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いつも恥知らずでいたいな

エベレスト食肉センターです。

noteは気楽に書く、出来が良くなくてもつまんなくても、と言ってきたのになんとなく下書きにしまい込む癖がついて、その結果全然更新しなくなった。わかってたのに結局そうなる……

ということで今日は雑に更新したい。
ゲームの話はしません、あれは気合い要るんで。

近況のA面

日々は忙しいとしか言いようがなく、かつ、仕事で忙殺されているんだよなんてくだらないことは書きたくもないし人に話したくもなかった。
なんとなく手広くやれるようになってきた、近々なんか報告できると思う、みなさんのおかげです(これは本当に)、でもそんなつまんない近況書いて……で?と思う。いや感謝はあるんだけど。

読んでおもしろい文章って、恥を捨てて書いた文章だと思う。
嬉しかったことでもいいし、悲しかったことでもいいし、辛かったことでも不満だったことでもよくて、あとから恥ずかしくてうわーってなるような……そういうやつだ。強い感情だけがこの世でおもしろいものだと思う。

だからね、お礼やら、仕事が忙しいアピールやら、そんなものを時間割いて読ませてもしかたないんだよ。だから書くことがなかった。

近況のB面

実際問題、近況は落ち着いてると思う。
仕事はすれば終わるし、仕事において一番大切なことは終わらせることだと思う、常に締切に命を握られている。
プライベートもそこそこ。最近ちょっと楽しい趣味を見つけたとは思う。

ただなんとなく、漠然と、パワー不足を感じる。
書きたい!っていうパワーの不足というか……いや仕事ではどかすか書いてるんだけど、書くことでその景色を見たいという渇望が薄まりつつある。
僕は話を書くロボットだったので、以前は一日の中で食事をして寝ているとき以外は何かを書いて過ごした。それが一番楽しいことだったから。
それについて、僕のありかたについて、誰になんと思われてもどうでもよかった。生活構築する必要最低限の部分やありのままの僕に賛同する人間たちを除き、頭の中の世界以外のすべてが何も大切じゃなかったように思う。

これは恥を押して書くことだけど(だから面白いと思って書く)、最近ちょっと自分の中で揺らぎがある。

Twitterでちょっと書いたけど、最近好きな人間ができた。
最近の言い方で言うと推しになるし、ステージの上の人間なので『恋愛を頑張っている』というわけじゃないんだけど、それは脳の都合でしかなくて、心のほうは恋と同じ構造で動いているとはやはり思う。

推しと恋愛が同じなんだ!と言いきってしまうと四方八方から石が飛んできそうなんだけど、僕はやっぱり性欲のありなしで一旦定義していいかなと思っていて、僕はもともと性欲があんまりないので、それを抜きにしてしまうと心の動きだけならほぼ同じだなと思う。
性欲ないのが推し、あるのが恋愛?それもそれで石が飛んできそうだね……

僕は、人を愛することは、特別大事にすることだと思う。
他人の意見は知らないし興味もない。
だから大事なものがあるとき、それが無機物でも、存在しないキャラクターでも、別に他人の恋人でも、好きになることそのものは同列に尊いことで、何もマイナスなことではないと思うんだよね(行動に移してしまうと責任と結果が伴うことばかりだけど)。

結論何が言いたいかというと、大事な人間ができることで、若干自分の形が揺らいでいることを感じている。
これは四月の時点で下書きにぶちこんでしまった話なんだけど、一番の天使はあのときの僕にしか書けなかったし、正直言って二番の天使は今の僕じゃないと書けなかったと思う。

リゥリゥと一番の天使に共通することは、誰も特別にしないことだ。
僕はそれが(人としても)模範的な姿だと思う。だって誰も特別じゃなかったら、誰も嫌いになることはないし、差別することはないし、誰にでも優しくすることができる。それが一番優しい人間だと、僕は今でも思う。

でも二番の天使を書くときに、誰かを特別に思う気持ちが必要だった。
意外と人気が出た理由は(グラフィックとかを置いておくと)絶対にそこが理由のひとつにあると思う。
だからその気持ちを探してたし……結果、見つけることができて、それはとてもよかった。まだ言えてないけど新しく作ってる作品があって、それにも絶対に必要だったから割と大きめに助かっている。

