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自由意志はあるのか、ないのか

「人間に自由意志はない」この頃よく耳にする言葉です。「意思」ではなくあえて「意志」という漢字を使わせてもらいます。

結論から言えば、「現象世界」と「非二元」、どちらから捉えるかだと思う。

スピリチュアルや自己啓発は「現象世界での生き方」についてアプローチなので、現実創造はできるというメソッドやワークを提案している。つまり「自由意志」はある。

が、非二元的にいうのであれば、「自分」を含むすべてが現象なので「自力など一切ない、以上!という感じでぶった斬る。

しかし、現象世界にいる「自我」は人生をよくしたいわけです。でも本当の自分のいる非二元から言えば「すべて自動で起こったこと」自分では何もしていません、となってしまう。自分でできるもん感そのものの自我には、そんなこと言っても理解できません。

ある感じするけど、ない。なくても、ある感じしかしない。そんな話です。


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原因と結果をさかのぼるとビッグバンまで辿り着く


我々のいる「現象世界」は、いわばマトリックスの世界。ということは、それを何かが作って、いつも見ているわけです。意識されているから、現象として現れているってことですね。前回記事にも書きましたのでリンクを下につけときます。

一方で「自分」という自覚のある現象世界側の「自分」は、日々、変化していく諸行無常な世の中をみています。「自分」が世界を意識しているから、見えていると感じています。でもそれも現象ね、ややこしいけど。

「ああすればこうなる」「こうすればああなる」と言った、因果の法則を知っています。

宝くじに当たるのは「宝くじを買った」から当たったわけで、そもそも宝くじを買わなくては当たるわけがない、という原因と結果で考えます。普通そうです。私もそうです。

でもね。

よくよく考えてみると、その前があるはずです。例えば、こんなストーリー。例えばの話ですよ。

宝くじを買った。1万円当たった。【宝くじを買おうと思ったのは何故か?】

お金がほしかったから→貯蓄が心配だから→将来が不安だから→生活にお金がかかるから→家賃が必要だから、家庭があるから、遊び代も欲しいから→結婚したから→彼女と出会ったから→大学で出会ったから→人生設計のため進学したかったから→公務員になりたいと思っていたから→仕事に関するイメージがあったkら→父親も公務員だったから→子どもの頃から漠然と思っていたから→公務員の家に生まれたから→父が母と結婚したから→父と母が祖父母から生まれたから→・・・・先祖が日本に生まれたから→先祖が人類として生まれたから→地球の進化の過程で人類が生まれたから→地球があるから→天の川銀河があるから→宇宙があるから→・・・・はい、しまいには宇宙創造にたどり着きます。

もちろん、それぞれの要因は複合的に絡みますから、こんな単純な図式ではありません。もっともっと網の目のように要因が張り巡らされています。でも、すべてのものごとは最終的に宇宙創造、ビッグバンまでたどり着いてしまいますよ。

こう考えてみると常に「結果」しかないことがわかります。今の状態は結果のようでいて、実は次に起こることの原因でもある。こんな風に卵が先か鶏が先かのように延々に「原因でもある結果」が続いていきます。今までも、これからも。

でも結果は原因とセットです。二元の現象世界でがどちらか片方はあり得ません。つまり結局どちらもないことがわかります。

原因も結果もない、ただ起きている。非二元っぽいですよね。

現象世界ではひとつふたつ前に遡った原因から現状を「因果の法則」のことを言いますが、本当はもっと複雑に絡みあった要因同士の接触で現象が延々と起きています。「今」の現象について反応を続けていけば、現象は起き続けますよね。

「お金が欲しかったから、宝くじを買った」をいうストーリーには自分の意志でそう行動したようにみえますがが、本当にそうなんでしょうか。



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「縁起」とは縁が生じて現象が起こりつづけること


お釈迦さまは、現象の起こりは網の目のように複雑に絡まった「縁」の連鎖であると言われたそうです。

前回(か前々回)の記事で、現象世界も「空(くう)」も波動だよ、と書きました。お釈迦さまの言う「網の目のような」とは、上のイラストのような感じだと思うんです。網というより波紋のような、それが放射状に伝播するようなイメージ。

