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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」004 ■■ 「ジェームス・ブラウンとチキンを食べた」 (ジェームス・ブラウン・パート2)

■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」004 ■■ 「ジェームス・ブラウンとチキンを食べた」 (ジェームス・ブラウン・パート2)

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(本作は約7000字。黙読ゆっくり1分500字、早い人で1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサーは1分300字くらい)だと24分くらいの至福のひと時です。お楽しみください)

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ジェームス・ブラウンは2002年に続いて2003年にも来日した。僕と勝本さん(全国ディスコ協会会長、ジェームス・ブラウンの盟友、1996年にともにブラウン邸を訪問している。2007年5月逝去)はライヴを見た後、ミスター・ブラウンの滞在先のホテル(ニュー・オータニ)でご一行を待っていた。

ロビー入口あたりで待っていると、ご一行が戻り、なんと「一緒に飲もう」ということになった。

そのときのことを2003年10月6日付けと10月7日付けブログに書いた。これも個人的にはすごく好きなストーリーなので、2本に若干加筆してまとめてお送りする。

なお、この前に、1996年1月のジェームス・ブラウン邸訪問の記事、2006年最後のライヴとその周辺の記事、訃報ブログなど、ミスター・ブラウンからの電話などもあるので、ジェームス・ブラウン関連記事はほかにもまとめたい。

本作のタイトルは、「アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン(パート1)&(パート2)」(I Ate Chicken With James Brown (Part 1) & (Part 2)」。エンジョイ、グッゴー。

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I Ate Chicken With James Brown (Part 1)

30年。

2003年10月2日(木曜)のライヴが終わった後、勝本氏と「どうする?」という話になり、「まあ、とりあえず、ホテル(ニューオータニ)行きましょうか」ということになった。一足先にホテルに向かい、入口近辺のコーヒーハウス(サツキ)でお茶しながら、ミスター・ブラウンの帰りを待つことにした。しばらくすると、ご一行が戻ってきた。するとブラウンがこちらを見つけ、近寄ってきた。ひとことふたことあり、なんとそのコーヒーハウスで軽く飲もうということになった。まあ、予想外の展開というか。かなり焦った。

こちらサイド(勝本氏、僕、勝本氏の友人たちで数名)、ブラウン・サイド(ミスター・ブラウン、トミー・ブラウン=奥さん、社長、マネージャー)で12人くらいのグループでお茶をする。席は大きな丸いテーブルに全員が座る形で、トミー、ミスター・ブラウン、勝本氏、そして、僕。で、勝本氏の言うことを僕が訳して伝え、その返りをまた日本語に訳すという通訳状態になる。

だいたいが、昔話になる。「30年前、君たちはもっと若かったな。オレは君たちが成長していくのを見てるからな。30ロング・イヤーズ・・・」というミスター・ブラウン。トミーやスーパーフランク社長(白人の長髪の人物で、ステージで最後にブラウンと一緒に踊った人)に、「彼とは30年前から知ってるんだ。彼はオレそっくりに踊れるんだよ」などと話している。社長はこの1年くらいで、ブラウンのマネージメントをてがけるようになったので、来日は初めて。(註、勝本氏とミスター・ブラウンは初来日の1973年以来親交を深めた。1970年代にブラウン邸を訪問、1991年に二度目の訪問をした。来日時には必ずライヴなどに同行。ときにはステージにあげられ、一緒に踊りを披露することもあった)

ブラウン宅には勝本氏とミスター・ブラウンの30年前(1973年初来日時)のツーショットの写真が飾られている。だから、いつでも、ミスター・ブラウンはその話を持ち出す。「昔は、おまえはこ~~んな大きなアフロヘアーだったよな。ははは」

「シャンペーンでも飲むか?」とミスター・ブラウン。「いやいや、おかまいなく」と遠慮する日本サイド。でも、結局頼まれた。(←敬語使い) 少しずつ全員に注がれると、ミスター・ブラウンとトミーが「何に乾杯しましょうか。じゃあ、みんなの健康に」と言い、「かんぱ~~い(cheers)」となった。再び「30ロング・イヤーズ!」 この日、何度この言葉を聞いたことか。

ミスター・ブラウンは「腹は減ってるか? なんでも頼んでくれ。オレのおごりだから」と言う。昔、なぜかその一行にまぎれて一緒になった勝新太郎さんに同じことを言われたのを思い出した。なんだか、一瞬、ミスター・ブラウンと勝さんがだぶって見えた。どちらも、親分肌で、超豪快な人物である。そして、どちらも愛すべき人物であり、一緒にいるとその場ですぐに「大ファン」になってしまうようなキャラクターの持ち主だ。

