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●ジョセフ・B・ジェファーソン77歳で死去~フィリー・ソウルのヒット・ソングライター

●ジョセフ・B・ジェファーソン77歳で死去~フィリー・ソウルのヒット・ソングライター

【Joseph B. Jefferson Dies At 77 : Philly Songwriter, Producer】

(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

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●ジョセフ・B・ジェファーソン77歳で死去~フィリー・ソウルのヒット・ソングライター

【Joseph B. Jefferson Dies At 77 : Philly Songwriter, Producer】

訃報。

フィラデルフィア・サウンドを形作ったソングライターの一人、ジョセフ・B・ジェファーソンが2020年7月26日(日)ニュージャージー州マウント・ローレルの自宅で妻に看取られながら死去した。77歳。癌を患っていた。1週間ほど前に77歳の誕生日を迎えたばかりだった。1943年7月20日ヴァージニア州ピーターズバーグ生まれ、ニュージャージー居住。スピナーズの「ワン・オブ・ア・カインド」「ゲームス・ピープル・プレイ」「セイディー」、オージェイズの「ブランディ―」などヒット多数を送り出した。妻と2人のハーフ・ブラザー、ジョージ・アンソニー・ジェファーソンとドナルド・リー・ジェファーソンによって送られる。葬儀の日程は未定。


https://www.inquirer.com/news/obituary-joseph-b-jefferson-nat-turner-rebellion-spinners-philadelphia-20200727.html

評伝。

1.ヴァージニア州生まれ

1943年7月20日ヴァージニア州ピーターズバーグ生まれ。母がトランペット奏者で、多くのレコードコレクションを持っていた。その中にはカントリー・レコードが多く、そうしたレコードが彼のストーリーテラーとしての才能に役立ったという。

軍隊参加後地元に戻り、ニュージャージーに移り、ドラマー、キーボード奏者として1960年代からバンド活動を始めた。地元(ニュージャージー)で活躍するゴスペル・グループ、スイート・インスピレーションズ(シシー・ヒューストン=ホイットニーの母=が在籍するグループ)や同じく同郷のマンハッタンズのバックバンドなどを経験した。1968年頃、スイート・インスピレーションズがエルヴィス・プレスリーのバック・コーラスの仕事でラスヴェガスに行くときも本来だったら行くはずだったが、ちょうど足を怪我したために、行けずに地元にとどまったという。

1969年頃、フィラデルフィアに移り、同地のメンバーと4人組のファンク・バンド、ナット・ターナー(ズ)・リベリオン(ナット・ターナーの反乱)というグループを結成。ライヴ活動をしてそれなりに観客も動員し、フィラデルフィア一帯で人気となり、同地のフィリー・グルーヴ・レコーズと契約。シングルを出すがヒットはせず、ただアルバムを録音することになった。

このときのメンバーが、ジョセフ・ジェファーソン、メジャー・ハリス(のちにデルフォニックス、ソロ、歌とギター)、ウィリアム・ビル・スプラトリー(バリトン)、ロン・ハーパー(テナー)。(メジャー・ハリスは兄弟との記述もあるが、異母(異父)兄弟かもしれない) また、ウィリアム・ビル・スプラトリーはのちにABCでのハロルド・メルヴィ&ブルーノーツに参加する。

ブログ ジョセフ・ジェファーソン訃報2 シグマサウンドスタジオ外観

(シグマ・スタジオ、現在は火災と廃ビルのため、ない)

アルバムは、フィラデルフィアの名門シグマ・サウンド・スタジオで録音され、原盤権をフィリー・グルーヴが持っていた。昨年、これがフィラデルフィアのドレクセル大学の音楽業界プログラムの目に(耳に)とまり、発掘リリースされた。実は同大学はシグマ・サウンド・スタジオで録音されたマスターテープのアーカイヴ化を手伝うことになっていたからだ。これは、2012年には同地のレザヴォワ・レコーズがフィリー・グルーヴの出版と原盤権を獲得し、ドレクセル大学にアーカイヴ化、テープのデジタル化などを依頼していたために発掘された。


