河瀬直美監督の東大祝辞と役小角(えんのおずぬ)
映画監督の河瀬直美さんの東京大学学部入学式での祝辞がおかしな風に炎上しているので、書いておこうと思いました。
『河瀬直美監督、東大入学式で「どっちもどっち」の祝辞に批判殺到』というアゴラというニュースメディアのタイトルに代表されるように、「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」というくだり、「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです」を切り出して、極端な解釈をされてあげつらわれています。
おそらく、ほとんどの人が原文を読まない、もしくは読んでも読解できない人も多いと思う一方、奈良南部のおもしろい素材をもってきてはるので、すこし解説します。
この炎上でとりあげられる話の起点は、金峯山寺の管長にあって話をしたというところからです。
金峯山寺は、それなりに有名で知っている人も居ると思います。
開祖は「役行者」。ぼくは役小角(えんのおづぬ )と呼ぶ方が音がかっこいいのでこっちの呼び方が気に入っています。彼は、文字通り行者。
そもそもは呪術者です。
他の古(いにしえ)の寺寺の開祖たちとちょっと趣が違うのは、2つのエピソードが示しています。
鬼の夫婦を手懐けて弟子にした
他の神と同様に働かなかったらからと、一言主の神を折檻した
簡単に言えば、相手が鬼か神かは関係なく、相手の本質を見抜いて対応した人であったということ。
そういう役小角が開祖である金峯山寺の管長の言葉がふと耳に残って云々、というのが前振りです。
ちょっと長いけど、ここがその部分。
これ、ロシアもウクライナもどっちもどっちっていう風に理解しますか?
2層くらい深いとこまで掘ってますよね。
まずは、どっちもどっち論レベルでも理解できるようにわかりやすい話で言うと
1つ目の層、
「ブチャで虐殺が起こったり、科学薬品がまかれた?り、やっぱロシアはひでぇから問答無用でダメ、アカン、悪者」って確定できたから、そうでない側の私たちは正義なの?、という理解。
さらにもう一個深い層、
いや、とはいっても、もしワシがロシア国民やったらどうするんやろ、ヤメレって言えるんやろか、そもそも真実を知り、見極めることができるんやろか、という理解。
で、最終的に、
ロシアって悪者やん、プーチンあかん、けど、ワシがそのロシア国民やったらどうしてるんやろ、ワシがラブロフ外相やったらどうしてるんやろ、いやいや、ワシの住んでる日本がそんなふうにひでぇことすることもあるかもしれんし可能性はゼロではない。そもそも、ワシはワシが正しいと思ってても、相手がそう思わんこともあるやろ、そうなったらワシはどうするの、そもそもワシはちゃんと判断して、ダメなことはダメと言えるの動けるの?
そして、それを分かった上で、ダメなことはダメと言える、ということを選択したい(自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したい)と言ってるんですよね。
まさに役小角じゃないですか。
鬼だからって、切り裂いて終わりじゃなくて、話が分かる鬼は弟子にする。
神だからって、理由を付けてさぼろうとする奴には、ちゃんとするように怒る(伝説上ですが怒るどころか折檻してます)。
それ、できるの? 私? てこと。
そして、それを主観と客観、そのままに感じる自分と、冷静に見つめる自分という話から、表現者とは、に繋げてく。
主題としてはありがちな話だとは思うのだけど、歴史のある寺寺がある奈良出身の彼女、8ミリで撮影して始まった表現者としての彼女、の自画像につながる話。
これは、河瀬直美監督のデビュー作「萌の朱雀」の劇場予告。
ぜひ、本編を観て欲しい。
最後の、カタカタという音とともに、8ミリカメラで撮影されたかつての西吉野村の人々が、祝辞の最後のくだり『8ミリをまわしながら「おばあちゃん」の頬に手を触れた』エピソードがシンクロすると思う(予告編ではそのカットはありません)。
これから表現者になろうとする者にとって参考になる話だと思うのだけど、ほんま、理解できない奴がへんな風に話を広めて、それをそのまんま鵜呑みにして炎上させるの、どうかしてると思うよ。
【追記】アマプラでは配信してなかったっす。
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