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セルジオ・メンデス、83歳で死去~ブラジル音楽を世界に広めた功労者~1964年以来多数の来日の親日家

セルジオ・メンデス、83歳で死去~ブラジル音楽を世界に広めた功労者~1964年以来多数の来日の親日家
 
【Sergio Mendes Dies At 83】
 
訃報。
 
ブラジル音楽を世界に広めた功労者でもあるアーティスト、ミュージシャン、プロデューサー、セルジオ・メンデスが2024年9月5日現在居住しているアメリカ・ロスアンジェルスの病院で家族に見守られながら死去した。83歳だった。
 
セルジオ・メンデスとしては1964年初来日。グループ、ブラジル’66として1968年来日以降、多数の来日。最後の来日は2022年5月の「ラヴ・スプリーム」フェスとビルボードライブ各地でのライヴ。また最後のライヴは、2023年11月、パリ、ロンドン、バルセロナなどを回るツアーが最後のものとなった。
 
ここ数か月コロナに罹患し、その後遺症に悩まされていたという。
 
[New York Times]
Sergio Mendes, 83, Dies; Brought Brazilian Rhythms to the Pop Charts
Singer
Published Sept. 6, 2024
Updated Sept. 7, 2024, 1:49 a.m. ET [Japan time Sept 7, 14:49]

https://x.gd/0zv3M

 https://www.nytimes.com/2024/09/06/arts/music/sergio-mendes-dead.html

 
[Los Angeles Times]
Sérgio Mendes, Brazilian band leader who helped popularize bossa nova, dies at 83
By August Brown and Alexandra Del Rosario
Sept. 6, 2024 8:54 AM PT

https://x.gd/mnhaJC

https://www.latimes.com/entertainment-arts/music/story/2024-09-06/sergio-mendes-dead

