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●ダニー・レイ85歳で死去~ジェームス・ブラウン・ショーの名司会者

●ダニー・レイ85歳で死去~ジェームス・ブラウン・ショーの名司会者

【Danny Ray Dies At 85】

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(本作・本文は約10000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字で読むと、およそ20分から10分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと13分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

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訃報。

ジェームス・ブラウン・ショーで名調子を聴かせる司会者であり、同ショーの終盤でお決まりのマントをブラウンにかける役を演じていたダニー・レイが2021年2月2日(火)、ジョージア州オーガスタの自宅で死去しているのが見つかった。自然死とみられる。85歳。最近は酸素ボンベを手放すことがなく、不定期だが、医者に通っていたという。前日から知人らが電話していたが、電話にでないために、警察に連絡し中に入ったところ、死亡していたという。

ダニー・レイといえば、なにはなくともその華麗なショーを盛り上げる名調子の司会ぶり。おそらく、ソウル・ショーのMC(司会者)としては世界一だろう。多くのMCがこの司会ぶりを真似た。

ジェームス・ブラウン死去(2006年12月)以降はたいした仕事はなかったが、ジャズ・ベース奏者、クリスチャン・マクブライドが自身のビックバンドのMCに抜擢し、ツアーに誘ったり、また地元のライヴ・バンドのMCをしたりしていた。数年前から体調を崩し、2015年8月と2018年6月の「ジェームス・ブラウン・トリビュート・ライヴ」の司会者として当初は来日が予定されていたが、体調不良を理由にキャンセルされていた。

最後の来日は2014年9月の東京ジャズでのクリスチャン・マクブライドのライヴと2015年12月のジェームス・ブラウン・トリビュート・バンドのライヴだった。

ジェームス・ブラウンが「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショー・ビジネス」(ショービジネスの世界でもっとも働く男)と異名を持つので、ダニー・レイはそれに次いで「2番目にショー・ビジネスの世界で働く男」などと呼ばれた。

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葬儀予定。

葬儀が2021年2月13日(土)に行われることになった。生配信もされるようだ。

Saturday, February 13, 2021, 11am at the James Brown Arena. Funeral is open to the public. Everyone must wear a mask at all times and follow CDC guidelines.

Viewing will begin at 10am-10:50am (日本時間、2月13日深夜24時~24時50分)

Live streaming of the funeral will be on this Facebook page.

https://www.facebook.com/JamesBrown


In lieu of flowers, the family ask that donations be made to the James Brown Academy of Musik Pupils for music scholarships for students. Please go to www.jamesbrownfamilyfdn.org


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FEBRUARY 3, 2021 5:10PM ET
Danny Ray, James Brown’s Longtime ‘Cape Man’ and Emcee, Dead at 85



https://www.rollingstone.com/music/music-news/danny-ray-james-brown-cape-man-emcee-dead-1123420/
https://www.youtube.com/watch?v=mS3bQ_rRMW0…


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評伝。

ダニー・レイ Daniel Brown Ray は、1935年3月22日アメリカ深南部アラバマ州バーミングハム生まれ。ジェームス・ブラウンのMCを40年以上にわたって担当。ミドル・ネームはなんとブラウンだ。

若い時代には軍隊に入り、除隊後、20歳の頃、1955年頃、音楽関係の仕事をしようと考え、ニューヨークに出向いた。そこで音楽スポットに出入りしているうちに、ジェームス・ブラウンと知り合い、1960年、当初は雑用係でブラウンの事務所に入った。あるとき、ジェームス・ブラウン・ショーのMCが来なかったときがあり、突然、MCを振られてやったところ、それが好評を博し、以後、ジェームス・ブラウンのMCとなった。

1960年から2006年12月25日にブラウンの死去までほぼすべてのライヴのMCを担当した。

冒頭のMC、ショーの途中のMC、またショーのエンディングでブラウンがケープ(マント)をかけられ、それを引っ剥がし、再度肩にかけると言う重要な役目も果たした。

そのMCぶりは、おそらく世界一、ソウル・ミュージック・ショーのもっともプロト・タイプになったMCだ。

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2021年2月4日放送の「ナイト・サーチン」でダニー・レイのMCをピックアップしてオンエアした。

