見出し画像

思想?的転換?

 人間万事児戯が如し、いかなる時も拈華微笑、いかなる不義をも責めずに恕す...。そんな仙人じみた境地を目指す時間も金も胆力もない!しかし、この不完全な悲劇的世界、即ち人情は紙風船、 頑迷固陋で悪逆無道の憂き世(ヴエイル・オヴ・チアーズ)にて、傷つき、傷つけ、捻くれ、怒り、悔いて、やるせない憎しみにのたうち回り、時にはのたうち回らずにぐっすり眠り、また時には不正に憤慨し、不正に加担したりもし、それでもなお完全に絶望せず、自分という人間そしてあらゆる人間に垣間見える本質的なおかしみ、愚かさ、悲しさ、みじめさを、ふと見つめて微笑む...。しかし、この手で刺したい人間はゴマンといるし、金も欲しいし褒められたいし性的衝動はコンコンと湧き出て止むところを知らない!
 ...大体こんなふうな、いかにも現代型のエゴイスティックなお手軽なんちゃってヒューマニズムは、強いられた苦役とわずかな甘味と、老いの決定的な破滅的終局しか用意されていないヴエイル・オヴ・チアーズにおいて、案外?かなり支えになる。私の例を出す。私には、刺したいほど憎たらしくて、考えるだに動悸がしてくる人間もいくつかいるが、年がら年中憎み憎んで握り拳を固めて脳内で猟奇的殺害を想像していては、疲れるし、飽きる。時には一歩引いて、殺したいほど憎らしい大馬鹿者どもが、なんと哀れで愚かなのだろうと考える。くだらないことでムキになって刺すとかなんとか騒いでいる私自身も、過去を振り返れば似たような悪行をしているではないか、場合によっちゃこちらが刺されていたっておかしくないぞと思い至る。偉そうにしやがって、私だってどうしたって逃れられない人間という条件のうちにあるではないか、と苦笑いする。それでだんだんムカっ腹が復活してきて刺し殺したくなる。しばらくすると、「人間って、例外なくバカで、哀れで、、、」と改心し、泣いて笑って老いて死ぬ我が身を思う、やがてまた新たな殺意が、、、と繰り返す。この態度を「ものぐさユマニスト」のそれと呼びたい。「お手軽なんちゃってヒューマニスト」よりはすこしカッコ良いからである。
 ものぐさユマニストなら、憂世に漂うのも少しは楽だ。ではどうしたらものぐさユマニストたりえるか。理論と実践だ! ここでは理論を、教義を学ぶのに良い古今の哲人のことばを、リストで上げていく。もちろん、ものぐさ連中のためのものだから、ひどいと2ページとかの短編、掌篇、ひとくちサイズの詩、そもそもブックでないものも混じっている。まず中心となる聖典は2つ。
・福原麟太郎『泣き笑いの哲学』
・徳川夢声『古久里の夢』
ほか読むべきは、ラムの『エリア随筆』、スウィフトの『ガリバー旅行記』、フォースターの随筆をいくつか、鶴屋南北『盟三五大切』、モリエール『人間ぎらい』、ロングフェローの一編『村の鍛冶屋』、

