見出し画像

◎トミー・リプーマ(ラプーマ)の伝記『トミー・リピューマのバラード』~語られる数々のエピソード

◎トミー・リプーマ(ラプーマ)の伝記『トミー・リピューマのバラード』~語られる数々のエピソード

【The Ballad Of Tommy LiPuma】

本記事は有料設定ですが、このnoteで最後まで無料で読めます。読後、お気に召せば「記事を購入する」、あるいは、「サポートをする」(金額は自由に設定可)なども可能です。クレジットカード払いか、携帯電話支払いがお選びいただけます。アカウントを作らなくても支払い可能。アカウントを作ると、次回以降手続きが簡略化できます。

(本作・本文は約10000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字で読むと、およそ20分から10分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと33分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

~~~~~

◎トミー・リプーマ(ラプーマ)の伝記『トミー・リピューマのバラード』

【The Ballad Of Tommy LiPuma】

伝記。

2017年3月13日、80歳で死去したアメリカのプロデューサー、トミー・リプーマ(ラプーマ)の伝記本『トミー・リピューマのバラード』(ベン・シドラン著、吉成伸幸、アンジェロ・訳=シンコー・ミュージック)が2021年3月29日に発売された。

これを書いたのは、自身ミュージシャンとしても活動しているベン・シドラン。ベンとトミーは半世紀におよぶつきあいがあり、ベン自身が大変なメモ魔でさまざまな出来事などを日記などに記録しているため、そうした一次情報をベースにかなり詳細な伝記ができた。

書影 トミー・リピューマのバラード

翻訳は、やはりベン・シドランと一時期「ゴー・ジャズ」というレーベルを興した音楽評論家でもある吉成伸幸さんとやはりベンとも知己のアンジェロさん。

ベン・シドランは本書以前にも論文のような著作から音楽関係の著作まで何冊もだしており、日本語で訳本が出るのは初めて。

ベン・シドラン自身が音楽ジャーナリスト、音楽評論家であり、DJでもあるのでかなりしっかりした文章を書くので、相当おもしろい作品になっている。様々なこまかいエピソードを記録に基づいて書いているので、立体感を持って浮かび上がる。

まだ全部は読み切れていないが、細かい具体的なエピソードが映画のワン・シーンにようにヴィヴィッドに描かれている。ベンさん、あなたはその現場にいてそれを見ていたのか、というほどの描写なのだ。それはおそらく、ベンがトミーからおもしろおかしく話をしていたのを逐一メモに残していたからだろう。

ルーレット・レコードを牛耳っていたギャングの一員、モーリス・リヴィーの邸宅の話、サム・クックが殺される夜のレストランの話(トミーはそのレストランで立ち話をしていた)、マイケル・フランクス発見のときの話、トミーにとって実質上初のベストセラー、グラミーとなるジョージ・ベンソンの『ブリ―ジン』の誕生秘話など、枚挙にいとまがない。

本文約400ページ、約26万字におよぶ壮大なアメリカのレコード・プロデューサーの仕事歴だ。

そして、本書帯、表一部分はドナルド・フェイゲンだが、表四(裏表紙)の帯になんと作家の村上春樹さんが推薦文を寄せている。これはおそらく多くの人が驚かれると思うが、なんとベンと村上さんは長い間友人だった。

「村上レディオ」でその話をしていた。そのときの様子↓

村上春樹の村上RADIO、初オンエア~完全セットリスト、アマゾン・リスト付き
2018年08月06日(月)


https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12395870796.html

~~~~

■トミー・リピューマ(ラピューマ)について

評伝。

半世紀におよぶリピューマ(ラプーマ)の歴史はアメリカ音楽業界のフーズ・フーの羅列になりそうだ。

1936年(昭和11年)7月5日、オハイオ州クリーヴランドに生まれた。両親はイタリアからの移民だという。幼少の頃は病弱で数年、寝たり起きたりだったという。そのときにラジオが「友達」となり、ラジオから流れてくるレイス・ミュージック(リズム&ブルーズ)に魅かれ、ソウル・ミュージックを愛するようになった。家では当時の人気のジョー・スタッフォードからグレン・ミラーまであらゆる音楽が流れていた。

