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Zoom疲れ、政府批判、その根底にあるもの

この記事を私の知り合いのパチさん(https://www.ibm.com/blogs/pachi/)がFacebookでポストしていました。ちょっとコメントで書きたいことがあったのだけれど、ものすごく長文になりそうだったので、noteに書くことにしました。

外出自粛のなか、こうやっていろんな形で人々の行動や意識に関する現象が明るみになっていくのは、とても興味深いなと思います。

なぜ「Zoom飲み」は疲れるのか。パチさんは「群れる大切さと群れない大切さ。両方大事なのに前者に寄せすぎていないだろうか?」と疑問を呈していました。私もそう思います。どうしてそう思うのか、そしてそれを解決するにはどうしたらいいのか。少し思索してみたので、思ったことをそのまま書き連ねてみます。

ちょっと疲れるけど、人は本能的に群れることが大好き!

日本人に限らず、人ってそもそも群れることが好きなんですよね。それって、進化の過程で群れる方が生き残れたからだと思うんです。

だけど、群れることを選択したことで、多少なりとも個人としては時間的かつ空間的制約が加わります。

その結果、ここで書かれているような「疲れ」などの現象としてその副作用が現れてくるのだと思います。

技術が群れなくても良い手段を作った

さて、現代はインターネットやスマートフォン等の発展もあって、たくさんの人が繋がれるようになりました。

それによって、これまでは「群れる」ことによって獲得していたメリットが、群れずとも目の前の画面を通して得られるようになりました。

ここで重要なのは、時間的・空間的制約が、技術の発展によって取り払われつつあることです。

技術の発展は「群れなくても、ちゃんと生き残っていける手段」を作り出したので、実はこれまで群れることで耐えていた制約にもう耐える必要はなくなったため、群れないことのメリットも出てくるようになりました。

頭ではわかっている! でも心が追いつかない...

なので、群れること、群れないことにはそれぞれメリット・デメリットがあって、それらのメリット・デメリットを理解しながらうまく使い分けることで、ずいぶん生きやすくなるんだ、ということがわかります。

これからは、インターネットをはじめとする技術を活用して、心配せずに群れずにやってみればいいんです。

嫌なら、バーチャル飲みの誘いに「ノー」と言えばいいんです。

しかし、心がいうことを聞かない。怖いよ、不安だよ、となってしまう。断ったらどうなるかわからない、と。群れる必要ないって頭ではわかってるのに…。

不安を煽る噂話、怒りを誘う陰謀論

「群れる」「群れない」の制御ができれば得なことは頭ではわかっています。しかし、進化の過程で獲得した「群れる」本能に逆らうことで、人は不安感や罪悪感を感じます。

つまり、群れなくても良いと頭では分かっていても、心では群れざるを得ないのです。

実は、この現象をうまく使って仕事をしている人たちがいます。それは、注目を集めるのが仕事の人たちです。有名人やマスメディアはこのことをよくわかっています。

不安を煽る噂話とか、怒りを呼ぶ陰謀論はまさにそれです。これらは真実でも事実でもないことがほとんどで、単なる推測でしかないのですが、その推測に多くの人々の「群れる」本能が反応してしまうので、その推測をまことしやかに叫ぶことで、自分の周りに人を群れさせることができ、仕事が成り立ちます。

これは有名人やマスメディアに限りません。メディアの代わりにSNSという武器を手にした普通の人が、普通にできるようになりました。噂話や陰謀論などを叫ぶことで人を群れさせて、結果として自分の「群れたい」欲を満たすことができるんですよね。

お金のためだけではなく、自分の欲求を満たすために、知らず知らずのうちにやっている人たちもいるんだ、ということは知っておいて損はないと思います。

「群れる」のに使いやすいレッテル

「群れる」にはレッテルが好都合です。自分とは違う何かをわかりやすく表現するキーワードによって、簡単に対立構造を作り出すことができます。

例えば人種。日本人からすると、韓国、中国などはレッテルとして使いやすいです。韓国人は謝らないとか、中国人はうるさいとか。

例えば宗教。イスラムというだけで危ないとか、新興宗教というだけで怪しいとか、そもそも宗教やっているだけで関わらない方が良いとか。

例えば議員や政府。議員というだけで甘い汁を吸おうとしているとか、政府というだけで不正を犯しているとか。

しかし、アメリカにいたときは日本人も含めてアジア人という人種として一緒くたにレッテルを貼られてしまうのを経験したし、実際にいろんな人種の人たちと話して国籍よりも個々人の生まれた環境や性格だよなぁと思ったし、日本人は神社仏閣や祭りが大好きでそれを宗教と感じていないだけですし、本当に使命感を持って立候補する議員や本気で国民のために仕事をする閣僚も多いのを私は知っています。

誰がどんな目的で、その「レッテル」を使っているのか、ちゃんと頭で考えて見極めなければならないのですが、しかし、心が邪魔してしまうんですよね。これは実は仕方のないことで、自分と自分以外と分けた方が、心としては負荷がなくて、落ち着いてしまうみたいなんです。

