ハガレン旧アニ備忘録

鋼の錬金術師の旧アニメを見ました。(以降「旧アニ」と記載)
初視聴かつ色々と印象に残ることが多かったので感想を書きます。
原作は読破済みですが、記憶が古いのでちょいちょい忘れています。
シャンバラは後日見ます。
そしてこれを読んでる人は初見ではないと思うので、すでに完走済みの方向けに前説明なしで話します。大目に見てください。

前提として、エドとウィンリィが結ばれる結末って最高!この世の全て!神様ありがとう!と思っていますが、だいぶ特定の男同士の関係に肩入れしている節があります。それも踏まえて大目に見てください。



原作とのテーマの違い

旧アニは原作の途中で制作されたものなので、最終回がどうなるかを知らないまま話が構成されていると事前に聞いていましたが、それはそれとしてひとつの作品として一本筋が通った非常に面白い作品だったと思います。
むしろその違いこそが作品の魅力だと思いました。
原作のテーマではこんなこと言えないだろうな……ということをキャラが言ってくれるのでオタク心が救われるシーンも多々ありました。
その上で何が違うのか? 印象に残った部分をピックアップして語ります。

錬金術とは罪である

旧アニによる錬金術の定義は「扉の向こう側にある世界からエネルギーを拝借することで実現する神秘的行為」であるとされていました。
絶対不変の真理、万物の根源を理解するための術といった、いわゆるアカデミックに属するものではなく、神秘の類いに近いのでしょう。
故に過ぎたるは人の文明を滅ぼすとされ、賢者の石はオーバーテクノロジーのオーパーツだとライラは語っていました。
一方で、扉の向こうの世界では「科学」がその役割を担っていました。そして過ぎた科学は戦争として人の世に蔓延り、毒をばら撒く。
全編を通して、「錬金術」やそれに類する力は、使い方を間違えると悪になると強烈なメッセージが感じ取れました。

そして、その悪の先には「犠牲を払えば報酬を得ることができる」という搾取する側の発想が垣間見えています。作中でライラが話していましたが、それはたしかに高次元(神)の視点なのでしょう。
しかし、「そんなもので人助けなんて言っていたのか」と自分の愚かさを嘲笑し、絶望したエドは、神になるのではなく、人として錬金術を捨てる選択肢を取りました。万能感に酔いしれることなく、地に足つけて自分の選択をする。この作品のキモですね。こういうオチになるのか〜と感心しました。


さらに、「錬金術」に類するこれらの力は等価交換などではないともされています。
「何かを代価に成果を得る」という一対一の物々交換だと思われていたものの裏では、扉の向こうの他者のエネルギーを消費するという行為があった。そして人体錬成が行われた裏では、ホムンクルスという化け物が生まれていた。
愛した人を蘇らせるどころか、生き物ですらない骸を作り上げてしまった――ここまでは原作にもあったことですが、旧アニではさらに自分の罪の証が、人を模した形のホムンクルスとして目の前に現れる。「ただ命が欲しい」という願いだけで。

これ、より錬金術師のエゴが極まる良い設定ですよね。
「人体錬成は禁忌である」が、間違いなく錬金術の極地であるため、真理を追求する過程で必ず目に入る領域なのではないかなと個人的に考えています。特に原作のエルリック兄弟はより無邪気なので、人体錬成に対しても好奇心の方が強かったのではないでしょうか。
「母親を蘇らせたかった」気持ちに偽りはないですが、毛嫌いしている父親ができなかったことを俺たちができたらすごいよな!の気持ちがゼロだったとは思えません。
なので遅かれ早かれ、きっかけがなんであれ、彼らは禁忌に触れてしまうのではないでしょうか?そういう素質を秘めている気がします。

しかし一方で、旧アニの兄弟にとっての人体錬成は「過ち」としての色が濃い気がします。ボタンを一つでも掛け違えていたら起こらなかった事故……みたいなニュアンスでしょうか。故に悲壮感の方が強く、消せない罪として彼らに刻まれている。(エンディング回収気持ちええ〜)