13歳か14歳頃までにテナー・サックスを吹くようになり、友人とバンド活動を始めた。それで音楽の方が楽しいのでもともと嫌いだった学校をやめてしまう。すると父親が、「学校をやめるなら、何か商売をしろ」と言った。

父親がバーバーショップ(理髪店)を営んでおり、その関係で理髪の勉強をする学校に通い、いったんは父親から資金を借り店を出す。バーバーショップ・スクールの同窓生には、なんとボビー・ウォーマックがいたという。そして、このバーバーショップの近くにはラジオ局がいくつかあり、その人たちが立ち寄るようになった。

その頃、リピューマ(ラプーマ)はレコード・ディストリビューターの人物と知り合い、彼の元でそこの仕事を手伝う。ディストリビューターとは、レコードメイカーからシングル盤やアルバムなどのレコードが送られてきて、それを小売店に卸すような仕事をする業者だ。大きなディストリビューターだと、レコードの宣伝活動もやっていた。1年もしないうちに、ロスの人間が彼の噂を聞きつけ、その誘いでロスに移住。1961年か62年のことだという。ロスのリバティー・レコードでプロモーション担当の職を得た。その仕事が広がり、音楽出版社の仕事もてがけるようなり、デモ・テープ作りにもかかわるようになった。

そんな中で、1964年、同郷のクリーヴランド出身のオージェイズの「リップスティック・トレイセス」をプロデュース、これがヒットし、業界内で注目されるようになった。

これを機にリピューマ(ラプーマ)はハーブ・アルパートとジェリー・モスが始めていたインディ・レーベル、A&Mに引き抜かれ、ここでヒットを作り出すようになる。サンドパイパーズの「グアンタナメラ」や、クリス・モンテスの「ザ・モア・アイ・シー・ユー」などだ。

こうした実績を背景に、1968年、リピューマ(ラプーマ)はボブ・クラスナウとブルー・サム・レコードを設立。フィル・アップチャーチ、ベン・シドラン、クルセイダーズ、ヒュー・マサケラ、ポインター・シスターズ、ガボール・ザボ、ニック・デカロなどをてがける。

プロデューサーとしても注目されてきたリピューマ(ラプーマ)は、ブルー・サムのオウナーでありながら、フリーランスのプロデューサーとして、バーブラ・ストライサンド(『ザ・ウェイ・ウィ・ワー(追憶)』)をプロデュースしたり、1974年からはワーナー・ブラザーズ・レコードのスタッフ・プロデューサーとして動くことになる。そして、1976年、ワーナーと契約したばかりのジョージ・ベンソンのレーベル移籍第一弾となる『ブリージン』をプロデュース。それまでで最大のヒットとなり、グラミー賞も獲得するにいたった。

以後、ワーナーではマイケル・フランクス、アル・ジャロウ、スタッフ、デオダート、ビル・エヴァンス、アントニオ・カルロス・ジョビン、ダン・ヒックスなど多数をプロデュース。

その後またA&Mでその傘下のホライゾン・レコードを担当、ここでブレンダ・ラッセル、日本のイエロー・マジック・オーケストラ、シーウインド、ドクター・ジョンなどをてがけた。

さらに、1979年にはワーナーのジャズ部門の副社長に就任。ビジネスマンとしての仕事と、プロデューサーの仕事を掛け持った。

1990年、ワーナーからエレクトラ・レコードの上級副社長に。1994年から2011年までGRP/ヴァーヴ・レコードをベースに活躍。その後はフリーランスのプロデューサーとして活躍を続けていた。最近は、最新作も含めてダイアン・クロールの作品をてがけていた。ポール・マッカートニーもてがけた。

~~~~

■Tommy LiPuma の表記について。 

翻訳家の五十嵐正さんの指摘で、日本ではトミー・リピューマの表記が一般的になじんでいますが、実際の発音はラプーマが近いようです、とのことで、実際にラプーマと聞こえますので、本稿ではしばらく両表記併記します。リプーマ、ラプーマの間くらいでしょうか。カタカナ表記は難しい。