まあでも、ものすごく気が散るんだよね。
僕の中の一番の娯楽が、僕の脳の中になくなってしまった。
意思の強さでPCに向かう、文章を書く、そういうことは責任としてできることだけど

血反吐吐きながら自分の脳内の解像度を上げる行為と――目をあけているだけで見られる現実の景色。
白い靄みたいな非実在をこねくりまわしてやっと生まれる愛しい気がする人格と――言葉をかければ自動で返事を返してくれる生きた人間。

どっちが好きとまで言わなくても、忙しい日々の中でどちらに『流れやすいか』は考えなくてもわかると思う。
僕は見たいものを見るためにわりと心血注いできたけど、自分の中で想像しなくても見たいものが見れるとなると……難しい部分はあるね。

創作者は相当数、愛で筆を折るよ。
なんかそういうことを忘れて、うっかりと、好きな人間を見つけてしまったことを5ミリくらい後悔する日もある。気が散る、本当に。
でも……誰かを大切にする気持ちは、誰かがいないと手に入らない。
それがとても難しい部分だと思う。

幸い単に推しなので、見に行かなければ見なくて済むし、LINEの返事をしろとかせっつかれるわけでもなく、毎週デートに行かなきゃいけないわけでもないのは良かったと思う。
まあ硬い意思がないと見に行っちゃうんだけど……まあ意思があればなんとか。あんまりないけど。まあ見かねるほどになったらやめられると思う。

僕は小説で初めて評価されたとき、
「君の眠れなかったすべての夜に乾杯」と言ってもらった。

無味乾燥な現実があったから、僕は現実よりも解像度の高い虚構を愛し続けることができたのかもしれないと思う。
だから現実が味を持ち出すのは、本当は困るんだよ。
僕が僕の頭の中にあること以外で一喜一憂する時間は全部無駄なのに。

僕の喜びも、悲しみも、本当は僕が管理していたいと思っているのに、
すぐ嬉しくなったり、たまに悲しくなったりもしちゃう。その気持ちが糧になると思うときもあるし、感情に割くリソースが無駄すぎて苦しくなるときもある。

それに不思議なもので、僕にとって今まで本物の無価値だった『他人の意見』とかがやたら響くようになった。

こうじゃないかな、と言われるとそうかも、と思うことがある。
今まで全部どうでもよかったのに、わかるよ、と言われただけで自分が正しかったのだと思うときもある。その逆もきっと今後あるんだと思う。
それが嬉しいときもあるし、とても怖いときもある。

専門家でもないただひとりの人間の言葉に、価値を感じることは間違いなく愚かなことだ。
でもそれが今僕に必要な、誰かを特別に思う気持ちなんだと思う。

……そんなこと言って、もうじき乗りこなしちゃうんだろうな。
人間はすごいもので、あらゆることに慣れてしまうから。

僕は荻野にも同じ気持ちになって、ああ僕が荻野に引っ張られたらダメだと思ったこともあるよ。本当に毎日一緒にいて、それで僕の抱えてる地獄が薄まるのが『普通に全然共同制作者としてダメなほうにいくな』と思ったことがあるから。荻野は僕のなかでとても特別だった(いや今でも特別だけど、一緒にいすぎて同じ生き物になっちゃいそうだったしね)。
でも本当はあのときのほうが楽しかったとは思う。

「ひとりでいるより、君といたほうが幸せ」というのは人間として素晴らしいことなのに、その嬉しさから永遠に逃れ続けなければいけないのが、苦しいね。

……まあでも、慣れてるからな。
だから、こんなことをわざわざnoteに書いて、僕の仕事なり、作品なり、存在なり、何かを楽しみにしてくれている人を心配させる意味もないと思う。
でもまあ、冒頭で書いた通り、恥ずかしくて書きたくないなあということをわざわざ書いた文章にしか価値はないから。

僕の書くことのすべてに、ちょっとでも意味があるといいと思う。
あと気楽にnoteは書きたい、習慣として意味のない文章を書くのはいいことだから。

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