見出し画像

KFC前でのvegan活動に思うこと⑥

今回の記事は、アベマプライムが取り上げた過去の主なヴィーガン関連討論の考察3つ目です。

弁護士箱山さん出演回

 3つ目は2022年9月6日と比較的最近なので、今ならまだノーカット版の視聴が可能です。

小学校前で"動物殺すな"は適切だった?ヴィーガン行動当事者と田村淳が議論

ユーチューブのダイジェスト版はこちらです。

【ヴィーガン】残酷な写真をなぜ子どもに?デモ主催者に直撃

 この回にリアル出演されたのは、小学校前での啓豪活動を行った箱山由美子弁護士と、共に活動に参加した鈴木博之さんです。お二人は、とある小学校の通学路に屠殺画像を並べて「大人たちが何を隠しているか知って下さい!」と子供たちに呼びかけるというアクションをされました。

小学校前活動に対する私見

 先に、この活動に対して私がどう思っているかを書きますと、繊細な気質の子を持つ一人の母親として、また自分自身もセンシティブな動画を見ることができない性質の一人の人間として、こんなことはしないで欲しかったと思っています。また、動物たちの惨状を何とかしたいと思っている一人のヴィーガンとしても、アニマルライツ推進という目的に対して負の効果の方が大きいように思われるため実施すべきではなかったと考えています。
 私はヴィーガンですが、この件に関しては他の出演者と概ね同じ意見でした。それは次のようなものです。

  • 子供への周知方法として適切だったとは思えない

  • 実状を知って選択して欲しいと言うがこのやり方ではトラウマを与えて選択できないようにしているだけではないか?

  • こういった行動をすることでヴィーガンのイメージを悪くしてかえって考えが広まらないようにしている側面があるのでは?

  • 肉や牛乳が合わない体質と知らずに苦しんでいる子にヴィーガンで体調が良くなることもあるというメリットを伝えたいなら屠殺画像は不要

  • 自ら食を選択できない子供にショックを与えるのは酷

論破する必要はない

 討論の場で対立する意見を交換する場合、どちらかが分の悪い状態になるというのはよくあることです。しかしながら私はヴィーガンに関する議論を勝った負けたの論破ゲームにはしたくなく、どちらか一方があまりにも分が悪い状態というのは良くないと思っています。「ヴィーガンの人たちが言っていることも間違いではないよね・・・。」という程度の印象を見ている方々に残せたなら、それが一番成功した状態じゃないかなと考えています。前回のノートでも書いたように、他人を変えることなどできるものではなく、たとえ討論の場で一方的に言い負かすことができたとしても、それで変わってもらえるとは思わないからです。でも、何か一つ、心にひっかかりのようなものを残せたなら、それがきっかけとなって自ら変わってもらえる可能性があると思うのです。

論破される道理もない

 ヴィーガンの主張は本来、分が悪くなりにくいものだと思っています。特に近年は肉食の環境負荷を問題視する声が高まり、アニマルライツを推進する上で大きな追い風にもなっています。肉食偏重や加工肉の過剰摂取が健康を害するという説も多いです。そんな中、現在の肉食のあり方を全肯定できるのは

  • 動物が可哀想だと思わないかまたは思うが割り切れる

  • たとえ気候変動で未来の人々が困るとしても構わない

  • たとえ健康を害するとしても構わない

の全てにYesと言える人だけです。そんなことを明言してはばからない人はそういないでしょう。工場畜産のような残酷なことはやめるべき、環境コストや健康への影響を軽視した安価な大量生産・大量消費は減らしていくべきとの合意形成を行うのはさほど難しくないはずなのです。

 しかしながら、とある小学校の前で、たまたまそこに通っている子供たちに対して無差別に残酷な画像を見せるという、受け入れ側の子供への配慮を欠いた主張の仕方をしてしまったら分が悪くなるのも必然で、互いを尊重しながら対等に話をすることが難しくなってしまいます。

 「私はもっと早く教えて欲しかった」と強く思っている方は多いですし、人間は年を取るほど生き方を変えることが難しくなるので、子供たちが受け入れ可能であれば早いうちから食肉生産の実態を知って自ら生き方を選べた方が良いとは思います。でも知らせ方にはやはり配慮が必要だと私は思いますし、そう考える人が大半じゃないでしょうか。