~~~~~

■著者ベン・シドランについて

ベン・シドランは1943年8月14日イリノイ州シカゴ生まれ。ジャズ、ロックのキーボード奏者、著述家。スティーヴ・ミラー・バンド、ボズ・スキャッグスらのバンドに参加していた。イギリスのサセックス大学に学んでいる頃にはエリック・クラプトン、ローリング・ストーンズ、ピーター・フランプトンなどともセッションを重ねている。1990年、自身のレーベル、ゴー・ジャズ創立、2003年、ナルディス(Nardis=sidranを逆にしたもの)レコーズ創立。1966年、『コインズ・ハヴ・テールズ・トゥ・テル』(貨幣についての考察、物語)を出版、1970年、『ブラック・トーク:ハウ・ザ・ミュージック・オブ・ブラック・アメリカ・クリエイテッド・ア・ラディカル・オルタナティヴ・トゥ・ザ・ヴァリューズ・オブ・ウエスタン・リテラリー・トラディション』出版。以後、複数の著作を上梓。ただし日本語の訳本は今回が初登場。

ベン・シドラン アー写

ベン・シドラン語る
2008年03月17日(月)


https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10080560206.html

◎Ben Sidran Talks


【ベン・シドラン語る】

インテリ。

ロック、ジャズ、ワールドなどあらゆる音楽に精通し、自らジャズ・アーティストとしても活躍するベン・シドランが、昨日の『ソウル・ブレンズ』(インターFM=東京76.1mhz、毎週日曜15時~17時)にゲストでやってきた。ちょうど今日からコットン・クラブでライヴを行うための来日だが、ベスト発売、旧作紙ジャケットでの再発などもあり、ちょっとした話題だ。

さて、スタジオロビーに入ると、ベンがひとりでコーヒーなどを見ていたので、思わず声をかけてしまった。自分の名前を名乗り名刺を渡すと、「ソウル・サーチャーか、いい名前だね」。そこで「あなたは、ソウル・サーチンしていますか」と聞くとすかさず「oh, whole life(生涯を通じてね)」。う~む、これは息があいそう。(笑) 「ソウル・サーチャーというグループがいたよね」 「おお、先月日本に来てたんですよ」 「あのリズム、ゴー・ゴーは最高だ!」といいながら、ゴー・ゴーのリズムを口と手を使ってやりだす。「ゴー・ゴー・スタイルの曲は録音したことはありますか」 「いやあ、さすがにないな、僕のスタイルとはかなりちがってるからね。でもあのリズムは最高」

彼の容姿とそのインテリジェンスの雰囲気から、なぜか僕の口からは、「あなたは本は書かないのですか」という言葉が。「出してるよ」 「いつ?」 「一年ほど前かな、『ア・ライフ・イン・ミュージック』という、自伝本だよ。アマゾンで買えるよ」 「それは知りませんでした」

その前にすでに2冊ほど出していた。「僕は大学時代から、ノートにいろいろ書いてきたんだ。日記? そんなようなものだな。いつどこで誰と何をしたか、簡単なメモなんだけどね。それを元に記憶を呼び戻し、本を書いた。次の本の構想もあるんだ。それは、『ユダヤ人がアメリカ・エンタテインメントの世界に与えた影響』というもの。タイトルはまだ決めてないけどね。僕自身ユダヤで、エンタテインメントの世界で、偉大な作曲家、ロジャース&ハマーステイン、ガーシュイン…たくさんいる。音楽界だけでなく、映画界でも、スピルバーグやらなんやら多数いる。そうした連中がこのエンタテインメントの世界にどのように入り込み、システムを築き上げ、成功をものにしていったのかをかいてみたいんだ。ユダヤと黒人のことも触れてね。僕の最初の本は黒人の文化の歴史についての考察なんだ」

「実は僕もいくつか翻訳をてがけているんですよ。ベリー・ゴーディーの自伝、最近では映画がでたときにレイ・チャールズの自伝なんかも」 「おおっ、ディヴィッド・リッツだね」 「そうです、いい友人なんです」 「僕もだ。しばらく会ってないな。彼はどうしてる?」 「元気にしてると思います。なにかあると、メールのやりとりをします。レイの本を出したときには、彼が死後からの十数ページを書き下ろしてくれました」 「じゃあ、彼によろしく伝えてくれ」