2. ナット・ターナー・リベリオン

このナット・ターナー・リベリオンは1969年当時旬だったスライ&ファミリー・ストーンやテンプテーションズのサイケデリック・ファンクを踏襲したもので、いかにもその当時の音をしている。

ブログ ジョセフ・ジェファーソン訃報 3 ナットターナー ジャケ写

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https://open.spotify.com/album/4xlyBUrHtKs9887ieTdPav?utm_source=embed_v2&go=1&play=1&nd=1

Laugh To Keep From Crying (2019 Remaster)


https://www.youtube.com/watch?v=agCMw5BfMhc

Tribute To A Slave (2019 Remaster)


https://www.youtube.com/watch?v=uLfZWeViXxc

Fat Back (2019)


https://www.youtube.com/watch?v=DDih6QOLzFw

Never Too Late


https://www.youtube.com/watch?v=bAz8DAVE_-w


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3.ナット・ターナーの反乱

■■■ナット・ターナーの反乱

ところで、このナット・ターナー・リベリオンというグループ名は、これはちょっとしたストーリーがある。現在のブラック・ライヴズ・マターとも大変密接な関係がある。

「ナット・ターナーの反乱」と呼ばれるこの出来事は、奴隷制度真っただ中の1831年8月21日、ヴァージニア州サウスアンプトンの奴隷たちが集結し反乱を起こし、白人のオウナー、白人ら50人以上を殺害し、逃亡した事件。この反乱を起こした奴隷たちは数日のうちに捕まったが、首謀者となったナット・ターナーだけは約2か月間身を隠した。

ブログ ジョセフ・ジェファーソン訃報4 ナットターナー虐殺

奴隷の反乱に恐れをなした白人たちは自警団を結成し、逃亡奴隷を捕まえ、ほぼ全員を首つり処刑をした。奴隷のほか「自由黒人」(奴隷ではない黒人)も含め殺されたのは120名を超えると言われる。

ナット・ターナーも11月にはつかまり、11月11日に処刑された。

ナットは、当時の奴隷としては珍しく読み書きができるようになり、聖書を読み、自らのヴィジョンを周囲に語っていた。

ナットは奴隷の父に生まれたので、苗字がないが、ナットの奴隷主がターナーだったので、広くナット・ターナーとして知られるようになった。

ナット・ターナーの反乱については、その後もドキュメンタリーなどがいくつか作られている。


The Israelites: Nat Turner Documentary (Official) (約1時間20分)


https://www.youtube.com/watch?v=8OtDXJwdRdk


Nat Turner: A Troublesome Property (約1時間24分)


https://www.youtube.com/watch?v=iwa8jgSdQKM

ジェファーソンがこのグループに、「ナット・ターナー・リベリオン」と名付けたのは、母親が繰り返しこの話をしてくれたからだという。

「ブラック・ライヴズ・マター」に興味を持たれている方なら上記のドキュメンタリーは勉強になると思う。僕も全編は見ていないが、まったく知らない話だったの勉強になった。

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ジェファーソンは、一時期このバンド活動中は、自身をナット・ターナーと呼んでいた。のちに結婚し妻となる人物にも、当初自分は「ナット・ターナーだ」と名乗っていたほどだった。

ナット・ターナー・リベリオンは東海岸でライヴを行い、北はモントリオール(カナダ)から、南はフロリダ・マイアミまで出向いた。しばしば、レーベルメイトのデルフォニックスと一緒にツアーにでることもあったという。

しかし、ブレイクするほどまではいかず、金銭を巡ってジョセフ・ジェファーソンとウィリアム(ビル)が対立、しまいにはウィリアムがジョセフの頭に銃を突きつけ、金をよこせといったことを機に、グループは自然解散となった。1972年のことだった。ただ、その後、ウィリアムとジョセフはよりを戻している。

