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〇『ディスコの日』DJリレー~マクファーデン&ホワイトヘッド~「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」物語~テキスト全文+関連ビデオ集

〇『ディスコの日』DJリレー~マクファーデン&ホワイトヘッド~「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」物語

【McFadden & Whitehead Story On Disco Day DJ Relay Event】

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(本作・本文は約10000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字で読むと、およそ20分から10分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと33分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

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〇『ディスコの日』DJリレー~マクファーデン&ホワイトヘッド~「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」物語

【McFadden & Whitehead Story On Disco Day DJ Relay Event】

物語。

2021年7月22日、今年は国民の休日にもなった「ディスコの日」に10時間超で行われたDJリレー。その中で、吉岡正晴は「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」誕生秘話とマクファーデン&ホワイトヘッド物語をお送りした。

本当はこれを全部覚えてのぞもうと思ったが、この内容が決まったのが前々日で、なかなか準備がとれず、結局かなりの部分を読んでしまった。

当初書いた台本では時間が大幅に伸びるので、何度かやり直して、時間調整して本番のスタイルになった。その台本をそのままご紹介しよう。当日、ごらんになれなかった方はこちらでお楽しみください。なお、アーカイヴでまだこれが視聴できるので、実際の物を見たい方はぜひ、こちらで。


https://twitcasting.tv/c:djosshyofficial

https://twitcasting.tv/c:djosshyofficial/shopcart/81784


ディスコの日、吉岡正晴登場部分
2021.07.22 生配信 台本 Ver3.0
~ディスコ・アンセム「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」誕生秘話とマクファーデン&ホワイトヘッド物語~

0:00:00
TM Disco Inferno [Special Disco Searchin Theme] – Trammps

あいさつ
オッシーからの紹介、オープニングトーク(3~5分)

0:05:00

今日は、ディスコ・ファンのみなさんでしたら、誰でもご存じ、ディスコ・アンセムともなっている1979年のマクファーデン&ホワイトヘッドの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」の誕生秘話と、マクファーデン&ホワイトヘッドの二人について紹介しようと思います。これは、僕がジョンから1988年3月に直接きいた話をもとにしています。この「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」には、そんなストーリーがあったんだと、思い起こしていただければ幸いです。


1.オーティス・レディングのライヴに衝撃を受けて

今日の物語の主人公はジーン・マクファーデンとジョン・ホワイトヘッドの二人。2人ともアメリカ・東部ペンシルヴェニア州フィラデルフィアに育ったフィリーっ子です。ジーンは1949年(昭和24年うしどし)1月28日サウスキャロライナ州生まれ、ジョンは1948年(昭和23年ねずみどし)7月10日フィラデルフィア生まれ。日本的に言えば同級生です。(今、生きていれば、72歳、73歳) ジーンは家族でまもなく東部の田舎町から大都市フィラデルフィアに移住。ここで二人は知り合います。2人とも同じ学校に通い、住んでいる所も同じ団地アパート。毎日一緒に学校に行き、帰りも一緒というほどの仲良し、大親友でした。

1965年のある日、彼らが16-17歳のころ、この街に当時の大スターで彼らも大ファンだったオーティス・レディングがやってくることになりました。地元の名門劇場、アップタウン・シアターに出ると言うことで、その情報を聞きつけたジョンがジーンを誘って、「なあ、ジーン、学校サボって、オーティスを見に行こうぜ」と声をかけ、もちろん、ジーンも二つ返事で、2人で学校をさぼってオーティスを見に行きました。その頃は、昼の1時から一日4回もショーがあったのです。

そのライヴは、ものすごいものでした。若い彼らにとってはほとんど初めての本格的なライヴ。そのすべてに衝撃を受けました。すると、ジーンが「絶対、オーティスに会いに行く」というので、2人で楽屋に向かいます。

すると入口にマネージャーみたいな人がいて、ジョンたちが「おれたち、オーティスの大ファンなんです、一目でいいからオーティスさんに会わせてください」っていうと、わりとかんたんに「わかった、会わせてやろう」ということになったんです。まあ、当時は今みたいに楽屋の前に屈強なセキュリティーがいて、バックステージパスがないと絶対にはいれない、なんてことはなかった、のんびりした時代だったんですね。

