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イヌのツブテ

 家の窓際で風に撫でられて1日を過ごしていた。北向きのその部屋は陽の当たりが悪く、晴れの日でも薄暗い。光とは呼べないような柔らかいグレーの明るさを感じながら、連続したスクエア柄の少し埃っぽいレースカーテンが揺れているのを眺める。私の家は古い平家の一軒家で、この部屋も畳だ。トタン壁の小さな工場が並ぶこの田舎町にぴったりな、インテリアに無頓着な極めて庶民的な家だ。ただ、何故か私はこの場所に洋画のような美しさを感じ、排他的な居場所を見つけている。彼らがこの家に来たのはそういうものが私に寄り添っていた日だ。何でもない優しい寂しさが飽和している日の暮れ。妹がみちみち動くものを抱えて私の元にきた。銀色のトカゲのような子犬と、ぎっしりとした白い毛糸玉のような子犬だった。みちみちみちみち、ぴちぴちぴちぴちと頭も手足も尻尾も振っていた。妹は私の寝転ぶ場所にぽすんと彼らを落とした。
「名前を決めてだって。漢字で一文字、読み仮名二文字。」
おそらく母が言ったであろう言葉を妹は言った。
「飼うの?」
「うん。こっちがビションフリーゼ。こっちがイタリアングレーハウンド。イタグレだから、クレにしよ。」
妹は誰に提案するでもなく、ひとりで一匹の子犬に名前をつけた。皮と骨しかないような華奢なその犬をもう一度抱き上げ、首のあたりを撫でながら「くれないの紅(ベニ)で、クレにしよ。」と、妹はもう一度、ひとりで犬の名前を決めた。私は、名付けを随分簡単に安直にすることに少し戸惑いながら、私の胸にいる温かい毛玉を見た。私は無意識に犬を抱いていたのだ。まん丸の体にまん丸の顔に、まん丸の目がついている。どことなく生意気そうで耳の付け根あたりが淡く栗色に染まっていた。耳以外は出来立ての白色だ。
「白色だから、色にしよう。」
「イロ?シロじゃなく、イロなんだ。」
「うん、シロって犬はたくさんいそうだし。」
「ふうん。」
片手にクレ、片手にイロを抱いて、妹は隣の部屋へ行った。狭い家なので、当たり前に妹とそこにいた母の会話が聞こえる。
「こっちはクレ。こっちはイロだって。」
「イロ?白色なのに?」
「うん。」
「そう。」
母も、妹と似た疑問を抱きながら、妹と同じように気にすることをすぐにやめていた。
 2年が経った頃、私はその場所で何も考えることなく、いつものようにカーテンの揺らぎを眺めていた。隣の部屋で、母が何度も名前を呼びながら、どっぷりと重たくなったイロを抱きかかえて「イロは名前までかわいいね。」と話しかけていた。母はこの名前を気に入ってるらしい。そう、彼らを迎えて数年が経った。これは去年の話で、今度の5月で3年になる。少し力を入れたら潰れてしまいそうだったクレは、細身なまま筋肉質になった。相変わらずの美しい銀色の毛並みは、子犬の頃のシルクのような柔らかさとは別に馬の毛のようなコシが出た。神経質で寒がりでよく布の下に隠れてしまう。いたずらがすきで力で敵わないイロを少しだけ噛みついては逃げていく。どこまでもころころ転がってしまいそうだったイロは、庭石のようにどんと眠るようになった。ときどき腹を出して。ピンク色のふくれたお腹は、そばかすのようなシミが増えた。耳の付け根の栗色もいつの間にかなくなってしまった。少し残念だ。
 私が毛布を被って寝転ぶと、クレは大喜びでそこに潜り、足と足の間におさまる。手が届かないので撫でることはできない。イロは気まぐれで、首元、というか顔にもたれるようにして寛ぐ。構われたいときには、仰向けの私の胸に乗り、まじまじと見つめてくる。私が起きているとわかれば、ふとましいその腕で鼻を叩く。イロは重たい。胸に乗れば苦しいし、首元にいれば私は寝返りも打てない。クレはおとなしい。太ももの間の温かさや骨っぽさで生きていることを確認する。この温かさを、柔らかさを、見つけるたびに、私はアキを想う。アキは赤毛のわがままなトイプードルだ。毛量が売りの犬種なのに薄毛で、耳や足首や尻尾が禿げていた。毛のない耳は薄くぺたぺたとしている。最近、肉厚の観葉植物の葉がこの感触に似ていると気づいた。しばらく親指と人差し指で優しく揉んでいると私の体温がうつり、アキが戻ってくることを願ってしまう。薄毛だったのは、末っ子でおそらく発育が悪かったからだろう。トイプードルよりもワンサイズ小さい犬種のティーカッププードルに間違われることも多かった。ほんとうにわがままで呼んでもこちらに来ない。ひとりで眠るのは嫌がった。赤く熟した苺が好物だった。家族にとって陽のような温かなものになりますようにと、14歳の私が陽(アキ)と名付けた。温かくて、柔らかくて、小さくて、たしか、5年ほど前に死んだ。
 冬。木曜日の夜。アキの様子がおかしいので私は隣で過ごしていた。そのうち下痢が止まらなくなり、いつの間にか便は血になった。突然の出来事だけれどアキは体はあまり丈夫ではないし年も年なので、私は自分の意識のもっと外側の方で緩やかに状況を飲み込んでいった。この冷たい夜に溶けて無くなりそうなアキの体を優しくさすり続けた。アキは一晩かけて、きゅうきゅう、きゅうきゅうと小さくなった。きゅうきゅう、きゅうきゅう。さすってもさすっても、どんどん小さくなった。私はアキが温かであることに必死だった。暖房や電気絨毯を使用して、私の体温を伝えて。ときどき体を拭いてやった。でも、すぐに汚れてしまう。アキも私も便と血まみれ、私はさらに静かに溢れる涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら。そして翌朝、動物病院の駐車場の車内で、アキは私の胸の中で魂を抜かれた。最後にきゅうっと声を上げて、ぶるぶるっと震えて。ピンと伸びた手足はそのままになった。一昨日は元気だったのに。動物病院の先生たちは、アキを預かって体を綺麗にしてくれた。もう一度、私の胸に戻ったアキはとてもかたくて、温めても温めても私の体温を吸い取り、冬の隙間に放出させた。背中を撫でても、耳に口づけをしても、生命の役割を終え物体となった彼女の体は、思いの外私に冷たくした。
 我が家の銀色と白色の生命がこの世に現れて、およそ3年半が経つ。魂の抜けたアキの体をひたすらに撫でたあの午後を昨日のことのように、密やかに胸にしまいながら、この生命たちと私にも必ず訪れるはずのいつかわからないその日へ向かいながら、太ももの間の温かさと首元の苦しさを確かめながら、グレーの明るさに見守られながら、私は願う。なるべく、この温かさを感じられますように、と。ずっとここにいてくれますように、と。願う。さみしい。


もうすぐ私は実家を出て一人暮らしをします。
また、その実家も引っ越しをするので、今住んでいる家とは近々さようならをします。
この家の私が気に入っている場所を、私の宝箱にしまいたくて作文にしてみました。
大半は犬の話だけど、でも私にとってはその場所の話でもあるのです。
今回のお話は、自分ですごく気に入っています。
読んでくれてありがとう。

新しい家でも、こういう小さな居場所を見つけられたらいいな。

では、また。

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