ちなみに、4人のメンバーのうち、すでに3名は鬼籍に入り、ジェファーソンは最後の生存メンバーだった。

4. トム・ベルとの邂逅

さて、グループを解散したジョセフ・ジェファーソンは、その後マンハッタンズのライヴなどでトム・ベルの兄弟トニー・ベルと知り合い、トニーのつてでトム・ベルを紹介され、知己を得てトム・ベルの元で曲を書き始めることになる。

初めてジョセフがトム・ベルのオフィースに出向いたときは、トムによれば、「とても臭かったので、後日出直せ」と言い、2日後にやってきた、そうだ。

ブログ 女性・ジェファーソン訃報5 トム・ベル

当初は「トライアル」で雇われたが、最初に単独で提供したのが、「ワン・オブ・ア・カインド(ラヴ・アフェア)」で、これがスピナーズによって録音され、なんと1973年4月からヒット、ソウル・チャート1位、ポップ・チャートで11位になる大ヒットを記録し、以後多くの作品を提供することになる。いきなり売れっ子ソングライターになったわけだ。

トム・ベルは、同じく配下にしていた新人ソングライターのブルース・ハウズ(1953年生まれ)、チャールズ・シモンズとジェファーソンを組ませ、ソングライター・トリオ、「ハウズ=シモンズ=ジェファーソンズ」で売り出していく。

Spinners – One Of A Kind (1973)


https://www.youtube.com/watch?v=eilMzx-fE1Y

ちなみに、次の「アイ・クド・ネヴァー~」はブルース・ハウズ単独の作品で、こちらもトム・ベルの流麗なストリングス・アレンジがあるためにとてもメロディアスな曲調。おそらく、ブルースもジョセフもどちらもこういう曲調が書けたのだろう。これがトム・ベルにとっても、スピナーズにとってもどんぴしゃだった。

Spinners – I Could Never Repay Your Love – (1973)


https://www.youtube.com/watch?v=Sv1eazJuPNY

Spinners- Spinners (1973/3)


https://amzn.to/2P3jNic

ちなみに、1973年初めに出たニューヨーク・シティーの大ヒットとなる「アイム・ドゥーイン・ファイン」のシングル盤のB面「エイント・イット・ソー」は、ジョセフの単独の作品。プロデュースはトム・ベルだが、ジェファーソンの甘いソウル・バラード・タイプのプロトタイプができているようだ。

New York City – Ain’t It So (1973)


https://www.youtube.com/watch?v=bXFd41lL2s4


The Stylistics – Could This Be The End (1973/10)


https://www.youtube.com/watch?v=c5_d_wiriIs

Johnny Mathis - I Just Wanted To Be Me (1973)


https://www.youtube.com/watch?v=nPWK9Kw6tT0

5.トム・ベルの元、新フィリー・サウンド期待の若手に

スピナーズのアトランティック移籍第1弾『スピナーズ』は見事にゴールド・ディスクになり、彼らも十分な評価を獲得。そして、第2弾『マイティー・ラヴ』では、全8曲中、このトリオに6曲を任せ、もう一曲はジェファーソンとシモンズの「ラヴ・ドント・ラヴ・ノーバディー」、もう一曲はトム・ベル&リンダ・クリードの「アイム・カミング・ホーム」ということになり、彼ら3人がチーム・トム・ベルのトップ・エースにのし上がった。『マイティー・ラヴ』は1974年3月に全米発売され。これもゴールド・ディスク、ソウル・アルバム・チャート1位に輝いた。

ブログ 女性・ジェファーソン訃報5 トム・ベル

「ハウズ=シモンズ=ジェファーソンズ」は、モータウンにおける「ホランド=ドジャー=ホランド」、あるいは、フィラデルフィアにおける「マクファーデン&ホワイトヘッド&ヴィクター・カースターフェン」的な存在になった。

ジェファーソンの作品群は、トム・ベルと手を組んだせいか、スイートでメロディアスな作品が多いが、これは、ナット・ターナー時代のファンク路線とはちょっと違う。結局、多様性があり、どちらもできるという器用なところがあるわけだ。