それでオーティスの楽屋に行くと、彼らはあこがれの大スターに会えただけで大感激。ジョンが勇気を振り絞って、「ミスター、オーティス、僕たちの歌を聴いてもらえますか?」と頼み込む。すると、オーティス、「ああ、いいよ」と返事をします。彼らはすでに4人組のヴォーカル・グループ、エプシロンズをやってて、あわてて残り二人を家まで呼びに行って、また戻ってきました。

そして、彼らは、オーティスの前でもちろんアカペラで歌います。最初「ダニー・ボーイ」というスタンダードを歌うんですが、どうも、オーティスの反応がよくない。

Mahalia Jackson – Danny Boy

 
https://www.youtube.com/watch?v=vn6Bcw7RFbY

そこで、ジョンが「ミスター・オーティス、ジーンは本当はあなたみたいに歌えるんです」といって、ジーンのリードでオーティスの持ち歌「ペイン・イン・マイ・ハート」を歌ってみせるのです。

Otis Redding – Pain In My Heart


https://www.youtube.com/watch?v=158fwCG27zE

すると、オーティスがめちゃくちゃびっくりして、「これは、すばらしい」と感動してくれたんです。そして、なんと彼らがまったく予期せぬ言葉がオーティスの口からでてきました。「お前たち、すばらしいな、お前たちを俺がマネージしてスターにしたい」と。

ジョンとジーンは、もちろん、びっくりするんですが、オーティス曰く、「10日ほど、ここアップタウン・シアターに出てるから、それが終わったら、一緒にツアーに行こう、だから準備をしておけ」というのです。

こうして彼らは、オーティスの前座グループ、エプシロンズとして全米中を回り、彼らは人前で歌うことの喜びを覚えます。ときには1万人を超える観衆の前で歌ったこともありました。

The Epsilons – The Echo


https://www.youtube.com/watch?v=27stWJKV9RE
(ただし、これは彼らがオーティスと別れたあとのレコード、1968年リリースのもの)

それから約2年、彼らが18歳になると、徴兵がまっていました。この頃はヴェトナム戦争が泥沼化する頃で、多くの若者が徴兵されていました。また2年近く故郷を離れていたので、彼らはホームシックにもなり、一度、1967年のサンクスギヴィングの前、11月末に故郷に帰ることになります。ジョンとジーンは久しぶりにフィラデルフィアに戻ってきました。

ベトナム戦争

(ベトナム戦争=イメージ映像)

オーティス・レディング モノクロ


(オーティス・レディング)

ちょうどその頃、オーティスは買ったばかりの小型自家用飛行機でツアーを回っていましたが、彼らが帰郷して3週間もしないうちに、ニュースが飛び込んできました。なんと、オーティス・レディング一行が乗ったその自家用飛行機がウィスコンシン州マディソンで、飛行場まであと5分というところで墜落したのです。オーティスはほぼ即死でした。1967年12月10日のことでした。

ジョン・ホワイトヘッドはインタヴューで、そのことをはなすときにはちょっとしんみりして。こう言いました。

「もう少し長く、俺たちがオーティスのところにいたら、俺たちもまちがいなくその飛行機に乗っていた。だからそこで俺たちの人生は終わってた。だが俺たちは乗らずに、第二の人生をもらったんだ」 彼らは本当に九死に一生を得たわけです。

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2.フィラデルフィア・インターナショナルでアルバイト

さてフィラデルフィアに戻った2人は、1971年、現地で産声をあげたケニー・ギャンブルとリオン・ハフが立ち上げた新興のレコード会社、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードの倉庫で雑用のアルバイトをするようになりました。ちょっとした合間にギャンブル&ハフたちが曲作りする様子を見ることになります。

PIR 外観


(PIR外観)