1. Caldonia (Showtime) 1:10- James Brown 1964
2. It's A New Day (Revolution Of The Mind)2:12 - James Brown 1971
3. Introduction Of The JBs 2:07 - Hot Pants Road - JB's (Get Down With
James Brown Live At The Apollo Vo.4)
4. Doing It To Death 1:43 - JB's
5. Cold Sweat (Live At The Apollo 1995) 2:37 - James Brown
6. It's Too Funky Here (Hot On The One) 7:18 - James Brown (Hot On The
One)

(このリストはジェームス・ブラウン研究家、佐藤潔さんの協力を得ました。ありがとうございます)

その名調子が聴かれるライヴの動画(約2分10秒)→


https://www.youtube.com/watch?v=zqwMJGYQHTM… 

これはさらに古い動画とちょっとしたコメント(約1分)→


https://www.youtube.com/watch?v=mS3bQ_rRMW0…

同じジェームス・ブラウン・ファミリーにいたアラン・リーズがダニー・レイについての思い出話を書いていたので、後日、少しまとめてみたい。


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思い出。

ダニー・レイからは、1979年12月に話をゆっくり聴いた。以後は、ミスター・ブラウンの来日のたびに会うことはあったが、1996年1月、ミスター・ブラウンの奥さんが亡くなったときに葬儀に行き、そのときにいろいろとお世話になった。飛行場、ホテル、葬儀会場、墓地、ジェームス・ブラウン邸まで、車を運転してくれた。

1996年1月、ミスター・ブラウンの奥さんが亡くなったときその葬儀に勝本さんと一緒に行った。その翌日ブラウン邸に招かれるのだがホテルからブラウン邸まで送ってくれたのがダニー・レイだった。その時の回顧→
https://amba.to/3jeoQuc 

自宅訪問
2007年04月22日(日)
【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート1】

自宅訪問。

勝本さんとは、ジェームス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。だが、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェームス・ブラウンの当時の奥さんだったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出席するためにはるばるオーガスタまで行った時のことだ。ミスター・ブラウン死去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。

奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、死去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたんだろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。

成田→ロスアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名だが、東京からは遠いのだ。

アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機だったと記憶する。オーガスタの飛行場はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に歩いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるが、夜遅くなっていた。

そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。そして、メインのレストランの一角には、ジェームス・ブラウン専用の席があった。いつも彼はここに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。で、メニューにはジェームス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなものだったと思う)があった。メニューに「ジェームス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェームス・ブラウン・サラダ」だったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。

葬儀は到着した翌日に、市の公会堂のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会場に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、つれていってくれた。この会場には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も歌ったり、スピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも順に従って献花した。この会場で、ハリー・ワインガー(ジェームス・ブラウンのボックスセットを作ったポリグラム・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。

約1時間半だろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が映画のようで壮観だった。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや歌があった。そして、牧師の声とともにその棺が地中に下ろされた。アメリカでは荼毘(だび)にふすということをしないらしい。このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。

僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出席したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーションだという認識のほうが強いからという説明を受けた。

その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70-100人くらいはいたのではないだろうか。広いレストランがブラウン関係者で埋め尽くされた。このレストランに戻ってきた頃にはブラウンもかなり元気になっていた。おそらく古い仲間と再会できたことがうれしかったのだろう。

ミスター・ブラウンは、まめにあちこちのテーブルに出向き、挨拶をしていた。そして、勝本さんのところに来て、ブラウンが「今日はごたごたしてゆっくり話せない。明日、時間はあるのか。私のうちに来なさい」というようなことを言った。勝本さんは、その前年、一度ブラウンの自宅に招かれていたので、今度が二度目になるが、僕はまったくの初めて。恐れ多かった。

そして、その翌日、勝本さんと僕がミスター・ブラウンの自宅に招かれたのだ。ホテルに迎えに来てくれたのは、もちろんダニー・レイだった。

ホテルからミスター・ブラウンのうちまでは、約20分。シェラトンから広い国道か州道を走っていく。まもなく、大きな川があり、そこの大きな橋を渡ると、ジョージア州がサウス・キャロライナ州になった。川が州境だったのだ。サウス・キャロライナはこんなに近かったんだ、と思った。

