信用の施設だったようです。
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南には瀬戸内海が広がります。
男鹿(たんが)島と家島が見えます。家島の奥にうっすら見えているのは小豆島かしら?
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東北方面に目をやると姫路城も見えています。
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西へと下っていくと見晴らしの良いところがありました。
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英賀の街を一望にできる場所ですから、攻めるにも守るにも重要な場所だったのでしょう。
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この地点は山崎山というようです。苫編山の先っぽの方ですから、山の崎(さき)「山崎」ですね。
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英賀本徳寺は秀吉による侵攻のあと、飾磨の亀山に移転されました。
その後、大坂本願寺の陥落の経緯もあって、東西に分裂し、その影響は姫路にも及びました。現在、姫路城の近くには船場本徳寺もあります。
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英賀本徳寺は戦国時代に自律した商工業都市の中心として、豊かな寺内町を形成していました。
信長と対立した大坂本願寺の西の拠点でもあり、海に開かれていた「英賀」は石山合戦に人や物資を多く供給しました。木津川口の海戦や別所氏を滅ぼした「三木の干し殺し」でも兵站をになっていたと考えられています。
興味はつきませんが、そのお話についてはまた考えてみたいと思います。
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