なので、旧アニの兄弟は、真実に辿り着くための旅をしているのではなく、人体錬成をしてしまった罪を償うための旅をしているという印象を受けました。
文字通り彼らの原初の目的である「身体を取り戻す旅」。
前に進む話ではなく、マイナスからゼロ地点に戻るための話。
全体的に諦めに似たなにかを感じるんですよね。錬金術は万能じゃないという考えから、人の望みは万事叶わないとばかりに、最初から高すぎる空を眺めてるような……色鮮やかな蜃気楼のような景色だと思いました。


長すぎる。すいませんがまだまだポエム続きます。


エルリック兄弟は子どもである

原作よりもエドとアルがずっとずっと未成熟で多感な子どもだと思いました。
そして、大人と子供の明確な線引きがあるなとも。
旧アニは、エルリック兄弟とそれを取り巻くさまざまな立場の大人の話と言っても差し支えないと思います。

原作のエドは強く、しなやかで、不屈の精神を備えた芯の通った人間でした。錬金術に精通し、弟と二人で真理に辿り着くことを目的としていたからかもしれません。
一方、旧アニではエドたちが素直に親を求める子どもだったからこそ禁忌を犯してしまったという前提で話が進みます。
特にアルの方が顕著に幼い。話の中でも、思い込みや独りよがりで暴走することが多かったと思います。
この「アルに頼れない」というのが原作との大きな違いで、両輪で走る車であったはずのエルリック兄弟は、アルの支えがないことで、エドが片輪でも倒れないよう誤魔化しながら動く歪な車になっていました。

また、エドもまた幼く描かれていたと思います。
錬金術という強大な力を持っているのに、その影響や真価をいまいち理解していないから、序盤では「錬金術とはなんだろうか」と悩み、他人から忌避されることで「人の役に立つものではないのか?」と項垂れ、時に「人の命まで奪ってしまう力なのだ」と恐怖と苦悩に苛まれます。
旧アニにおける彼は、自分のアイデンティティがどこにあるかわからないまま、禁忌を犯した咎を背負い、幼い弟に弱いところ見せないように自分を奮い立たせている子供でした。


では、この歪な車が崩れないように、道を外さないように、なんとか走らせていたものは何か?
その答えは「子どもを応援してやるのが大人の役目だ」という言葉にあります。すべての大人が、エルリック兄弟のことをそれぞれの形で見守り、時に叱り、時に家族のぬくもりを教え、大人として導きいてくれていました。

ここですごいのは、露骨にガキ扱いをするのはヒューズくらいで、他のみんなはそれとな〜くとしか子供扱いしてないんですよね。
のちのち、エドが「錬金術師になった時点で、大人になったんだと思った」という発言をします。もう〜その思い上がりこそ子どもたる所以……という感じですが、本人がそう思えていたなら周りの大人たちの気づかいの賜物だと思います。
本当は周りが支えて、道を整えて、エドが走れるようにしてくれていたことに、本人は全く気づいてなかった。でも、だからこそ、エドは自分の足で進めていると思い、折れなかったんでしょうね。
本編中で「ガキ扱いするな!」みたいなセリフを聞いた覚えがあまりないので、子どもだからと舐めた態度を取らないことで、あえて信頼関係を築こうとしてくれていたのでしょう。
(エドも敏いので、その気づかいにあえて言及しなかった側面もあるとは思いますが)


しかし、周囲が「良い大人」であろうとしてくれていたが、彼らも決して間違えないわけではない。
むしろ「大人も間違える」もテーマだったのではないかと思います。

特にロイマスタングは「間違える大人」として登場していたと思います。
彼は軍部の若き実力派のエリートですから、一見すると正道を行く正しさがあるように思えますが、エドへの接し方をがっつり間違えています。
「軍人なのだから人を殺すこともある」と発破をかけておいて、エドがその手を汚さないように根回しをしていたくせに、それがさりげなさ過ぎて、43話ではエドに大逃亡劇を繰り広げられてしまいます。一番に頼ってもらえる存在になれていないことに傷つくなんて案外ガキくさい部分もあるもんだと萌え萌えになってしまいました。