 以上は私が2023年6月11日19時18分に下書きに保存したまま塩漬けになっていた文書そのままの引用である。その日仕入れたものをアタカモ長らく蔵にしまっておいたような小芝居をして見せびらかしているのがイカニモ私らしいところだが、言っている内容に全く異論はない。なり損ないのものぐさユマニストを指針として生きている。他のものは考えられない。ぽつぽつと本を読んだり映画を見たり人と話したりしてほとんど1年経つのに!成長がないと言えば成長がないのだが、自分の思想(=引用の寄せ集め)が、後述する大転換?転向?を経てだいぶ安定してきたのがわかる。フォースターはそんなものは忌むべき固着だと言うだろうが(そらまた引用だ!)。
 思えば物心ついてから右翼というか排外主義者だった。小学校中学校から2chまとめサイトに入り浸り中国韓国叩きに明け暮れ、花王の不買をクラスメイトに呼びかけたり、月月火水木金金や暁に祈るや歩兵の本領やらをPSP(待ち受け画像は旭日旗)にダウンロードして聞いたり「歌えないやつは非国民だよ」などと言って聞かせたり、頬骨の出た吊り目のアスキーアートをノートに書きまくったり、フジテレビをウジテレビと呼んだり、民主党の国旗は韓国の国旗をもとにしていて反日テロリストスパイ集団だとか日教組がジェンダーフリーや自虐史観を押し付けているとか生活保護は全廃すべきだとか偏差値40以下は無駄だから学校行かせるなとか南京慰安婦ホロコースト同和なんぞは左翼人権屋と在日チョン共のデタラメだとか日本人が高潔な世界に誇る唯一無二の民族だとかKARAも少女時代も反日マスゴミの押し売りだとか本気で考えていたし、美術の時間に作った木彫りの板には「日本国万歳」と彫ったし、高校もトコトン筋金入りの愛国主義(何が愛国だ)かつ冷笑主義で、原発問題安保問題その他モロモロに対するSEALDsだのの何だのの抗議活動は在日パヨクの工作活動と断じて心底バカにしていたし、安倍晋三の演説も見に行ったし、『太平洋戦争の大嘘』みたいなトンチキ本を読んで大日本帝国の正義を信じていた。
 それがどうだ、今やどう言うわけだか自分でも驚くほどの、頭にドをつけてしかるべきリベラルになってしまった。にもかかわらずこの一大思想転換点がわからない、いつの間にかとしか言いようがない。ただ、小学校のいつだか、自分の祖父が部屋のラジオでアリランを流していたり、「戦争中日本は酷いことをしたよ」とか言ってくるからテヤンデェこの売国ジジイと腹が立って、それと同時に「もしかすると俺は純粋日本人ではないのかもしれないな」と疑念を抱いたことがある。なにしろアベマブログで、歴史書的に考えると理論上全ての日本人は天照大御神の子孫にあたると書いてあったから、ヨソの血が入っていては困るのである。それとこれはハッキリしているが中学2年の時におなじく""愛国同志""の3年の先輩に、「トーキョーオリンピック決まりましたけどTwitterでfuck TOKYOってめっちゃ外人に言われてるんですよ」とネットの画像をみせたら非国民とかなんとか言われたことがある。なぜかfuck TOKYOと外人に書かれまくっているのが清々しいと言うか、いやその前に目の前の先輩がいい気になっているのを台無しにできるというか?言葉にできないしあまりよく覚えていないがとにかくニヤニヤして楽しかったのは覚えている。ファックトーキョーだなんて、目が眩むような「反日的」不敬言説にもかかわらず!あと福田恒存みたいなマトモな保守を齧ったのも、転向理由としてはあるかもしれない。
 そういえば最近、とある同級生がいつの間にか中核派に入っていて警官を殴って捕まったと聞いた。昔の私ならその惨めな反日思想の愚かさをコテンパン貶した(つもりになっていた)ろうが、「今の時代に中核派とはなんだ気概のある奴だ」と感心してしまった。彼らの思想に共鳴するところは全くないが、なにしろこのご時世とことん弱者少数者の側であって、分が悪すぎるのは明白であるのに、それでもなおという心意気が素晴らしいではないか。思想は常に弱く正しいと渡辺一夫も言ったではないか(そら見ろ引用だ!)。私は弱っちい奴が好きだし、威張る奴は嫌いだ。私はもはやいかなる不寛容や差別的言説や体制の押し付ける道徳倫理にも与さないし与したくない。上っ面の愛国的精神などに目を奪われたりしない。心底下らない。今の私の友は山﨑今朝弥でありエラスムスでありモームであり伊藤野枝であり長谷川如是閑でありモンテーニュでありフランクルでありフォースターであり渡辺一夫でありスウィフトでありラブレーでありモリエールであり多喜二でありアウレリウスであり福原麟太郎であり加藤周一であり徳川夢声であり幸徳秋水でありディケンズなのであって、KAZUYAや藤井厳喜や渡部昇一や百田尚樹や神風じゃあのや杉田水脈やほんこんのような不寛容の排外主義のごろつきヤクザ者連中ではないのである。
 疲れたので切り上げる


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?