ジョンとジーンは同じ公団住宅、15階にジーン、4階にジョンが住んでいて、いつも行き来していました。あるとき、ジョンが言いました。

「なあ、ギャンブルたちの曲作りを見てるが、あんな簡単なの、おれたちにもできるぜ。だって適当な単語をみつけて、それでちゃちゃっとメロディーを付けてるだけだろう? 俺たちも曲作りしてみよう」ということになりました。

そのリオン・ハフは彼らにこんなことを言ってました。「最高にいいタイトルはワンワードのタイトルだ。なぜなら、すぐに覚えられるから」

そこでそこらへんにある紙切れに、ジョンの友人が浮気をされた話を思い出し、歌詞を書き始めました。

「Smiling in your face, all the time they wanna take your place, 微笑みながら、お前の座を奪い取ろうとしているやつがいる。うん、なかなかいい」
「なあ、これ、あしたリオンたちに聞かせよう」
「そうしようそうしよう」

そして翌日、この歌詞を書いた紙きれをポケットに忍び込ませ、ジョンはリオンがやってくるのを待ちました。リオンがやってきて、ジョンが言った。

「ミスター・ハフ、昨日一曲書いたんです、聞いていただけませんか」
 「ほお、そうか、それは強力な曲か」
 「はい」 
「じゃあ、ちょっと見せてもらおうか」というとジョンはあわてて別の階にいたジーンを呼びにいきました。そしてリオンはピアノの前に座り、ピアノをぽろぽろ弾きながら、この歌詞を読み上げたんです。もうすでにメロディーがついていました。ジョン達は、自分たちの歌詞にメロディーがついて、曲が生まれていく様を目の当たりにして、大感激したのです。それが Backstabbers でした。オージェイズの「バックスタバーズ、裏切り者のテーマ」。

M01 BACKSTABBERS 2:53 O’Jays

https://www.youtube.com/watch?v=UCY6flzgfA4

これはオージェイズの歌で1972年夏から秋にかけて大ヒット。オージェイズにとってだけでなく、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードにとっても、ジョンとジーンにとっても、初めて書いた曲が最初のミリオン・セラー、ゴールド・ディスクとなったのです。フィラデルフィア・サウンドが大きなブームとなる、その火付け役となった1曲でした。以後、彼らは次々と曲を書くようになります。

そんな中で、やはり大ヒットとなったのがこれです。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツ、フィーチャリング、テディー・ペンダーグラスの「ウェイク・アップ・エヴリバディ―」

M02 WAKE UP EVERYBODY – 3:13 HAROLD MELVIN & THE BLUE NOTES FEATURING TEDDY PENDERGRASS

https://www.youtube.com/watch?v=axmBtBOlbVU

5人の真ん中でマイクを持つのがテディー・ペンダーグラス。

のちにジョン・レジェンドなどもカヴァーした1975年の大ヒット「ウェイク・アップ・エヴリバディ―」

彼らは、フィラデルフィア・インター関連のアーティストに多数の曲を提供、そして、それがことごとく大ヒットしていくようになります。

ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ=バッドラック、


https://www.youtube.com/watch?v=uMOEabbiltQ

イントゥルーダーズ=アイル・オールウェイズ・ラヴ・マイ・ママ


https://www.youtube.com/watch?v=24rCQnK2oBE

アーチ―・ベル&ザ・ドレルス=レッツ・グルーヴ


https://www.youtube.com/watch?v=39q7bWC6uN4

メルバ・ムーア=ピック・ミー・アップ、アイルダンスなどです。


https://www.youtube.com/watch?v=m9QMApyhZSY

メルバ・ムーアの所属事務所、ハッシュ・プロダクションとは以後も密接な関係をもつことになりました。

3.自身で再度ステージに

そして、彼らがこうして裏方としてたくさんのヒットを放つようになると、自分たちがかつてオーティスの前座でやっていたように、ステージに立って、歌って、踊りたいという気持ちが大きくなっていきます。

そこで彼らは意を決して、ギャンブル&ハフに、自分たちがまた自分たちの曲を録音して、ヒットをだしたいんだ、と直訴します。ところが彼らは、「お前たちは、これだけ曲を書いて、これだけヒットが出て、どんどんお金もはいってくる、それでいいじゃないか、何が文句があるのか」と言って、きいてくれません。