故意にリオールの真相やヒューズの死を隠していたことで、結局子ども扱いしていたことがバレてしまい、エドを深く傷つけてしまっていたのもとても良い味でした。
エドとしては、自分は覚悟をもってやっているつもりだったのに、故意に危険から遠ざけられていたなんて俺は侮られていたんだ!と信頼を裏切られた気持ちになることは自明なのですが、、
庇護してもらった経験がないからなんでしょうか。スマートな男ゆえに気持ちが伝わってないというのが面白いですね。


愛の話である

これは旧アニの根幹だと思います。
ずばり旧アニは「皆がそれぞれの愛を求めている話」です。
人体錬成の産物として生まれてしまうホムンクルスは、このテーマを顕著に表す存在です。

ラースは母親からの愛を。
ラストは亡き恋人との愛を。
エンヴィーは父(ホーエンハイム)からの愛を。
スロウスは愛を注ぐ先を求めていました。
何よりも「人間になりたい」という想いの根幹には、「存在を認めてもらいたい」という心があったと思います。世界に存在してもいい理由が欲しい=愛されたいと言っても差し支えないのではないでしょうか。

また、エルリック兄弟やスカー兄弟の兄弟愛、師匠周りの親子愛、ロイマスタングとヒューズの友愛、ホーエンハイムの自己愛と妻への愛の違いなど。全ての人が愛を求め、愛に報い、愛のために命を賭す物語になっていました。
それ故に、感情を揺さぶられる展開が多く、ままならない思いで見守っていました。愛による物語は叶わないところも含めて美しく切ないですね。



特に良かったシーン

ここからは印象に残ったシーンを紹介します。

7話 キメラが哭く夜

壁の汚れとして消えたニーナとアレキサンダーの残骸を見たエドが雨の中で慟哭するシーン。

人より少し賢いだけの子どもであるエドが見せられるには酷な景色でした。
アニオリでニーナとアレキサンダーと過ごした時間をより多く取った上でのこれか〜と、アニメスタッフのエドへの加虐趣味にはちょっと引きました。
エンディングの消せない罪でエドが希望を見つけたとも、絶望を知ったとも取れる弱々しい笑みを浮かべるシーンとリンクしている気がする……と思っていたら、最後のフレーズである「ダーリン」でニーナとアレキサンダーの寝顔が映り込むのもね、もうやりすぎ。わかったよ、エドを弱らせたい気持ちはよ……

あとスカーの行いに関しても旧アニの方が理解できるなと思いました。
化け物のような体で他人から生かされている自分と境遇が似ていると同情したのかもしれません。自分の命を絶つことはできないが、せめて自分そっくりのキメラの命を終わらせてやることで、その魂を救済をしてやろうと思った不器用なやさしさ……という印象になっていて、彼の本来の優しさみたいなものが垣間見える良いシーンでしたね。

24話 思い出の定着

アルが「僕の記憶は植え付けられた偽物なのではないか」と悩み、逃走した先でトラブルに巻き込まれることになるのですが、エドの本気の懇願に心を打たれ、覚醒するシーン。
原作とは違う流れですが、生身で飛び出してくるエドの本気の心配を前に、兄の心を思い知るアル……という良いアレンジが効いていて個人的にはすごく好きな話です。

また、この辺りからどんどんスカーのアレンジが最高になっていきます。
原作とは違い、旧アニのスカーは「最愛の兄とその恋人を失った、野望のない弟」として登場していますが、これってまるっきりアルとの対比だと思っています。兄が命と引き換えに残してくれた身体で生きているという点も含めて。(アルは兄が体と引き換えに魂を残してくれている)