けっこう立ち話で話してしまったが、すぐに本番になった。そして、彼がマーヴィンに紹介されマイクに話し出した。ブースの外で聴いていたが、その声の良さに驚いた。実にマイクのりする、そして、発音もきっちりとしたDJ、アナウンサーのようなしゃべり手ではないか。いつでもインターFMでDJができる。(笑) 一緒にこちら側で聞いていたオッシーとともに、「いい声ですねえ、番組ができますね」。しかもテンポがいい。マーヴィンとベンが話していると、まるでニューヨークあたりのトークレイディオのような雰囲気さえ漂う。へたするとベンがDJで、マーヴィンがゲストかと思ってしまうことも。

どうやら、むこうの学校で音楽を教えたりすることもあるらしい。自分が授業用に書いたテキストを本にしようかと思ったが、ぐちゃぐちゃで自分でも整理がつかなくて断念したこともあるそうだ。また、先のベンの自伝は、日本では吉成伸幸氏が翻訳に手をつけていて、半分くらいまで来た、とのこと。注釈が多く、とても苦労しているそうだ。

それにしても、昔から日記を書いたり、本を出したり、ベン・シドランはかなりのインテリだ。「大学の頃、将来、作家になりたいとか、新聞記者になりたい、などと思いましたか」ときくと、「う~ん、どうだろう。ただミュージシャンは考えていなかった。とても、音楽で飯が食えるとは思えなかったから」 「でも、今ではこうして音楽家として成功し、ここに来ていますよ」 「いやあ、僕はとても成功した、なんて言えないね(笑)」

ベン・シドランは1960年代、白人ながらブルーズを演奏するスティーヴ・ミラー・バンドにキーボード奏者として加入、ここには他にボズ・スキャッグスなども在籍していた。ブルーズ、ジャズ、ソウル、あらゆる音楽を実によく知っている。そして、いろいろなミュージシャンとも多数のコラボレーションをしているので、おもしろいエピソードをたくさんもっている。そのあたりの話もいつかまたじっくり椅子に腰掛けてきいてみたい。

~~~~

おそらくベンが上記で語っているユダヤ人とエンタテインメント業界のことを書いた本というのがこれだと思われます

There Was a Fire: Jews, Music and the American Dream (revised and updated) Paperback – March 23, 2021
by Ben Sidran (Author)


https://amzn.to/3dCWmId

上記の話が2008年で、そこから13年かけて完成したことになる。これはこれで上梓、まことにおめでとうございます。

~~~~

そのときのベン・シドランのライヴの模様

ベン・シドラン&ジョージ・フェイム・ライヴ
2008年03月19日(水)


https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10081071737.html

~~~~

■翻訳家、吉成伸幸さんについて

ゴー・ジャズ・アフター・アワーズ~吉成伸幸さんのサンフランシスコ1969~1972
2015年07月28日(火)


https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12054989426.html

◎ゴー・ジャズ・アフター・アワーズ~吉成伸幸さんのサンフランシスコ1969~1972

【Go Jazz After Hours : Yoshinari Nobuyuki : San Francisco 1969-1972】

アフター・アワーズ。

先日(2015年7月25日)、四谷「いーぐる」での「ゴー・ジャズ」イヴェントが終わった後、近くで懇親会というかアフターの打ち上げがあった。吉成伸幸さんの隣に座り、本編で少し出たサンフランシスコの話の続きを聞いた。

~~~

サンフランシスコ1969~1972。

吉成さんは、1969年から1972年までの約3年間、サンフランシスコに住んでいた。そのときの音楽体験は現在の吉成さんの基盤になっている。

1948年(昭和23年)12月18日生まれの吉成さんは東京の立教大学に2年通った後、英語の試験(トーフル=TOEFL)に合格し1969年6月、サンフランシスコに降り立った。最初は英語学校にホームステイ先から通っていた。9月にサンフランシスコ・ステート大学(サンフランシスコ州立大学、ただし名称はその後いくつか変遷する)の2年生に編入。丸3年で卒業する。立教での2年の単位が有効でアメリカの大学で2年生から入学できた。