「そうか、たったこれだけの距離でも、州境を越えたカーチェースをすれば、管轄は地元警察ではなく、FBI(連邦警察)になるんだ。きっとミスター・ブラウンは、この橋でも渡ったんじゃないだろうか」などと考えてしまった。

ほとんど対向車もなく、しばらく行くと、ダニーが横道に入っていった。横道といっても、狭くない。そして、ちょっとした一角に車を進めた。ちょうど、扉のない大きな門柱のようなものの横を通って中に入ったのだ。そこからジェームス・ブラウン邸の敷地内にはいったのだ。

(この項続く)


続き→


https://amba.to/3tlvqUl

豪邸
2007年04月24日(火)
【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート2】

(勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出席するためにオーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウンだった)(2007年4月22日付日記の続き)

豪邸。

門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、中に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標識だ。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェームス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェームス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。

ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな池が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が止まっていた。正確には覚えていないが、ロールス・ロイス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あっただろう。

僕はダニー・レイに尋ねた。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったのだ。ダニーは答えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車だ」 「ひえ~~、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいんだ。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうんだよ」

ダニーは勝手知ってる家と言う感じで、母屋の前に車を止めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。

そこにはミスター・ブラウンが大きな椅子に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなんだろう、と思いつつも、コーラと答えた。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。

しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたのだと思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの死について、医学的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医学用語の単語はわからなかった。

それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その頃、ミスター・ブラウンは娘のヤマ・ブラウンを売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものことだ。

はっきりは覚えていないのだが、ヤマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバムを作る(あるいはすでにアルバムはできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話だったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じだった。

そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文字通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。「俺たちは知り合って何年だ? 20年以上だな。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるんだ」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態だ。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息子のようなものだ」とも言う。

ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご存知かもしれない。

僕はミスター・ブラウンに行きがけに見た敷地内の池について尋ねた。「ミスター・ブラウン、あなたは釣りがお好きなのですか」 「いやあ、釣りをする暇はほとんどないんだ。今は、池にどんどん鱒(マス=だったと思う)を放ってるところだな」 釣るんじゃなくて、池にどんどん放し飼いにするんだ、と思って、またまた度肝を抜かれた。

ブラウン邸には小一時間いたのだろうか。外までミスター・ブラウンは見送ってくれた。そして再び、ダニー・レイの車に乗って僕たちはホテルに戻った。そのとき、僕はブラウン邸の全貌を見たわけではないが、ダニー・レイがその敷地がものすごく広く、かなり大きな豪邸だと教えてくれた。

ブラウンが昨年(2006年)亡くなり、その遺体が敷地内に埋葬されるかもしれない、というニュースを見たとき、なるほど、あれだけ広い敷地だったら、どこにでもお墓は作れると思ったものだ。

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最後にあったのは、2014年9月。そのときの再会→


https://amba.to/3rdG8dC

ダニー伶横位置 2014.09


★ダニー・レイ(ジェームス・ブラウンの名MC)と8年ぶりに再会
2014年09月09日(火)

【Meeting With Mr. Danny Ray】

8年ぶり。

今回の東京ジャズは僕個人的にもとても思い出深いものになった。なにより、NHK-FMの生中継の解説を担当したこと。そして、まったく予期せぬ形であのダニー・レイに再会できたことが感慨深いものになった。

土曜日(2014年9月6日)NHK-FMの『東京ジャズ』生放送中に電話が入った。友人のMからで、「吉岡さん、あのダニー・レイが日本に来てますよ! なんかのビッグバンドで、今日モーション・ブルーとか言ってました」という。「え、あのダニー・レイが?」 いろいろ調べると、クリスチャン・マクブライドのビッグバンドのMC(司会者)役で来日しているらしい。

そこで翌日(9月7日日曜)、東京ジャズに出演するクリスチャン・マクブライド・ビッグ・バンドをチェック、果たして、ダニー・レイが登場。

ライヴ後、バンドの楽屋にいくと、ミスター・ダニー・レイがいた!

