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【雨傘】

ロンドンのとあるサーカス一座に、ビリーオースティンという一人のピエロがいた。  ニュージャージー出身の彼は、地元では売れないコメディアン。
そんな彼が半年前、海を越えてこの町へ来たのには理由がある。しかも不慣れなピエロ役まで演じているのには・・。
                                        『NYの自由の女神像が抱えている本って、独立宣言書って言われているけど、本当は違うって知ってた?あれは<英会話を短期間でマスターする本>らしいぜ!だって彼女はフランス人で寂しがり屋だからさ』
しかしメリッサは笑わない。
『友人のラリーが、サンタモニカ桟橋で背を向けてる三人のブロンドガールに声をかけたんだ。<今夜暇?>ってね。すると振り返った一人のブロンドがこう言ってきたんだ。<俺でいいのかい?>って。三人は全員、ロックミュージシャンだったんだ。どう、面白いだろ?』
それでも彼女は眉一つ動かさない。口を開こうともしないのだ。
そう・・ビリーがアメリカからロンドンへやって来た理由とは、笑顔を忘れてしまった恋人を救う!~という目的の為だったのである・・。

ではここでメリッサについて少し、触れておこう。なぜ?彼女が笑わなくなったかについて。
それはおよそ、一年半前の出来事だった。ニュージャージーの小さなコメディハウスで持ちネタを披露していたビリーには、いつものようにヤジや罵声が飛び交っていた。
そんな中、一人の女性だけが大声で笑顔を振舞っている事に気付いた。その女性こそが当時、観光でアメリカを訪れていたメリッサだったのだ。
そのライブ後、彼女を食事に誘った事から、二人の交際はスタートして、その後、恋におちた二人はロンドンとアメリカを行き来する仲に。
しかし悲劇が突如、二人を襲った。彼女が溺愛してた兄の死によって・・。

『ねぇお兄ちゃん、すごい雨だよ。私の傘の中に入ったら?』
『イギリスの紳士たる者、傘なんかささないのさ』
『バカね!そんな事言ってたら、風邪ひくわよ』
その瞬間、傘で視界が塞がった二人に、脇見運転をした一台の車が突っ込んできた。
『お兄ちゃん・・』妹をかばった兄は病院へと直行。そして帰らぬ人に・・。
メリッサは兄の話すジョークと、彼の演じるピエロが大好きだった。しかしそれ以来、彼女は笑う事をやめてしまった。どれだけ強い雨の日も、傘をさすことさえも。

数日後のサーカス会場。いつも決まったE-45という席には、メリッサが座っている。兄亡き後もずっとその席に。きっと、幻を追いかけているのだろう。その年間シートこそが、兄が最後にくれたバースデープレゼントなのだから・・。
そんな会場でピエロを演じているのは、恋人のビリー。精一杯のパフォーマンスを繰り広げるも、彼女の心には響かない。
それでも彼はいいと思っていた。人は彼を<真の道化師>と嘲笑うだろうが・・。

一ヶ月後のロンドン。テムズ川の橋の上では若いカップルがキスを交わし、グリニッジ時計台の針は夜の8時をさしていた。
そんなある夜、電灯だけがほのかに照らすハイドパークにメリッサを呼びつけたビリーは、意を決し、こう言い出したのである。
『俺は君のお兄さんの代わりにはなれない!俺自身のパフォーマンスを見せてやる。よく見とけよ』
傘を片手にピエロの衣装で、恋人の為だけに演じるビリーの姿は、お世辞にもかっこいいものではなかった。しかし彼は10分も20分も踊り続けた。夜空からは大粒の雨が降り注いでも、彼女の口元がピクリとも動かずとも・・。<無駄な試みだったのだろうか・・。>
つい、そんなふうに考えてしまったビリーは不覚にも、ぬかるみに足を滑らせ、池の中へと落ちてしまった。池といっても、せいぜい、腰が浸かる程度の小さなものなのだが。
『かっこ悪すぎだよ俺・・』これにはさすがのビリーも、意気消沈せざる得なかった。だが、これを機に奇跡は起こったのだ。
『ドジなピエロさん、どうぞお入りなさい!風邪ひくわよ』
メイクがとれ、泥だらけの彼の顔がよほど面白かったのか、遂に彼女が笑ったのだ。しかも彼が手に持っていた傘をさして・・。

グリニッジ時計台が9時をさした頃、あいあい傘をして歩く二人からは、こんな笑い声が響いていた。
『ある日、太ってる母親に子供がこんな質問をぶつけたんだ。<どうしてママはそんな大きな体をしてるの?>母親はこう言った<あんたが弟と妹を同時に欲しいって言うからよ>それ以来、息子は兄弟が欲しいとねだらなくなったらしい』             

『面白い!次の話は?』
『じゃぁ、次は・・』
                                        そんな雨傘をさす二人の頭上には、大きな月が雲の隙間から顔を覗かそうとしていた・・。


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