1969年(昭和44年)だとまだ外貨持ち出しも一人500ドル(1ドル360円の固定為替で18万円)、海外旅行もままならぬ時代だ。

しかし、当初のホームステイ先の居心地が悪く、数か月経って、なんとかそこを出て寮に移り住む。

そしてまずやったことが自分だけのステレオを買うことだった。おそらく500ドル(当時のレートで約18万円)くらいしたラジオ付きのステレオを入手。それでレコードを聴き、ラジオを聴くようになった。そして、移動するための足を確保することも重要で車も買った。それは知り合いから直接250ドルくらい(約9万円)で買った。1967年くらいのもので2年落ち程度で悪くなかったが、買った後タイヤがつるつるだったことに気づいた。車よりステレオのほうが高いというのもおもしろい。

~~~

フリー・パス。

ちょうどその頃、東京のミュージック・ライフ編集部(シンコー・ミュージックの草野編集長)と話が付き、見たライヴのレポートなどを勝手にどんどん送ることになった。そんな中でサンフランシスコで大きな話題となっているライヴ・ハウス「フィルモア・ウェスト」のオウナーであるビル・グレアムにインタヴューする機会があった。グレアムにインタヴューすると、なんと彼がフィルモアのフリー・パスをくれた。それがあったために、吉成さんは滞在していた間、フィルモアに自由に出入りすることができるようになった。

「アメリカでは、ジャーナリストや文章を書く人へのリスペクト感がすごいんですよね」「そうそう、日本とはぜんぜん違うよね」と吉成さん。ミュージック・ライフ誌の現物を何冊か持って行き、これに書くというと一目置かれフリー・パスをもらえたという。

アメリカの音楽業界におけるジャーナリストやライター、そして、ラジオDJに対するリスペクト感はほんとうにすごい。これはアメリカのミュージシャンや音楽ジャーナリスト、エディター、DJなどに会うたびに感じる。

ラジオはもうすでにFM局が出始め、KSAN局を聴くようになり、そのDJヴォコ(Voco)という人がお気に入りになったという。このヴォコはのちにブルーサム・レコーズでベイ・エリアのアーティスト作品を集めたコンピレーション・アルバムを出すほどだった。

当時それまで主流だったAMラジオ局に加え、新たに出てきたFM局はけっこう長尺の曲をかけるようになっていた。AMでは、1曲3分程度のシングル盤中心だったが、FMではアルバムからの、たとえば7分や10分の曲さえもノンストップでかけていたのだ。吉成さんはラジオで聴いては気に入ったものがあればレコード店に走り、買いあさるようになる。

フィルモアは、毎週金・土・日がそこそこ有名なアーティストが出て、火曜日がアマチュア・ナイトのような日だった。2階建てで基本的には体育館を改造したようなところで、1階は、たぶん立ち見で2000人くらい入る。2階は席がある。東京でいえば、お台場のゼップを汚くしたような会場か。

この時期に見たアーティストは、ちょっと昨日の記事とかぶるが、一応再掲するとジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、クイック・シルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ボズ・スキャッグスがいたころのスティーヴ・ミラー・バンド、いなくなった同バンド、スライ&ファミリー・ストーン、サンタナなどなど。ただし、ジャニス・ジョプリンだけは、すでに死去していたために見られなかった、という。ジャニスなしのホールディング・カンパニーは見た。まだデビュー前のタワー・オブ・パワー(デビュー・アルバム・リリースは1970年)は圧倒的だったという。

~~~

ライヴ・レポート。

フィルモアの観客は黒人・白人が適度にミックスされていた。出し物はロックが多かったが、ソウル系のものも少しはあった。

吉成さんはかなりの数のライヴ・レポートなどを送ったが、ほとんどボツになったという。「たぶん、日本ではぜんぜん知られてないアーティストばっかりだったからじゃないですか」 もちろん、当時の原稿は手書きで、ファックスで送るでもなく、エアメールの郵便で送った。だから、オリジナルを送ってしまうので、コピーは残っていない。ひじょうに残念といえば残念。

また当時カメラも一応持っていたが、アーティストに会って一緒に写真を撮ることもあまりなかった。「今となっては、あの頃、いろいろと一緒に撮っておけばよかったと思うけどねえ~」と振り返る。これも残念。

他に残念なのは、当時のフィルモアのチラシ、はがきのような印刷物だそう。かなりたくさん集めていたが、そのサイケ調の文字が踊るチラシはかなり貴重な「お宝」になっているはずだという。