先日、雨の日に水たまりに落ちる水滴の波紋を見ていて、そういうことかなと思いました。水たまりの水紋は落ちて消えていくけど、「縁」は波紋のように広がってぶつかりあって、影響しあいながらどんどん伝わっていきます。

影響しあっていくと、初めはささいなことでも、全く予想もつかない状態になるかもしれない。

バタフライエフェクト」とか「風が吹いたら桶屋が儲かる」

みたいに、どんなご縁がどんな影響を持っているかわからないんです。例えば今あなたが「これを読みながらコーヒーを飲んだ」という行為が、100年後の竜巻に繋がるかもしれない。

なんで?そんな馬鹿な?と思うかもしれないけど、コーヒーを飲もうと思ったこと、このブログを読もうと思ったことに既に縁起が発生してるわけです。

で、元を辿ればやっぱりビッグバンね。

さっきの話を逆まきにすると、宇宙創造という現象から波紋が発生して、新しい現象が次々生まれ、どんどん増幅し、膨らんでいるのだと思います。

宇宙があるから今がある。宇宙があるから「自分」という感覚がある。

なので、もとを辿っていけば「ひとつ(ワンネス)」になる。さらに元を辿っていけば「空(くう)」になる。

スピリチュアルも非二元も、既存の神話や宗教や科学も、結局は同じことを言っています。

ちょっと違うのは、スピリチュアルでは「創造主と同じであるということは、私たちひとりひとりが創造主なので、現実をいくらでも創造できる」といい、非二元では「創造主すらいない。創造する誰かや何かはいない。」と言っていること。

つまりスピリチュアルでは「自由意志はあって、現実創造できる」といい、非二元では「ものごとはただ起こっているので、何もできることはない」と言います。

自由意志はあるのかないのか?

私が思うのは「なるようになってる」感じですかねえ。



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自由意志は選択、選択肢は自力ではない


「縁起」によって様々な現象が起きています。波紋を投げて影響し合いながら、なおかつ細胞分裂のように細分化していきます。

もともと、大きな「ひとつ」だったのに、どんどん複雑化していっていますね。

そうするとどうなるか、ってえと。

莫大な量の「現象」が起きて、そのデータが伝承されていきます。

以前にも書いたことがありますが「人は知っていること以外は知り得ない」わけですから、知っていることを縁起によって組み合わせて新しい「現象」を作っているわけです。

つまり、何もないところから作り上げたわけではなくて、現象同士が影響された結果、あるものを組み合わせて新たな現象が生まれただけなんです。

どちらかというと「現象によって生まれた多数の選択肢から選んだ」が近いように思うんです。

影響しあって、反応しあって、波紋が発生して、さらにまた・・・と連綿と繰返されるこの作業は、自分が関わっている部分は自分で作っているようにも見えます。なぜなら自我は「自分」を始点に定めてますから、いつでも自分が原因になるわけです。原因があれば、当然「結果」を探そうとする。

原因も結果もないのに、あることにしちゃっています。

自力の創造ではなく、既存の選択肢に反応しただけなので、「自由意志」のセンは薄いです。いや、ないと思います。

ただ「自分」は自分で創造したという「達成感」や「満足感」を得られることで自由意志あるいは自由創造はあると思いこめます。

だって、もし自由意志があるのなら「失敗した」「うまくいかなかった」「満足できなかった」とう結果は出ないんじゃないのかな。

自分で何も作っていないし、選択はしたけど結果は思い通りになるとは限らない。自分でどうにもならない、コントロールできないことばかり。

これは「自分の意志でどうにかした感」のある自力ゼロってことだと言えます。

かといって、世界を認識している(つもり)で人生ストーリーを生きているのは他でもない「自分」。

ややこしいけど、やっぱり「自分」は自力でコントロールしたと思う以外できないのだと思います。(自我が聞いたらパニック起こしそうですけど)

よって軍配は「自力なし」です。


◆人物を描こうとすると仮面を被せたくなってしまいます。だから気づくといつもピエロのイラスト。道化師よ、仮面をとって本当の自分に戻れという無意識からの叫びかしら。





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