なんでまた? しかも、ノー・クレジットで、バンドメンバーの中に事前に名前はでていなかった。

彼と会うのは、最後にミスター・ブラウンが来日した2006年3月以来。約8年ぶりだ。ミスター・ブラウンが亡くなってからは、こちらからアメリカに会いにいかない限り会えないと思っていたので感激もひとしおだった。

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粋。

楽屋でもミスター・ダニー・レイは白いスーツにハットという粋な恰好。ミュージシャンたちは、どんどん着替えてカジュアルなかっこうになっているが、ミスター・レイはステージ衣装そのままだ。

「(クリスチャンのことは)もう何年も知ってるよ。十数年、もっとかな。彼から電話があってMCやらないかって言われると、ツアーに参加している。クリスチャンは以前ジェームス・ブラウン・バンドにいたからね」

クリスチャンも「ミスター・レイのことは、(ジェームス・ブラウンの)バンド時代から何年も知ってるんだ。だから声をかけたんだよ」という。

ダニー・レイは勝本さんと僕がジェームス・ブラウンの奥さんが亡くなった1996年1月にその葬儀にオーガスタに行ったとき、空港に迎えに来て、そのときすべての運転手をしてくれた。ホテル、葬儀会場、ホテル、そして、翌日はミスター・ブラウンの家だった。

さすがにちょっとふけた感じはしたが、白いスーツを着てびしっと決めていると、「ああ、ミスター・ダニー・レイ!」と感慨深い。

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ダニー・レイ、チャーリー・マクブライド、 (アラン・リーズ写真)

ヴォイス。

「ソウル・サーチン・レイディオ」の「コンプリート・ジェームス・ブラウン・シングルス」のコーナーのオープニングの声に、世界中でこの人ほど完璧な人はいない。こんなチャンスが巡ってくるとは夢にも思わなかった。

そういえば、昨年フレッド・ウェスリーが、中田さんのオーサカ=モノレールとライヴをして、ライヴ後フレッドに会いに行ったとき、「ダニー・レイはどうしてる?」という話になり、フレッドがいきなり、ダニーに電話してくれ、そのとき電話で話をしたことを思い出した。

「ミスター・レイ、お願いがあるんですが。いま、ラジオ番組をやっていて、毎週一枚ずつジェームス・ブラウンのシングルをかけているんです。そのコーナーのオープニングをやってもらえませんか?」と頼むと、二つ返事で「シュア!」。

さっそく、ラジオ用の一般IDとコーナーのオープニングを頼んだ。一応、僕も原稿を用意していたが、それを一通り読んでくれたあと、もう一回やらせてくれ、といい、曲名をいれたオリジナルなものをその場でやってくれた! あの「ライヴ」のオープニングのような曲目を連呼するやつだ。もう超感激である。

さらに、通常のラジオIDも、原稿にはない、「君がソウル・サーチン・レイディオを聴いていなければ、そのラジオはついてないもどうぜんだぞ」というセリフまでいれてくれた。もうもう超超感激だ。

これを楽屋で録音していたら、終わったところにちょうど、クリスチャンが入ってきた。「それにはいくらチャージするんだい? (笑)」。

「フレンドシップ・プライスかな(笑)」と僕。

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クリスチャンとダニーに、1970年代から知ってること、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀のときの話など、いろいろしたら、驚いていた。ミスター・レイもそういう話をすると、少しずつ思い出すようだった。

これらのIDは、明日以降の「ソウル・サーチン・レイディオ」でご紹介します。

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カラオケ。

ちなみに、クリスチャンとカラオケに行ったことがある話は以前にご紹介したが、そのときに歌った曲が思い出せなかったのだが、彼にそれを言うと笑いながら、「おおっ、そうだったな。たぶん、歌った曲は(スタイリスティックスの)『ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ』だと思うな。なぜなら、僕の声は低くてディープだろ? そんな僕が高いファルセットを歌うのがおもしろいんだよ」と思い出してくれた。

この日、ダニー・レイとの再会は予期せぬ再会だった分、感動もひとしおだった。

ENT>ARTISTS>Ray, Danny
ENT>ARTISTS>Brown, James


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