自分が何をなすべきか。アイデンティティは何か。それすらわからず、志もないスカーが、同じく自分の在り方に迷うアルに「私にはお前の目に見えぬ涙が見えた。人間だ、お前は」と言うのですが、このセリフが本当に良くて泣いてしまいました。
イシュヴァ―ルの民として、スカー自身も謂れのない差別を受けて迫害されているにも関わらず、明らかに倫理の輪から外れたアルに対して「人間だ」と言える強さ。それはきっと、彼自身の心の美しさから生まれた強さなのでしょう。
それぞれの故郷へ向けて沈んでいく夕陽をバックにイシュヴァ―ルの民たちと別れるシーンは、スカーとエルリック兄弟が和解したような印象を受けました。原作ではずっと険悪なムードだったので、これが見れたのは結構うれしいですね。

25話 別れの儀式 

列車で通り過ぎた駅のホームで、ヒュースが手を振ってくれるシーン。

原作では急な別れで頬を引っ叩かれたまま立ち上がれなかったので、最後にお別れを言いに来てくれた彼の姿にかつての自分が救われたような気がしました。
ありがとうヒューズ。
さようなら。

34話 強欲の理論

圧倒的強者として君臨していたグリードがあっけなく死ぬシーン。

単純にすごくおもしろい展開でした。
自分の骸を前にホムンクルスは手も足も出ないという設定は、自分が人間でないと自覚する=世界から愛されていないことを知ってしまうからなのかなと思えてしまいます。術者が相手を愛していたからこそ、禁忌を犯してでも人体錬成したというのに皮肉な運命ですね。
仰向けでのけぞりながら手を縮こまらせて死ぬ姿は、産まれた時の残骸と同じ姿勢なんだなーと思いました。哀れで仕方なかった。

そして、エドが「そんなことのために」生きていただけのグリードを化け物と呼んでころしたあと、自分と変わらない姿や願いを思い返すことで人間をころしてしまったんだと自覚し、強い後悔から慟哭するその瞬間、世界がエドに興味がないみたいに日が昇る演出最高でした。
弱らせのエンジンがすごいぜ。

43話 野良犬は逃げ出した

ロイマスタングが、逃げ惑うエドを追い詰めた挙句、「なぜ私に頼らない!?」激昂するシーン。

本当に最高。これ見た瞬間ガッツポーズしながらむせび泣きました。
大人として、上司として、子供であり部下であるエドを導き、守り、頼ってもらえる存在として一生懸命庇護していたのに、その気持ちが全然伝わってないどころか、自分を敵と認識し、取り返しのつかないところまで逃げようとするエドに対して、”””ついに”””怒ってしまったという感じなのが最高でした。
社会人なので私にもわかります。部下がミスを隠ぺいしたことで取り返しのつかない事態に発展してしまった時の気持ち。
報連相が大事って何回も伝えたのに、ちゃんと指導できてなかったんだという自分への不甲斐なさも相まって、やるせなくなっちゃいますよね。
そして咄嗟に激昂してしまったけど、怒っても事態は好転しないし、なによりも相手を委縮させてしまう悪手だったと気付いて後悔する。これまで必死にやさしく、言葉を選んで接してきたのが泡沫と化す絶望。全部わかります。
オホホ オホホ ハア……………………(絶望)

次に雨が降った時は、庇になってエドを濡らさないように守るのではなく、「濡れてしまったから火が出せない」と弱みを見せて頼ってあげるといいと思います。あんたみたいなイイ男に頼られて嫌な男はいないので。


47話 ホムンクルス封印

母親のホムンクルスであるスロウスが「私は母親ではない」とエドを突き放すシーン。

これすっっっっごくないですか?
さんざあなた達の罪ですよ~とエドの傷をぐりぐりと詰ってきたのに、最後の最後、ラースの「ママ!」という呼びかけによって自分が母であった過去を思い出した刹那、エドに胸を貫かれて発した言葉です。
あれは、「私はあなたたちの母ではない」「だから、母親を殺したという罪悪感を抱かなくていい」という母からの深い愛情の表れです。
涙の一つも見せない徹底っぷり、最期まで化け物でいてくれるところに母親の強さというものを見た気がしました。