フィルモアでの思い出も多数だが、アルバート・キングがメインで出た時、前座はモット・ザ・フープルだった。キングに会いに楽屋に行くと「あの前座はなんだったんだ、と言うような話で意気投合した」こともあった。

黒人系のものでは、タワー・オブ・パワー以外だとチェンバース・ブラザースのライヴがすごかったという。

もちろん、3年もいればけっこう怖い体験もしたという。歩道でこちらが一人で、向うから数人の黒人が歩いてきて、「そのコートいいな」とすごまれたこともあったという。

~~~

スタックス。

頻繁にフィルモアに行くと、やはり同じように頻繁に来ている人間がいて、そういう連中とはなんかの拍子に話をするようになった。とある白人と知り合うと、その人物はなんとスタックス・レコードの宣伝員だかセールス担当の人間だった。彼と知り合うとその後、吉成さんの名前はスタックスのメーリング・リストに載ったようで、スタックスのアルバム、シングルが毎週送られてくるようになり、かなりの数になったという。日本にすべて持って帰ったが、とある人物に全部あげてしまったという。

この時期はまさにサンフランシスコで「フラワー・ムーヴメント」が真っ盛りの時期。留学中に何度か日本に戻ってきたこともあったが、そのときにはすでに長髪、髭、ジーンズ、底の厚いブーツなどで、その姿で東京で電車に乗ると、子供に下から上まで舐めるようにじーと見られ、やはり自分がそうした影響を受けていることを感じたという。

1972年5月に無事、卒業するとき、その後別のヴィザでも取って居残ることなどは考えなかったのか、と尋ねると、その頃そこまで考えが及ばなかった、という。

ちょうどその少し前に、つるつるのタイヤのワーゲンで単独事故を起こし、その車を友人の車に修理場まで牽引してもらったが、修理費が尽き直すでもなく、帰国した。

なお、フィルモア・ウェストは1971年7月クローズ。イーストも6月にクローズ。ただビル・グレアムは、より大きな会場でのライヴ興行を取り仕切るようになる。

フィルモアとビル・グレアムについて、現在発売中の『レコード・コレクターズ』に4ページの記事がでている。

レコード・コレクターズ 2015年 08 月号
ミュージックマガジン (2015-07-15)


https://amzn.to/3uFbpbt

~~~~
~~~~

トミー・リピューマのバラード ジャズの粋を極めたプロデューサーの物語 単行本(ソフトカバー) – 2021/3/29
ベン・シドラン (著) 3080円 (税込み)

https://amzn.to/31PDG2r

発売日 2021/03/29
著者 ベン・シドラン(著)、吉成伸幸、アンジェロ(訳)
サイズ 四六判
ページ数 416ページ
ISBN 978-4-401-65018-7
ジョージ・ベンソン「ブリージン」などジャズやポップスの名伯楽の波乱万丈な人生を、アーティスト=ベン・シドランが綴る

最も売れたジャズ・アルバムのひとつとして知られる、ジョージ・ベンソンの「ブリージン」。ジャズを核としつつも、ポピュラー・ミュージック全般に造詣が深いプロデューサーであったトミー・リピューマこそが、ベンソンを表舞台に引き上げた立役者である。グラミー賞に33回ノミネートされ(5回受賞)、手掛けたアルバムの売り上げは何と7,500万枚という才人の彼が、いかにして音楽的な素養を身につけ、生き馬の目を抜く音楽業界で名を上げ、そして大きな成功を手に入れるに至ったのかを、彼と親交を持ち、同じく音楽を生み出す立場であるベン・シドランが生き生きと描いた一冊。音楽業界が最も面白く、ダイナミックだった時代のエピソードの数々は、音楽ファンにはたまらないものだろう。また、クロスオーヴァー~フュージョンの牽引役でもあったリピューマには、ジャズはもちろんAORやシティ・ポップ好きにもファンが多い。

[主な登場アーティスト]

ジョージ・ベンソン、マイルス・デイヴィス、ポール・マッカートニー、バーブラ・ストライサンド、ダイアナ・クラール、マイケル・フランクス、ジョー・サンプル、ランディ・クロフォード、ニック・デカロ、ほか多数

【CONTENTS】

前奏曲 トミーとのディナー

序章 あの瞬間 異例のグラミー賞

トラック1 田舎の泥道 極貧のシチリアからアメリカへ

トラック2 クリーヴランドの青春 突然の不幸、そして希望

トラック3 ジョニー・カースンとの出会い プロデューサーへの道

トラック4 ブルーサム ワイルドな理想郷とその終焉

トラック5 ブリージン 大成功の陰に

トラック6 ザ・ブルー・ホライズン 危なっかしい船出

トラック7 メイキン・ウーピー マイルス、ドクター・ジョンとの友情

トラック8 エレクトラの破綻 世紀末、激動のレコード業界

トラック9 ダイアナが建てた家 D・クラールのサクセス・ストーリー

トラック10 アメリカン・クラシックス マッカートニー、ジャズを歌う

トラック11 キャンプ・チアフル 故郷クリーヴランドに錦を飾る

最終章 3月13日 親友たちとの別れ、そして永遠の旅立ち

