見出し画像

息を深く吸いなさい。


 家具が好きだ。太々しくどっしりした色合いのアンティークなもの。焼き菓子の装飾のようなひねりを柱に彫り込んであったり、ブナやフジなどの植物と相談しながら形取ったり。簡単な作りの古い飾り棚でも一枚板が使用されていたり。それだけで趣がある。最近流行りの青や黄色の高い彩度で一面を塗る北欧のものも良い。装飾を最小限に抑え、簡素さを美しさに変換している。「物」はどれも美しい。
 そういったものを見たくて、SNSでインテリアを紹介するアカウントをフォローしている。気軽に定期的に、好きなものが見れるのは良い。インテリアだけでなく、斬新な間取りの家や好きで溢れるワンルームの写真も流れてくる。それらに「良いな。」と思うこともあれば、嫌悪感を抱くこともある。嫌悪感。簡単にいうと「おしゃれすぎる。」ということなのだけれど、それ以上の私の思いの正体がわからず内側でそっとしておいた。が、最近ふとその答えが出た。どうやら私は違和感や窮屈さに嫌悪しているらしい。家具やオブジェのインテリアがどうというより、本やCD、生活用品などの、“使うもの”に対する違和感。辻褄が合わないような違和感。写真の中で、パッと生活の動線に結びつかないのだ。
例えば、ななめとななめに重ねられた本。そのななめたちは、読んだり読まなかったり、とりあえず近くに置いておいたり、生活どころか息づかいさえ感じられるはずだが、そこをぷつんと断絶されている。無造作と呼びたくても呼べないそのななめたちには、薄らと人の意識や欲が載っているように見える。本に「ここに、こういう姿でいて欲しい。」という欲。とても息苦しい。
 話が変わるけれど。私は大人になりきるまでは華道をしていた。作品を作る際に、どうしても花の欲しい形や固定が必要になると、茎に細い針金を挿れることがある。茎の太さや硬さをみて選ばないと針金が負けて曲がってしまうので、ちょうどいいものを探して慎重に挿し込む。針金を挿し込まれた花は、背筋を無理やりピンと張られて私をじっと見つめる。私も黙って、すっと猫背を直す。そして切り口あたりをつまみ、頭にかけてすうっと、向いてほしい姿を思いながら撫でる。そうやって花に何度か話をすると「仕方ないね。でもちょっとだけだよ。」と、愛想なく私の願いを聞いてくれる。針金を入れたからって、欲しい形に私が勝手にできるわけではない。花に相談もなく力技で「こっちを向くんだ。」と首元を傾ければ、確かに針金が入っているのだからこちらを向く。けれど、それは“こっちを向かされた花”でしかない。面白いことに、この人間の“欲”が見えると、いけばなの美しさは半減する。しかしこの欲に植物側の興味はない。(観る)人が、(創る)人の欲を見つけて勝手にうんざりしていて、美しさが減ったような気がするのだ。植物はただ、そこに在るだけ。在るだけで美しい。
 そう、この欲。この欲を、私は、“おしゃれすぎる部屋の写真”に感じている。部屋の主の、本に「ここに、こういう姿でいて欲しい。」という欲。本は読むものなのに、使われるものなのに、居場所も角度も固定されているような窮屈さを。しかし、それに良い悪いはない。私が写真を見て勝手にそう感じているだけ。実際、部屋の主にそんな欲はなく、私の勘違いかもしれない。他人のことは何もわからない。確かなのは、私が嫌悪感を抱いていること。そして、内側にそっとしておいたものの正体をこうやって言語化することができたこと。このふたつだ。つまり、私自身がいま少しだけ人間の欲に疲れているのだろう。そういうことなので、一度、休憩を命じます。








はて、数ヶ月ぶり。
忙しくしていたことがだいぶ落ち着きました。
これを暇と呼ぶんだな、って状態です。しあわせ。

絵を細々と描いてます。
最近は思い出したようにアニメーションを作ってる。絵日記だけどね。
それをどこかに載せようか、どうしようか、ってうだうだしながら友達にちょっと見てもらって満足してる。
もし続いたらTwitterにでも投稿していこうかなぁ。
でも、なぜか恥ずかしいんだよねえ。なんだろうね。

文章を書くことが少なくなってしまった。
というのも、ひとまわり自由になったようで、
これまでしていたひと月のまとめが今の私には必要ないようなのよね。
良いこと。
でも、文章は書いていきたい。
とりあえず、noteという場所をもっと気軽に考えようと思う。
どうなるか。お楽しみに。


とりあえず5月6月頃に描いた絵を記録に載せます。
静かにすごい楽しんでます。
みんなも、楽しく過ごしてたらうれしいな。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?