善とか悪とか
一年前に働いていたブラック企業の職場の社長のおじさんが猫を20匹くらい家で飼ってて、その猫たちの世話をするのも仕事の一部だったのだが、
その社長のおじさんは猫の避妊や去勢手術をしてなかった。そういうのに消極的だった。そういうことをするのが「偽善だ」と言っていた。
猫の中にはエイズにかかってるのもいた。20匹もいると部屋中猫のうんちやおしっこの匂いだらけで、それだけで職場を辞める理由の一つになった。
私が気になったのが、避妊や去勢が「偽善だ」という言葉だった。そもそも猫を飼うということがエゴの一種であるならば、それは自然の状態とは異なると私は思う。
そのおじさんは、人間の給料はすごくケチるのに、猫のエサ代と医療費は全然ケチケチしなかった。不思議だ。自分を投影していたのだろうか。
私も自宅で猫を一匹飼っているが、うちの猫は目が見えなかったため、母猫から捨てられ、雨の中一人で鳴いていたところを行きつけの雑貨屋さんの知り合いが見つけて、保護したそうだ。そしてその雑貨屋の張り紙を見つけて私が飼い主になった。お医者さんに「この子は目が見えないんですよ、それでも飼えますか?猫は15年生きますよ」とめっちゃ脅された。
生後半年になる頃に、発情期っぽい感じになって慌てて避妊した。なのでお腹の皮がてろんと垂れている。
動物の世界では生きていけない個体は親に捨てられる。人間だけは特殊で、役に立たない個体を生かしておいてペットとして飼ったりする。障がいを持っている人もそれだけで親から見捨てられたりはしない。生前のDNA検査でわかるようになったら、生まれる前に殺されるようになるのだろうか、それはまた別のことだけども。
かくして目が見えなかったうちの猫はいつの間にか目が見えるようになってて、家の中でゴロゴロしている(木曽にいた時はちゃんとネズミを捕まえて頭からバリバリ食べていた)親から捨てられても、当然のように生きていて、近所の男子小学生が毎朝かわいがりにくる。
避妊や去勢が「偽善」という言葉に違和感を感じたのは、猫を飼うこと自体がすでに自然の摂理に逆らったことであるならば、善も悪もないのではないか。ということだ。生きているものと死んでいるものがあるだけだ。
最近鳩を渋谷で拾って、東京都の然るべき機関に電話したら「怪我をした土鳩は見守ってください」と言っていた。動物病院に電話をしたら「自然の動物に手をかけるのは良くないことなので」と言っていた。
その「良くないことなので」という言葉にも引っかかりを覚えた。良いとか悪いとか一体誰が決めるのか??動物病院はペットの動物しか相手にしないのかな?
動物園に電話したら「飛べない野鳥は安楽死させることがあります」と言っていた。世話をしてくれたお医者さんは「動物園に連れて行ったら100%安楽死ですね、この子飛べないもの」と言っていた。
うちにはすでに猫がおり、いつ鳩を襲うかわからず、スプラッタな状況は見たくないので、鳥が得意な人を探した。
最終的に野鳥だった鳥は渋谷から茅ヶ崎、横浜を経て埼玉に移動して行ったわけだが、この野鳥にかけたエネルギーはすごい。CO2をたくさん排出したのではないだろうか。しかしもはや私にはいいとか悪いとかよくわからないのでエゴで結構コケコッコーと思っていた。
野鳥を飼うのは違反で、罰金などもあるそうだ。でも飛べない鳥は安楽死というのは、なんというか、人間が勝手に決めたことのようにも思う。
姪っ子に「動物園に鳩さん連れて行くと、飛べないから殺されちゃうんだよ」と話したら、「動物園の人は、鳥さんを殺す悪い人なんだね」と言っていた。
「でも私たちも鶏肉食べるよね?鶏さんも鳥だよ」と言ったら姪っ子はえへへと笑って、「私たちもちょっと悪い人かもね」と言っていた。
鳩の命をたまたま拾ったが、今日の晩御飯も鳥つくね団子と白菜の春雨スープだった。姪っ子が風邪の治りかけだったから。私たちが生きていること自体がエゴ以外の何物でもないのでは??どうして良いとか悪いとか決められるのだろう。
生きているものと死んでいるものがあるだけだ。
この問題についてはIQもEQも低いので考えても答えが出ない。良いとか悪いとか本当にわからない。
心の中のジャッカルが相手や自分を責めるので、もうちょっとキリンの心を育てる必要があるかもしれない。
価値観が違う人たちとも話しあう気にはならないし、とにかく鳩は生き延びた。
おしまい
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