~~~~~

■サポートのお願い


本記事は有料設定ですが、このnoteで最後まで無料で読めます。読後、お気に召せば「記事を購入する」、あるいは、「サポートをする」(金額は自由に設定可)なども可能です。クレジットカード払いか、携帯電話支払いがお選びいただけます。アカウントを作らなくても支払い可能。アカウントを作ると、次回以降手続きが簡略化できます。

ソウル・サーチン・ブログは2002年6月スタート、2002年10月6日から現在まで毎日一日も休まず更新しています。ソウル関係の情報などを一日最低ひとつ提供しています。

これまで完全無給手弁当で運営してきましたが、昨今のコロナ禍などの状況も踏まえ、広くサポートを募集することにいたしました。

ブログの更新はこれまで通り、すべて無料でごらんいただけます。ただもし記事を読んでサポートしてもよいと思われましたら、次の方法でサポートしていただければ幸いです。ストリート・ライヴの「投げ銭」のようなものです。また、ブログより長文のものをnoteに掲載しています。

オリジナルはソウル・サーチン・ブログ
ソウル・サーチン・ブログ・トップ
https://ameblo.jp/soulsearchin/

noteでの記事購入、サポートのほかに次の方法があります。

方法はふたつあります。送金側には一切手数料はかかりません。金額は100円以上いくらでもかまいません。


1) ペイペイ(PayPay) 使用の方法

ペイペイアカウントをお持ちの方は、こちらのアカウントあてにお送りいただければ幸いです。送金先IDは、 whatsgoingon です。ホワッツ・ゴーイング・オンをワンワードにしたものです。こちらもサポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名などでも可能です。ツイッター・ネーム、アカウント名などあればお知らせください。受領の御礼をお送りします。あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。


2) ペイパル (Paypal) 使用の方法

ペイパル・アカウントをお持ちの方は、ソウル・サーチンのペイパル・アカウントへサポート・寄付が送れます。送金先を、こちらのアドレス、 ebs@st.rim.or.jp にしていただければこちらに届きます。サポートは匿名でもできますし、ペンネーム、もちろんご本名でも可能です。もし受領の確認、あるいは領収書などが必要でしたら上記メールアドレスへお知らせください。PDFなどでお送りします。

3)noteでのサポート。

次の「ソウル・サーチン」のノートページに行き、
https://note.com/ebs
このどれでもよいので、記事の下のほうにいくと、緑色の枠で 「気に入ったらサポート」をクリック。100円、500円、1000円、人気の金額、とあるので、どれかをクリック。

4) サポートしたいが、ペイペイ、ペイパル、ノートなどでのサポートが難しい場合は、 ebs@st.rim.or.jp までご連絡ください。銀行振込口座をご案内いたします。(ちなみに当方三井住友銀行です。同行同士の場合、手数料がゼロか安くなります)

コロナ禍、みなさんとともに生き残りましょう。ソウル・サーチン・ブログへのサポート、ご理解をいただければ幸いです。

ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴

本記事はnoteでも読めます
Noteトップ
https://note.com/ebs

ANNOUNCEMENT>Support

~~~~


ここから先は

0字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?