ミスター・ブラウンたちは、若干おなかが減ったのかフードをオーダーする。どうやらフライド・チキンをオーダーしたようだ。ミスター・ブラウンが今2歳の息子の写真を見せてくれる。トミーが言う。「2001年6月11日に生まれたの」 「名前は?」 ミスター・ブラウンが答える。「ジェームス・ブラウン・セカンドだ」 「オ~~、イエ~」 それから、また別の写真を見せてくれる。「うちの池で釣れた魚だ」とミスター・ブラウン。どうやら、バスらしい。「釣りはなさるのですか?」「う~~ん、習っているところかな。池に、どんどん(魚を)放ってるんだ」(註、ということは、この二世はジェームス・ブラウンが68歳のときの子供ということになる。上の兄とは40歳から50歳近く年齢が離れている。第一子は1954年生まれのテディ―。ただ1973年に交通事故で死去。もちろん、すでに孫もいる) 

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神。

僕は誰もが思う疑問を尋ねた。「今日のステージを見て、とても70歳には見えませんでした。本当にお若いですねえ。その若さの秘密はなんなんですか」 ミスター・ブラウンは僕の目を見て、黙って人差し指で天井を指した。そして、いつものように訛りの強い英語で答えた。「神だよ。神がオレに力を与えてくれるんだ」 

横に座っていたトミーが、「先日、日本で一番長寿の女性が亡くなったんですって」と話をふってきた。「ああ、そういうニュースがありましたね」「日本人はみな長寿なんでしょう?」 「え~確かに」

そこで、僕はミスター・ブラウンが昔、自分は200歳まで生きると言っていた発言を思い出した。「ミスター・ブラウン、その調子だったら、本当にあと何十年もライヴができますね。僕はあなたが昔おっしゃっていた200歳まで生きるという言葉が大好きなんですよ」 (正確には、ジェームス・ブラウンは、「オレは200歳マイナス1日まで生きるんだ」と発言していた。それだけ長くファンクの伝道師を続ける意欲を示したものとして受け取られていた。僕はそれを単純に「あなたは200歳まで生きると言っていた」ということを持ち出した)  「よ~く覚えてるな。(笑) すばらしい記憶の持ち主だな。だがな、オレは君たちに200歳まで生きて欲しいと思っている。それで、オレは200歳マイナス1日だけ生きるんだ。そうすれば、君たちのようなすばらしいフレンド(友達)の死を見ずにすむからな」 「オオ、イエ~」 ほとんど、ゴスペルの説教の相槌みたいになる! (こんな会話、テープに取りたかった!) ミスター・ブラウンのその言葉を日本語に訳すと、座っていたみんなから思わず拍手が巻き起こった。

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チキン。

しばらくしてフライド・チキンが何皿かやってきた。僕たちは遠慮して、フードはオーダーしなかった。というか、とてもミスター・ブラウンの前で何かを食べるという余裕がなかったのだ。(笑) ミスター・ブラウンはかなりの量の塩と胡椒をチキンの上に振りまく。すると、そのチキンの乗ったプレートをさして、「どうだ?」という。「だいじょうぶです、ありがとうございます」と答えるが、ミスター・ブラウンがフォークにチキンを刺し、こちらに手渡してくれるので食べないわけにはいかなくなる。

まず勝本氏が食べる。「あちっち」と勝本氏、落としそうになる。次に僕に手渡される。ミスター・ブラウンじきじき手渡しのチキンをじっくり味わう。しかも、テーブルの一番向こう側までミスター・ブラウンはわざわざ歩いてチキンを持っていったのだ。もちろん、その彼は大感激だ。

「どうだ?」 「ありがとうございます。とてもおいしいです」 「そうか、じゃあ、君はこんな曲が書けるんじゃないか。 I ate chicken with James Brown(オレはジェームス・ブラウンとチキンを食べた)」 「オオ、イエ~。アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン。いいタイトルですね」 僕がそのタイトルを2-3度繰り返して言う。 「う~む、I ate chicken with James Brown, Papa's got a brand new bag, おおお、メイクセンスするな」とミスター・ブラウン、ご満悦。この並びがなんでメイクセンス(理に適う)なのか、どうも英語力の乏しい僕にはよくわからないのだが・・・。(おそらく英語ができてもわからないのだろう) でも、きっとミスター・ブラウンの中ではメイクセンスしているのだ。