たしかに、他のアーティストのヒットはたくさん作ってきましたが、それらは自分たちがステージでやる曲ではありません。そこで何度も却下されながら、しつこく直訴していると、ついに彼らも折れて、「わかった、じゃあまず一曲作ってこい、それがよければ何かアルバムでも作らせてやろう」ということになりました。

こうして彼らはこんどは自分たち用の曲を書くことになりました。

歌詞を書きます。

「いろんなことがあった、俺たちをおちこませること、でも、もう流れは変わったんだ。やっとの思いでここまできた、もう俺たちを引き戻すものはなにもない、俺たち自身を磨いて、もう下積みはたくさんだ。いまや、何物も俺たちを止めることはできない、Ain’t No Stoppin Us Now 」


つまり、裏方でいいと言われ続けた彼らが、ついに自分たちで自分たちの曲を作り、歌う、その願いがかなったのが、この曲なのです。だから、この曲はものすごくエネルギーがあり、熱いパッションがあります。彼らの叫びがあります。聞いていると、それだけでやる気が起こる、元気になる、そんな曲です。

ではおききください。

M03 Ain’t No Stoppin Us Now 3:33 – McFadden & Whitehead


https://www.youtube.com/watch?v=VgYczUH-QWQ

(向かって右で激しく踊って歌っているのがジョン・ホワイトヘッド。左がジーン・マクファーデン。バックの女性コーラスは、スイートハーツ・オブ・シグマ)

(Long Version)


https://www.youtube.com/watch?v=ZVBDN_IYHCU

この曲はディスコ、ブラック・ラジオ、そして、ついにトップ40でも大ヒット、ビルボードホット100で13位まで行き、ミリオン・セラーを記録。ニューヨークの人気ラジオ局WBLSはこれをこの局の「アワ・ナショナル・アンセム」としてヘヴィー・ローテーションでかけ続けました。そして、この曲の余りのヒットぶりに、ご当地フィラデルフィアイーグルス・ヴァージョン、ラップのジョッコのヴァージョン、さらにはスペイン語版まで作られました。

1979 McFadden and Whitehead - Ain't No Stoppin' Us Now (The Philadelphia Eagles Version)


https://www.youtube.com/watch?v=94zE26DRtD4

Jocko Henderson - Rhythm Talk (Ain't No Stoppin' Us Now) (Rap Version)


https://www.youtube.com/watch?v=iqQ6uhAV8ig

Ain't No Stopping Us Now (en Español) (12" Version) - Charanga 76


https://www.youtube.com/watch?v=p0h8l0Rs7us

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これは、本編では紹介しませんでしたが、こんなのもできてました。(オマケ)知らなかった。(笑)

【ikzo】Ain't No Stoppin' Us Now ft.Ikzo 【吉幾三】


https://www.youtube.com/watch?v=I55CBoHWBCQ

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4.再度九死に一生を得る


マクファーデン&ホワイトヘッドのこれは1979年3月にでましたが、レコードがでて、プロモーションで彼らはあちこちのラジオ局やメディアのインタヴューをうけることになりました。

そんな1979年5月25日、シカゴでプロモーションをしていたときです。最後の最後で、もう一本取材が増えて、その結果その日にLAに移動する予定を翌日にずらすことにして、飛行機も翌日の便に変更したのです。(これがまた、運命の分かれ道。) 

彼らがもともと乗る予定だった25日午後発のアメリカン・エアライン191便はシカゴ・オヘア空港離陸直後、墜落、乗員乗客271人と地上で巻き込まれた2人が死亡するというテロを除く単独、米国飛行機事故史上最大の犠牲者を産む大惨事となったのです。もちろん、ここにジョンとジーンが乗っていれば、一貫の終わりでした。彼らは、オーティスの飛行機事故も逃れ、そして、このときも九死に一生を得ることになったのです。なんという強運の持ち主でしょう。