でも、仕方がないで終わらせるのは腑に落ちません。どうしたら、こういった心の働きに左右されることなく、「群れる」「群れない」の制御権を取り戻すことができるのでしょうか。

二つのやり方があると思います。一つは自分を変える、もう一つはみんなを変える、です。

自分を変える

自分を変えるということは、この制御権を積極的に取り戻す訓練を自発的に行うということです。

この訓練は、自己肯定感を高める訓練とほぼイコールです。

しらずしらずのうちに、噂話や陰謀論を語ってしまい、レッテルを貼ってしまうのも、つまるところ、自分に自信がなかっただけなんです。

そんなことをしなくても、目立たなくても自分は十分素晴らしいし、他人から「へー、そうだったんだ!」というリアクションがなくても十分承認されているんだと、心の底から確信できるようにすることです。

何があっても自分は大丈夫だと、自分に自信を持てると「群れない」選択肢を取ることに抵抗がなくなります。

自分は素晴らしいと確信できると、他人にもその素晴らしさ、可能性があると確信でき、自分が安心するための「レッテル」を貼る必要がなくなります。

そして、技術が発展した現代においては、もう群れる必要はなくなったんだという体験を、自ら飛び込んで、たくさん積んでいくことです。

というわけで、全員が、自分から変わろう!

...となってくれれば話は早いのですが、そうは簡単にはいきません。

そこで、みんなを変える必要もでてきます。これにはやり方が二つあると思います。

火をつける

一つは、気づいた人が丁寧に語り、一人ひとりに火をつけていくこと。

火をつけるのは簡単ではありません。かなりの熱量が必要になります。もうこれは、その火をつける想いを持った人の情熱に依存します。

でも、自分が大切だと思う人になら、より良く生きるために、本気で一緒に変わっていきたいと思うことができるはずです。

その行動を肯定的に捉えられる人たちが一定以上になってきたら、一気に変わってくるのではないかなと思います。同じ志をもつ人たちが集まって互いに悩みを打ち明けたり相談る場所がそれを後押しします。

それが実は、宗教の本来の役割でした。しかし宗教という「レッテル」を貼られることで印象がガラッと変わってしまうので、いまは宗教ではなく例えば、社会起業とか、教育とか、つながりとか、オンラインサロンとかのキーワードを使っているように感じます。

システムを作る

そういったいわば「宗教的活動」をしていくなかで、もっと効率的にやりたいと思う人たちも出てくるでしょう。

その最も効率的な方法は、みんなが変わっていくシステムを作ることです。

「群れたい」本能に対抗せず、それを肯定しながら「群れない」ことも選択肢として取りやすいシステムを作ってしまうのです。

インターネットなどの技術が「群れない」ことを選択肢として提供できたように、「群れない」ことの心理的な安全性を提供する技術を作って、それを適用したシステムを提供してしまえば良いのです。

たとえば、先のバーチャル飲みを断っても心理的な安全性が保たれるシステムはなんでしょうか? 自動的に感謝やまた誘って欲しい気持ちを伝えて「また誘いたいなー」という感情を起こさせるシステムや、自動的にその人の予定や忙しさを相手が理解できて「そっかーこんなに忙しいのか、大変だなー」という感情を起こさせるシステム、さらには、断っても参加しなくても「群れている」感覚が常にリアルタイムで感じ続けられるシステム、などなど。

ともかく、火をつける人たちが、こういうシステムを作ろう! というモチベーションに移行できると、もっと効率的にみんなを変えていくことができます。

これ以上はあまり深く述べないことにします。なぜならここには大きなビジネスチャンスがあるので。こんな感じの話をゆるゆるとやりたいなーと人たちは、私のオンラインサロンや、effy系ギークハウスのグループにぜひご参加をー。

という、宣伝を毎回書くことにしようかなw

【今日のトップ画像】環八の歩道橋から。車の流れって、なぜかずっとみていて飽きない。人間観察ならぬ、車両観察的な感覚。いろんな人が、いろんな車種の車で、いろんな運転をして通り抜けていく。多様性とルールのあいだで、社会は成り立ってるんだよなーと、ぼんやり考えながら。

(追記) 断られるに慣れる

早速、パチさんがこのnoteを取り上げてくれて、さらにそこに新たな一つの視点を加えてくれました。なんて嬉しい。感謝です。

断ることに慣れるために、断られることに慣れることから始めてみてはどうでしょうか

そっか、確かにそうですね。ちなみに「7日間ブックカバーチャレンジ」、私もやりましたが、断られ率は6割を軽く超えてましたし、もっというと、ギークハウスなどで何かしらイベント立ち上げて広く招待してみても、実際に参加するのは数%っていうのはザラです。

そんなものですし、そんなもので縁は切れない。そこで切れるぐらいなら、もともと自分にとって必要のなかった縁だったのかもしれないし、もしかしたらいずれまた戻ってくるかもしれないし。

そんな「断られることに慣れる」を通して、ああ、僕って意外とたくさんの人とつながっているし、支えられてるんだなーという感覚を体験する。。。

なるほどねーと思いました。

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