ジェームス・ブラウンの曲のタイトルは、ちょっと日本人にはわかりにくいタイトルが多い。直訳しても意味不明な作品もある。おそらくアフリカン・アメリカンにとってはよく使われるスラングなどで直感的にわかるのだろうが、われわれ外国人には意味が辞書にでていないために理解不能なものもあるのだ。またミスター・ブラウンがストリートの言葉をたくさん使っているためにわれわれにはなかなかわからないものもあるのだと思う。それはさておきミスター・ブラウンが曲のタイトルを決める時ってこんな風に決めるのかな、とふと感じた。ミスター・ブラウンも2-3度「I ate chicken with James Brown, Papa's got a brand new bag」と言うと、それだけで、レストランでさえもソウル・ジェネラルがダダダッダと演奏を始めそうな空気になった。

「ミスター・ブラウンとディナーを食べたよ」と友人に自慢気に話すと「何、食べたの?」と返ってきた。「僕はミスター・ブラウンとチキンを食べたよ」。彼は一言言った。「それこそ、ほんとのファンキー・チキンだな」

ENT>MUSIC>INT>BROWN, JAMES

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2003/10/07 (Tue)
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)

御言葉。

ミスター・ブラウンの独演会は続く。しばらく前にサウスキャロライナ州に大きな自宅を購入したという。そこでミスター・ブラウンとトミー・レイの結婚式が行われた。トミーが言う。「大々的に結婚式をやったの。3-400人は招待客が来たかしら。もっとも招待状を持ってない人も、どういうわけか、やってきたみたいなんだけどね(笑)」  2001年12月のことだ。

そこで、またまたミスター・ブラウンは勝本氏に「結婚はどうした」と尋ねる。たまたま勝本氏は「3度目の離婚をした」と答える。「おお、そうか。じゃあ、なんだ、前回会ったときのワイフはいないのか」 勝本氏、テレながら「ええ」 そして、勝本氏が僕にこう耳元でささやく。「ブラウンに、あなたの真似をしてるんです、って言ってくれ」 「えええ? どう訳せばいいんだ(笑)  う~~ん、わかった」 

僕はミスター・ブラウンにこう伝えた。「彼は3度結婚し、3度離婚した。あなたの後を追ってると言ってます。(He said he follows you)」「なに、He follows me?  (爆笑)」 そして、横のトミーと社長に、その話を伝えて、また、連中が大笑いとなる。そして、ミスター・ブラウンはまじまじと勝本氏の顔を見つめる。

そして、ひじをついて左手に持っていたフォークを振りながら、こう言った。ミスター・ブラウンはレフティー(左利き)なのだ。 「オレの母方にはインディアンの血が流れている。そして、父方にはオリエンタルの血が流れている」  

実はこの時の「Oriental」という言葉の発音が何度聞いても聞き取れなく苦労した。そして、そこから導かれる結論はこうだ。「いいか、だからなんだ、そういう血筋があるから、オレは頭が全然禿げないんだ」 そういって人差し指で自らの頭を指す。たしかに頭はふさふさだ。「そうかあ、じゃあ、かつらじゃないんだ~~」と心の中でつぶやいた。間違ってもそんなことは口にはだせない。う~~ん、メイクセンスしているといえばしているし、していないかもしれない。だが、ミスター・ブラウンが「オリエンタルは禿げない」と言えば、そうなのである。「神の言葉」だから。(日本人にも髪の毛が薄くなっている人はたくさんいるのだが、そんなことは到底言えない)

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ID。

食事が一段落したところで、僕はミスター・ブラウンに尋ねた。「ミスター・ブラウン、実はお願いがあるんですが。ラジオ番組用のIDをいただきたいんですが」 「もちろん、いいとも」 「ありがとうございます」 すぐに僕はしゃべってもらう言葉を紙に大きい字で書いた。それでも字は見づらいらしく、番組名などをもう一度口頭で伝えた。ミスター・ブラウンはいくつかヴァリエーションを作ってやってくれた。感激だ。それだけでなく、横のトミー・レイにも同じことをやらせた。さらにちょうどそこにやってきていたミスター・ブラウンの息子ダリル・ブラウン(ギター)とドラムスのロバート・マウシー(Robert “Mousey” Thompson)にも同じようにやれ、と指示を出す。このIDには、コーヒーハウスの喧騒の音も入っている。まあ、これも雰囲気ものだ。「ソウル・ブレンズ」用、「フィールン・ソウル」用などをとった。

周りの連中がミスター・ブラウンと写真をとり始めた。機嫌よくカメラに収まる。最近はみな携帯電話でも写真をとれるようになったので、携帯を取り出す者も多い。かく言う僕も携帯でしっかりツーショットをとってもらった。だが、この時とったモードでは待ち受けにできない。まだ使い方をしっかり把握していないのだ。残念。