その後、エドは「誰のママでもない」「死んだんだ」と噛み締めるようにラースに告げます。
そして、「ホムンクルスは人間ではない」と言って、スロウスを殺します。
それはきっと、母親の死を受け入れることができず、人体錬成という禁忌を犯してしまった幼き日の自分への戒めの言葉なんだと思います。
自分の傷の形を認識して、口に出して、認めることができる。彼が成長した証です。

そして、母に限りなく近い存在、スロウスを殺したすぐ後に、イズミさんと並んで歩くシーンもすごくよかったです。
原作では、実子を失った親、親を失った子供という凹凸がかみ合い、師弟を超えて親子のような関係性になっていましたが、旧アニにはラースとスロウスという「本物」の存在があることで、欠けた器同士であるエドとイズミさんはこの凹凸がはまらなくなっていました。
ですが、親(師匠)が子(弟子)を心配する姿や、子が親を背負う姿、子が成長する姿が丁寧に描かれていて、親子の絆は血縁だけではないと強く感じました。
「錬金術師になった時点で大人になったと思っていた」なんて語るエドの成長を見て、イズミさんが少し複雑な表情をするのも、親ならではという感じで好きでした。

48話 さようなら

ホムンクルスの基地に殴り込みに行くエドと、大総統の家に襲撃に向かうロイマスタングが偶然出会い、死地に向かう前に覚悟を語り合うシーン。

一言一句すべて良かった。旧アニにおける「錬金術師とは」のテーマが詰まっている集大成のシーンです。

個人的な感想(深読み)ですが、ロイマスタングにとってエドは守りたい子どもであったと同時に、自分自身を重ね合わせている存在だったのではないかなと考えています。
ただ、自分はもう罪を重ねてしまったので、彼らのように穢れ無く純粋無垢でも無い。それにわがままを言えないくらい大人になってしまった。だから自分のことはもう諦めている。
でも、エドが、ひいてはエルリック兄弟が、旅を続けた結果何か得るものがあったとしたら、ロイマスタングは自分が救われたような気持ちになるんだろうなと思います。

子どもだから庇護すべきという気持ちとは他に、自分の願いを託す存在として、その道にある障害を取り除いてやっていたのではないでしょうか。
エルリック兄弟は自分がなることができなかった眩しすぎる存在。いわば彼にとっての「夢」なのです。
一方的な押し付けかつ、とんでもないエゴですが、そうでもしないと救われなくらい、ロイマスタングは出口の見えない隘路に迷い込んでいました。

ただ、ロイマスタングの狡いところは、こんな夢をエドに押し付けながらも、本当の夢=やるべきことと認識しているのは「二度と親友のような尊い命が奪われるという理不尽がないように、どんな犠牲を払ってでも上へとのし上がること」なんですよね。
言うなればこれが大人の夢で、ただひたすらに真実を求めて走り続けるエドの生き方は子どもの夢。それを諦めて大人としての夢を追っていた。

しかし、ロイマスタングは自分の夢を諦めると言います。
さらに、エドもその夢を諦めると言います。
ロイマスタングは同時に二つの夢を諦めることになるのですが、彼はなぜか喜んだような素振りさえ見せるんですよね。
でもこれって、「俺も子どものように、素直に、駄々をこねてみたくなった」という言葉はエドへのあこがれで、さらに「ついてきてくれるな」という言葉は43話で肩透かしを食らった部下への信頼なのだとすると、ロイマスタング的には両方を手に入れているんだから、そういう表情にもなりますよね。

そして、いよいよ別れ。死地へと旅立つ前に、彼はエドに握手を求めます。
人体錬成の禁忌を犯し、人生に絶望していたエドを詭弁で立ち上がらせた時ですら手を貸さなかった冷徹な男がこんな時になって手を差し出したのです。
錬金術師が、錬金をするために環をつくるための手を、人に預けるってとんでもない行為ですよね。対等な男に対する敬意と信頼の証なのです。