ブログ ジョセフ・B・ジェファーソン アー写 顔アップ

6. ランダムに名曲を

1973年、スリー・ディグリーズの大ヒット「ダーティー・オール・マン(邦題、荒野のならず者)」のシングルB面に収録された「キャンチュー・シー・ホワット・ユーアー・ドゥーイン・トゥ・ミー」もジェファーソンらの作品。いろいろな素材から編集したと思われる当時の映像があった。

The Three Degrees - Can't you see what you're doing to me (Ruud's Extended Mix)

https://www.youtube.com/watch?v=4RjKT6K8Taw&feature=youtu.be&fbclid=IwAR3TtU7wC1sf6lfOKL6CsNhtgiJn6g3svxSxZIfW4sWFqo_z5GjPmdwKRpE

Mighty Love
(1974)


https://www.youtube.com/watch?v=EyjsGpb9H-4

スピナーズの『マイティー・ラヴ』のアルバムでは、トム・ベルは彼らを大抜擢。アルバム8曲中、7曲を彼らに任せた。

The Spinners - Love Don't Love Nobody [1975]


https://www.youtube.com/watch?v=RcoOh467Uow

そして、「母の日」に全米ではよくかかるママのための曲。のちにトゥーパックが「ディア・ママ」でサンプリング
Sadie (1975)


https://www.youtube.com/watch?v=SL0XqNmsoVg

They Just Can’t Stop It (Game People Play) 1975


https://www.youtube.com/watch?v=I_4xktFy4Dw

ちなみに、1976年、ジェファーソンがチェリー・ヒルのラテン・カシーノで結婚するときにスピナーズのメンバーはグルームスメン(介添人)、同じくフィリーで活躍していたシスター・スレッジはメイズ・オブ・オナー(花嫁付添人)として式に参加している。

ブログ ジョセフ・ジェファーソン訃報6 スピナーズ

以後、スピナーズを始め、トム・ベルがてがける多くのアーティストに曲を提供、ヒット曲を多数生み出した。

スピナーズの「マイティー・ラヴ」、「ゲームス・ピープル・プレイ」、「ラヴ・ドント・ラヴ・ノーバディー」、「セイディー」、ジョニー・マティス、フィリス・ハイマン、スタイリスティックスなど200曲以上を書いている。

オージェイズの「ブランディ―」1978年夏に大ヒット。

O’Jays - Brandy


https://www.youtube.com/watch?v=i6j-99ckw4c

Johnny Mathis - I Just Wanted To Be Me
https://www.youtube.com/watch?v=nPWK9Kw6tT0&fbclid=IwAR3mFZLkUp2SHiugEEYVZVTOj_VKNdf_gOSXLYFpCjl5YDMzCpCG3Rv-R9g

ジェファーソンが珍しくトム・ベルと書いた曲。1983年の『ゴッデス・オブ・ラヴ』収録。
1983- Just Me And You – Phyllis Hyman


https://www.youtube.com/watch?v=pGZmHeaMICU

The Temptations - Aiming At Your Heart (1981)


https://www.youtube.com/watch?v=H02fqV__x9k
(これは、シモンズ、リチャード・ローバックとの共作)

This Feeling's Killing Me - The Jones Girls (1979)


https://www.youtube.com/watch?v=tqv_7TIoC6k

The O'jays Undercover Lover (1991)


https://www.youtube.com/watch?v=cSaCs77B--U

The Stylistics - Maybe its love this Time (1980)


https://www.youtube.com/watch?v=M6BpTZZnyVI

フィラデルフィア・ソウルを振り返ってみると、彼の師匠、トム・ベル&リンダ・クリード、ギャンブル&ハフ、その弟子でもあるマクファーデン&ホワイトヘッド&カースターフェン、そして、ハウズ=シモンズ=ジェファーソン・トリオあたりは、まさに中心的存在となった第二世代のソングライター、プロデューサーたちだ。それにしてもいい曲が多い。

ご冥福をお祈りします。

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