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2日連続。

さて10月2日に続いて、3日もまったく同じように同じカフェでほぼ同じ時間に同じようなメンバーで食事とあいなった。4人の席次も同じだ。トミー、ブラウン、勝本、僕。

前日にデジカメで写真をとった勝本氏の友人がいて、その人がはやくもプリントアウトした写真を持ってきていた。1枚はミスター・ブラウンと勝本氏、もう1枚はミスター・ブラウンと僕の写真だ。きれいにとれている。ミスター・ブラウンが言う。「これと同じ写真を2枚ずつ大きく引き伸ばしてくれないか。うちに飾るんだ」といいながら、これくらい、と腕で大きさを示す。

そして、思わぬ展開となった。その普通サイズの2枚の写真をまざまざと見てミスター・ブラウンは、僕たちに言った。「この写真に、君たちのサインをくれ」 「おおおおっ」 思わず、勝本氏と顔を見合わせる。「マジカヨ」という表情。サインをくれ、と言われて、サインをしないわけにはいかない。なぜなら神の言葉だからだ。マジックでさらさらとサインをした。「To Mr. Brown...」 えらいこっちゃ。

この日のミスター・ブラウンのメニューはビールとチーズ盛り合わせと魚介のフリッターのようなものだった。ミスター・ブラウンは塩胡椒が大好きということが判明した。ビールにまで胡椒をばんばん振っていた。ビールにまで!

「ミスター・ブラウン、前回の来日よりおやせになったようですが」と僕は尋ねた。トミー・ブラウンが答える。「数ヶ月前とても体調が悪くてね。バリウムで浣腸をしたの。ただちに20ポンド(約9キロ)体重が減り、それ以来非常に健康になったの」と言う。プログラムに映っている昔の写真と比べて、「この頃よりあごのところがやせているだろ」とミスター・ブラウンは言う。なるほど、そうだったのか。やはり、今回の来日は前回よりやせた印象があった。しかし、動きなどを見る限り非常に健康のようだ。

ちょうど、プログラムがでたところで、映画 『ゲロッパ』 の話になった。「ミスター・ブラウン、映画 『ゲロッパ』 (Get Up)はごらんになりましたか?」 「いいや。なんだ、それ?」 「ミスター・ブラウンにまつわる映画なんですが。あなたが『ミソッパ』と言ってCMをやられていた映画です」 「わからんなあ」 僕と勝本氏は小さな声で言う。「どうなってんだろう。知らないのかなあ」 そこで、僕はプログラムに印刷されている映画のCMページを見せて少し説明した。

(註:『ゲロッパ!』は2003年8月に公開された井筒和幸監督による映画。やくざの親分(西田敏行)が収監前になんとかジェームス・ブラウンのコンサートに行くという夢をかなえようとするコメディー映画。勝本氏は西田さんらに踊りの指導などをした)

「・・・そして、俳優の西田敏行が『セックス・マシーン』を歌うんです・・・」 「おお、そうか? 彼はシンガーか?」 「いいえ、俳優です」 勝本氏「最初は西田さんで撮影したんですが、どうしても足の部分をミスター・ブラウンのように動かせないんで、結局、僕が吹き替えでやったんです」 「おお、そうか」とミスター・ブラウン、満面の笑み。ジェームス・ブラウンといえば、あの華麗な足さばきを見ずして語るなかれ、である。

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アポロ。

しばし雑談があり、ミスター・ブラウンが来る11月にアポロに登場する話を聞きたかった。「ミスター・ブラウン、あなたは来る11月にニューヨークのアポロ劇場に登場しますね。アポロでやるということはあなたにとって、特別な意味があることですか」 「もちろんだ。アポロがあるところは、かつては貧しい人たちが住んでいた。オレはそこに行って演奏した。彼ら、貧しい人々のためにな。だから特別(な場所)だ。今、オレがこうしていられるのも、神のご加護があったからだ」

なんだか、アポロのジェームス・ブラウンが無性に見たくなってきた。ミスター・ブラウンは、依然日本列島縦断中である。

(このときはこのあと、名古屋と札幌でのライヴを敢行した。そして、これに続いて2006年3月、ミスター・ブラウンは来日するが、それが最後の来日となってしまう)

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追記:

このアポロでのライヴは、2003年11月21日と22日に行われた。ジェームス・ブラウンが初めてアポロでのライヴを録音したのが1962年、これは紆余曲折あり1963年全米リリースされ、アメリカ・ソウル・ミュージック史上未曽有のベスト・セラーとなった。ソウルのライヴ・アルバムがここまでベスト・セラーになったことはのちのソウル関係のアルバム、ライヴ・アルバムのリリースへ大きな影響を与えることになった。ちょうど2003年はその『ライヴ・アット・ジ・アポロ』がリリースされてちょうど40周年にあたった。ミスター・ブラウンはアポロでのライヴを1963年以降、1968年、1971年、1995年と計4回録音している。

ENT>MUSIC>INT>BROWN, JAME

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