しかし、エドはその手を握り返すのではなく、ペチンと軽くたたくだけで、そのまま走って行ってしまいます。
これは、そんな関係じゃないだろ、堅苦しくてこっぱずかしいよという子どもらしい照れ隠しなのだとおもいます。
ただエドも、ロイマスタングが自分を対等な同志と認めてくれたことに喜びを覚えて、軽く触れる程度には心を受け取ったのです。
対等だから、もう守られなくていいよという拒絶でもありながら、ここまで歩かせてくれたことに対する感謝も籠っていたのでしょう。

ロイマスタングも、自分の守ってきた子どもが想像しているよりもずっとずっとずっと早く走ってたのだと知れたから、いい土産になったとすっきりとした顔で死地へと向かうのです。

名シーンすぎる。絶対に原作ではできないことだと思うので感動もひとしおです。



これ以上は長い&シャンバラに深く関連するシーンだと思うので今回は省きます。
どのシーンも絵作りが素晴らしく、キャラクターの意図が伝わってくるカットに感動しきりでした。最終決戦が劇場だったことや、頭蓋骨を突き付けられながら業火に吞み込まれるキングブラッドレイの死に様も美しかった。
そもそもですが、「やつらは禁忌を犯した!」という煽りから、太陽に手を伸ばす鋼の腕をバックに流れるメリッサの気持ちよさからして、百点満点最高のアニメでした。

功労賞

ロイマスタング

こんなに負けの色の濃い男だったか?と興奮しました。
新アニより声は渋いのに不思議とかわいげを感じる魅力があります。
叶えたい夢があったから巨大な組織の犬になったのに、その組織に親友を殺され、裏切られ、逆襲くらいしたくなるよね〜と同情してしまう人間臭さも良かった。
エドが大人になったシーンでガキになる対比を見せてくれてありがとう。
しかし同時に、「ガキになって夢を諦めようと思う」という発想に辿り着くこと自体がとんでもなく大人な選択だと思いました。
あと眼帯最高!最初からこうだった気さえするくらい似合ってる。

スカー

正直、原作とはすべて設定が違いましたが、本当に萌え萌えでした。
原作の彼は熱い血潮が全身に滾っている、凶暴ながらも高潔なグリズリーという感じの男ですが、旧アニのスカーは高い空を孤独に彷徨い続ける、止まり木も巣も失くしたトンビという感じがあって非常によかったです。
ひんやりと肌は冷たいのに涙だけが熱を帯びているような慈愛の人でした。

ラスト

原作では敵組織の女幹部の原液みたいなキャラクターでしたが、旧アニの彼女の人間臭さには何度も心がギュッとなりました。
身を守る茨が鋭すぎる薔薇ゆえに誰にも触れてもらえず、暴風によって茎を手折られてしまった人。グラトニーが本当にラストに懐いていたのも、愛に生きて愛に死んだ彼女のピュアさゆえかもしれません。

タッカー

生きすぎだろ。ちゃんと死んでくれ。

シャンバラで見たいシーン

発表ドラゴン


向こうの世界でスカーやその兄、ラストが仲睦まじく過ごしている姿を見かける

「私はもう君に手を貸さないよ。君は私の部下ではないし、どうやら助けが必要な子どもでもないらしい」と清々しく笑う、片目が塞がれたことで眩しすぎるエドをもう見なくても良くなったロイマスタング

この数年間、君が錬金術に費やしてきた時間すべてが対価としてあちらの世界へ渡ったエドが、こちらの世界に戻ってくる時は文字通りその時間を、世界側から記憶を無くすことを対価とする



以上!
ロイマスタングのことこんなに好きだったかな⁉と我ながら困惑しました。
自分自身も大人になったことで感情移入する対象が変わったんですかね。
深いテーマがあったので、大人になってから見ることができてよかったです。(あと当時見てたら性癖が歪んだと思うので)

シャンバラを見たらまた結論書きます。
ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?