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あっちこっちに

 今日久しぶりに田町駅を降りて、芝の家に行った。18時でも明るく、暑さがおさまらない日が普通になってきている。一度は17時にクローズする芝の家だが、今日は18時からひっそりと再オープンする「よるしば」の日。
この日のよるしばは、それぞれが作業をしたりと個人の時間を楽しむ、「もくもく」の日。(もくもくという名前がすごくいいと思う。)

 今年から始まったもくもく、今日が初めての参加だった。夜の芝の家がすきだ。窓から入ってくる陽はないけれど、転々とした照明が落ち着かせてくれるのと車が通るときのライトが部屋に入ってくるのが、まちにいる、と思わせてくれる。

 もくもくといい、芝の家といい、一体誰がやってくるのかはわからない。
今日は偶然にもスタッフさんの近所に住む同級生や佐賀から出張にきている方、大学1年生などのレディースデイだった。時間が進むと、ちゃぶ台に集まってみんなでお茶をのんだ。今年で10周年ということもあって、芝の家の歴史に話が流れ、変わってきたこと・だからこそいいところなんかをみんながポロポロと口にした。縫い物をしていらスタッフさんの同級生は、「たくさんのタイプ、思いを抱えている人に会えるのってすごい刺激される、大げさだけど生きていてよかった〜って思える時がある」。と楽しそうに語っていた。
 彼女はわたしより年上で、(結局、)名前も何をしている人なのかも知らない。人と出会うことが自分に実はとても反映されていることを口にしていて、その話に「大げさだろ〜」と思う反面、今この彼女とわたしの出会いもわたしに何かを考えさせていることに気づいたのだ。

「ナナメの関係」タテでもなくヨコでもないふわふわとした立場の人との関係性。今回のカフェゼミのテーマだった。この言葉を聞くと、どうしても自分と芝の家で出会った小学生たちを思い浮かべた。インターンをしていた時、わたしはスタッフとしてここにいるけれど、他のスタッフの方より彼女たちと年が近いから友達のようでもありたい。なにかそれらしい接し方はないだろうか?と毎日模索した。末っ子に生まれたわたしは今まで年下と接することがあまり得意ではなかったと思う。そんな思いとナナメの関係をすり合わせて、どこかにナナメの関係の理想のカタチ、ナナメの立場の人はこうであるべきという答えを探していたのだろう。だけど、カフェゼミでグループに分かれディスカッションをしている時にふと思った、
   今もわたしはナナメの関係を築いているのではないだろうか?
チームには社会人で働いている女性の方がいた。働くこととは?や漠然とした社会人になる不安などを話している中で、彼女は彼女の考え思いを素直に返してくれたのだった。
 自分の中でナナメの関係はわたし×小学生の関係性だけのものという固定的な概念がなぜかあったけど、ナナメの関係はどこにでもあふれているのだと、ふと実感したのだ。ナナメって右上向きの↗︎(やじるし)だけじゃないくらい人と出会うことであふれているのではないか!?

 もくもくで偶然、水曜の夜の2時間を共にした彼女とわたしたちも、いつのまにか「人と出会うことの楽しさ」を芝の家の魅力をおもいおもいに語る上で共有し、だからこそ地域なつながりが、また地域に限らず誰でも集まれる場所の大切さについて真剣に考えていた。これもまたナナメの関係だったのかもしれない。
 人に出会うだけ違った考えや思いに触れられ、また自分もそれを聞いて考える、それ以上もそれ以下もなく。わたしが小学生との関わりに悩んでいたのもその通りで。自分を「スタッフのわたし」「お姉さんなわたし」で色づけるんじゃなくて、いつもの今日までを生きてきたわたしで接すればよかったんだと今では思う。

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