さて、彼らはそんな強運の持ち主でしたが、ジョンはソングライター、プロデューサーとして次々ヒットを放ち、3カ月ごとに届く小切手がどんどんと大きくなっていくと、まわりのものを高価のもので揃えたり、高級車を買ったり、しまいには家を買ったり、浪費していきました。ところが、彼には税金を納めるという概念がなかったのです。10年以上にわたり膨大な収入が入ってきた彼は、一度も納税することなく、ついに国税庁、IRSから目をつけられ、脱税の罪で起訴され、有罪となり、刑務所入りすることになったのです。

なんということでしょう。極貧の生活からヒットが出て、欲しいものがなんでも買え、2度も九死に一生を得て、自由を謳歌していたものが、刑務所入りです。しかし、彼はその刑務所の中で自分自身を見つめ直すことになるのです。

彼はこう僕に言いました。

「すべてのペースをスローダウンすることができた。自分自身の人生を振り返ることになった。そして何より、この間にソウル・サーチンをする時間を持てたんだ」と。

このとき、僕は初めてソウル・サーチンという言葉を知りました。1988年3月、今から33年前ですね。以来、僕はこのソウル・サーチンと言う言葉に大変感銘を受け、僕自身のテーマにするようにしました。

そして、ジョンは1986年、約18か月の刑期を終え、刑務所からでてくることになります。このとき、彼が刑務所にいたときにひんぱんに面会に来てくれていたのが、チャールズ・ハギンズというニューヨークのハッシュ・プロダクションの社長でした。彼とは、1978年、メルバ・ムーアをプロデュースしたときに知り合いました。チャールズは面会に来てくれたとき、「君がムショからでてきたら、僕は君のためのホームをつくっておくから」とジョンに言いました。そして、彼のために、メジャー・レーベルとのソロ契約を取ってくれました。

ジョンはチャールズの言葉に感激します。そして言います。

「自分自身を信じることは大事だ、だが、他の人間に自分のことを信じさせることはもっと重要だ」

ジョンは刑務所に18か月いても、未納の税金は減っていません。利息がついていくからです。100万ドル以上の負債が残っていて、すこしずつ返さなければなりません。そこで、彼のソロ・アルバムのタイトルは、『アイ・ニード・マネー・バッド』、俺には本当に金が要るんだよ、というものになりました。おききください。

M04 I Need Money Bad 4:08 – John Whitehead

 
https://www.youtube.com/watch?v=GaLF4TX90zg

これは1988年4月に全米で出て、スマッシュヒットしましたが、100万ドルを返せるほどのヒットにはなりませんでした。

一方、歴史に残る「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」は、ルーサーがカヴァーしたり、ヒップホップのアーティストがサンプリングしたりして、若干の印税が発生し、返済の一部に充てました。

Luther Vandross - Ain't No Stoppin' Us Now (Live from Royal Albert Hall)


https://www.youtube.com/watch?v=ZZQqteC-E6U

Ain't No Stoppin' Us Now -Big Daddy Kane


https://www.youtube.com/watch?v=cUeSDQurtv0

Biz Markie - Let Me Turn You On 


https://www.youtube.com/watch?v=osR3ION8d30

また、ジョンの息子たち、ケニーとジョンは、ホワイトヘッド・ブラザースとして1986年と1994年にアルバムをだしました。

Whitehead Bros. - Sex On The Beach | Official Video


https://www.youtube.com/watch?v=xGbK0Wonius

5.エピローグ

その後、ジョンとジーンはどうなったか。

ジョンは2004年5月11日、自宅前に置いた車のところにいるところを、暴漢に銃撃され死去。55歳。(July 10, 1948 – May 11, 2004) どうもドラッグ絡みの人違いで殺されたらしいのですが、犯人はみつかっていません。

そして、相棒のジーン・マクファーデンは、(January 28, 1949 – January 27, 2006) 彼の後を追うように、その1年半後、肝臓がんが肺へ転移、56歳で亡くなりました。きっと、彼らは天国で、またマクファーデン&ホワイトヘッドを演じていることでしょう。なにしろ、彼らを止めるものはなんにもないのですから。Aint no stopping us/them now.


ソウル・サーチン=マクファーデン&ホワイトヘッド、エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ、物語、

ご清聴ありがとうございました。


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