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転ぶ、その続き。


 遊んで走って転んで泣く。着地に失敗して泣く。自転車ごと川に落ちて泣く。田んぼに落ちて泣く。ただ泣く。それを見た祖父はきまって怒鳴る。「だからちゃんと見んと危ないって言っとるやろ」と。すごい剣幕で。私は泣きながら「そんなこと言われてない」と怒っていた。
 祖父は私に会うとすぐにご機嫌で名前を呼び、両手を大きく広げて向かってくる。そして強く抱きしめる。染みた紙煙草の匂いで私を包みながら「元気だったか」「学校は楽しいか」「大きくなった」と私の形を確かめるように肩を摩ったり叩いたりする。そしてご機嫌にご機嫌を重ねた緩んだ顔を擦り当てる。多分祖父は青髭で擦られると痛いことを知らない。思春期の頃は少し恥ずかしかったし、学校に行けず引きこもりをしていた頃は言葉にならない気まずさがあったが、祖父は自分のペースで私を抱きしめた。顔を合わせた順に私の弟と妹のことも抱きしめる。私たちは祖父に会って抱きしめられなかった事はないと思う。
 私は18歳の冬に普通自動車免許を取得した。みんなに心配される中、根拠のない自信で満ち満ちていた私は得意げにおつかいへ出掛けた。そして目的地の駐車場で借りた祖父の新車をしっかりぶつけた。何にぶつけたのか覚えていないが、設置物で車のバンパーが大きく傷ついていた。少し眺めて、仕方ないなあと買い物をして帰った。何を言われるかとどきどきしながら祖父を車の前に呼んで「ぶつけちゃった」と報告すると、だいぶショックだったらしく口を大きく開けて目を点にさせて固まっていた。強い言葉で叱られると思っていたのでこそっと謝ってその場を離れた。後日祖父はバンパーの取り替え修理に出していた。車はまたぴかぴかの新車の風貌を取り戻し、傷ついたバンパーは「記念だ!」と持ち帰られ祖父が満面の笑みで狭い自室に飾っていた。
 祖父は私が新しい靴を買うと必ず靴底をライターの火で炙る。「事故に遭わないように」「狐に騙されないように」と。祖父は65歳で死んで、1歳差の姉女房だった祖母はここ10年で大きく差をつけ76歳になった。
 今、私は自分で新品の靴底を火で炙っている。祖父がしていたからと。

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