 
[BBC]
Bossa nova legend Sérgio Mendes dies
Mark Savage
Sept. 6, 2024

 
Sérgio Mendes 1941年2月11日ー2024年9月5日, 83 year old
 
~~~
 
超巨星。
 
セルジオ・メンデスの突然の訃報には本当に驚いた。彼の音楽的、文化的貢献についてはすでに、またこれからも多方面から語られると思うので、ここではごく私的な思い出を書いてみたい。
 
セルジオ・メンデスの曲を初めて聞いたのは、おそらく、1960年代後半の日本の深夜放送だったと思う。もちろん、当時のラジオ番組では他でもかかっており、さらにFEN(極東米軍放送)でもかかっていた。それまでにブラジルの音楽など聴いたことがなかったので、実に新鮮だった。
 
その後、ブラジル66は、70年代中期になると、グループ名をブラジル77にし、さらに80年代ににはブラジル88としていたから、それはそれでおもしろかった。
 
僕にとっては人生における最大の運命の日、1983年8月5日(金)午前10時にエンシノのメンデス邸に行き、インタヴューできることになった。当時、A&Mレコーズの配給を日本のアルファ・レコーズが担うことになり、そのアルファがロス支局を開局、そこに同社洋楽部の堅田さんという人物が常駐することになった。日本のアルファ経由でセルジオ・メンデスへのインタヴューをオファーすると、その堅田さんがLAでのすべてを取り仕切ってくれて、A&Mスタジオの訪問や他のA&Mアーティストのインタヴューを次々とセッティングしてくれた。当時すでにデビュー作を出していたジャネット・ジャクソンのインタヴューも設定してくれて、ジャネットへの日本人初のインタヴューもできた。
 
当日は堅田さんが運転する車で、メンデス邸に行き、その瀟洒な豪邸に着いた。朝10時というセッティングが早かったせいかメンデスは最初ガウン姿で登場、挨拶をするとすぐに着替えて出直してくれた。
 
インタヴュー自体は、ちょうど、全米で(LAでももちろん)「ネヴァー・ゴナ・レッチュー・ゴー」が大ヒットしていたので、そのアルバムの話から始まった。小一時間くらいだったが、終始きげんよく的確に答えてくれた。そのインタヴューの文字起こし原稿が残っていたので40年以上ぶりに読み返したが、200字詰めで50枚程度、これを元にした原稿があったので、雑誌かどこかに書いたのかもしれない。
 
インタヴューの起こし原稿を読んでいたら、(ここで堅田氏に電話はいる)とあり、なるほど、当時は携帯もないので、彼がメンデス邸にいるので、そこに電話がかかってきたようだ。
 
そのインタヴューで古巣A&Mに戻った経緯、そのきっかけとなったデモ・テープを自費で作ったこと、正式に契約後、「ネヴァー・ゴナ・レッチュー・ゴー」を見つけ、録音したことなどを話してくれている。
 
この曲は一足先にディオンヌ・ワーウィックが録音していて、セルジオのヴァージョンは後発だったが、見事ヒットしたのは、セルジオたちのヴァージョンだった。セルジオのものは、ジョー・ピズゥーロとリザ・ミラーをフィーチャーして、ブラック・チャートで28位、ポップで4位を記録した。
 
Dionne Warwick Never Gonna Let You Go

 
Sergio Mendes : Never Gonna Let You Go

 
そこで、僕は彼に「なぜディオンヌのものはヒットしないで、セルジオ・メンデスのものがヒットしたと思いますか?」と尋ねた。
 
すると、彼はしばらく考えてから「わからないな。たぶん、私は私なりの解釈でこの曲をやり、私のテイストでこの曲をアレンジしたからかもしれない。私の場合、過去にもそういうことがあった。ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」もビートルズはヒットさせなかった。「スカボロー・フェア」もサイモン&ガーファンクルはヒットさせていない。「マシュケナダ」もそうだ。でもその理由はわかりません。ただ満足できる作品を作ることと、その曲がヒットするかどうかは別問題だ。正しい曲が正しいタイミングでプロモートされればヒットするが、タイミングが外れればいい曲でもヒットはしません。私はこの曲をやるとき、男女のデュエットでやってみようというアイデアがあったので、(もともと知っていた)彼らを起用してデュエットにしたのです」と答えた。
 
また、このアルバムはそれまでの作品(エレクトラからでたものなど)と比べると、雰囲気が違っていたのでその点を尋ねた。すると彼はこう答えた。
 
「私は音楽はいつでも変わっていくものだと考えている。その時代時代の流れであのサウンド、このサウンドへと変わる。私は過去のものを聴いて懐かしむというよりむしろ前進して前向きに変化していきたい。だから私の作るどのアルバムも常に前のアルバムとは違ったものを作ろうとしている」
 
その言葉通り、セルジオ・メンデスはその後もヒップホップ・アーティストたちとコラボレートしたりして、常に新しいサウンドにチャレンジしてきた。
 
そしてこのインタヴューの模様などは、彼が翌年1984年9月に日本全国ツアー(7本)をすることになり、そのときのパンフレットに原稿などの形で掲載された。
 
そのパンフの雰囲気がこちらのセルジオ・メンデスの超詳しいホームページにあった。
 

 
セルジオ・メンデス専門サイト

 
インタヴューは日本のことなどにも触れつつ無事終了。堅田さんが僕を滞在先まで送ってくれ、僕はそこから自分で借りていたレンタカーに乗り換え、次のインタヴューの住所へ向かうことにした。次のインタヴューは同じエンシノ地区のヘイヴンハースト通りにある邸宅で、午後1時の予定だったので時間的には余裕があった。
 
そして、その午後のインタヴュー先で、なんと僕はセルジオに再度会うことになったのだ。まったく予期せぬ再会となった。
 
(この項、続くかも)
 


左からマーロン、セルジオ・メンデス、ジャネット、マイケル (1983年8月5日
エンシノ、マイケル邸で)


写真
 
 
■セルジオ・メンデス過去関連記事
 
セルジオ・メンデス・ライヴ
2008年02月15日(金)

 
2004/08/25 (Wed)
Sergio Mendes: Brazilian Night

2004年8月のライヴ評。
 
 
OBITUARY>Mendes, Sergio 2/11/1941 – 9/5/2024, 83 year old



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