問題は残酷さなのか搾取なのか

 ヴィーガン目線ではもちろん両方問題なのですが、司会の平石氏からも指摘があったようにノンベジの人はそこを同一視していないので、丁寧に説明した方が良かったのではと思います。箱山さんは「アニマルウェルフェアは人間の罪悪感を軽減するためのもの」とおっしゃるのですが、残酷さばかりを強調すれば残酷なことはやめようという議論にしかならず、アニマルウェルフェア推進が解決方法になってしまうのではないでしょうか。残酷かどうかではなく、動物の命を奪ってその肉体を人間が搾取することが問題なのあれば、子供たちに伝えるべきは倫理的な思想であって、屠殺方法の残酷さを見せつけることではない気がします。思いやりを持って自ら食べない選択をして欲しいというのなら、サンクチュアリで暮らしている幸運にも殺されなかった動物たちの愛らしい姿を見せる方が理にかなっています。

 日本だけでも年間に100万頭以上の牛、1600万頭以上の豚、8億羽以上の鶏が屠殺されている現状において、そのすべての子たちに確実に施せる安楽死方法などきっとないでしょう。仮定の話をしても仕方がないのかもしれませんが、もし、全ての個体が一切の苦痛を感じることなく食肉加工されるのだとしても、それをよしとしないのが搾取を認めないヴィーガニズムだと思います。

一瞬で気付かせようとする乱暴さ

 箱山さんは、子供の頃から屠殺については知っていたものの50歳までは特に意識することなく肉食をされていて、インドに行かれた際に「なぜ動物が好きなのにお肉を食べるの?」と聞かれた時にすらチキンサンドを食べていたそうです。ある時知人に見せられた屠殺の動画を見て初めて、彼が言っていたのはこういうことだったのかと気づいて愕然とし、食生活を変えられたとのことでした。もっと早く知りたかった、もっと早く動画を見せて欲しかったとのご自身の思いが今回の活動の動機にもなっているようです。
 箱山さんにとっては、動画を見る前に知っていた屠殺の事実はリアリティを伴っておらず、知らないも同然だったということなのかなと思います。
 しかし、子供の頃からそこが隠されているということに気づいている子もいます。どんな風に殺されているのか誰にも聞けず、小さな心に蓋をして考えないようにしているかもしれません。当然お薬で眠らせられるなどして苦しまずに死んでいるはずと信じて疑わぬ子もいるかもしれません。あるいは日々食べているお肉が元は生きている動物だったということにまだ思い至っていない子もいるかもしれません。そんな子たちに、個々の事情を顧みずいきなり凄惨な画像を見せて、動物たちへの思いやりを持って欲しいという主張をするのは思いやりのある大人のすることだとは私にはどうしても思えないのです。

きっかけにされてはたまらない

 この回のMCもKFCの回と同じ田村淳さんです。ここから先の記述は田村さんがメインとなりますが、KFCの時とは違ってとても誠実に議論しようとされているように私には見えました。KFC回を見られた方は、その時のイメージを一旦忘れてこの回を視聴されることをお勧めします。
 フル版動画の27分20秒あたりからから始まる箱山さんと田村さんのやり取りは、番組の一つの山場だったかなと思います。

箱山さん「わたくしはもうきっかけに過ぎませんので、やり方についてはいろんなご批判があるというのはもうよくよくわかっている。」
田村さん「きっかけにされた子供たまったもんじゃなくないですか?」

https://abema.tv/video/episode/89-82_s10_p30  の27:20秒あたり

 おそらく箱山さんは「個々のお子さんの心の変化のきっかけ」という意味できっかけという言葉を使われたのに対して、田村さんは「世の人々に知ってもらうためのきっかけ」と捉えたという行き違いがありそうな気がしています。
 後者の解釈だと、確かに今回の小学校の児童はたまったもんじゃありません。しかしながら前者の解釈でも、千差万別な受け入れ側の子供のことを配慮できているとは言い難い面でやはりたまったものではないと思うのです。

表現の自由❓

 「きっかけ」という言葉をめぐるやり取りの後から、それまでの議論にしびれを切らしたように田村さんが怒涛の問いかけを始めます。教師や親を飛び越えて何の権限があって知らない子供に教えようとするのかという問いに対して箱山さんは幼いうちに(屠殺のリアルを)見せて教える方がいいからだと答えました。田村さんから「それは箱山さんの価値観じゃないですか」と言われた箱山さんが「そうです」と答えた後のやり取りがこちらです。

田村さん「それが正しいかどうかもわからないのに、なんで箱山さんの価値観を知らない子供たちに押し付けるんですか?何の権限があって押し付けるんですか?」
箱山さん「ん~・・・そこは表現の自由ですかねぇ。」

https://abema.tv/video/episode/89-82_s10_p30  27:50あたり

 最初からずっとそう言っていたのならまだしも、ここで初めて苦し紛れかのように「表現の自由」が出て来る展開は最悪なんじゃないかと個人的には思いました。このやり取りの直前に田村さんは「箱山さんは思いやりとずっとおっしゃるが子供たちへの思いやりはどこへ行っちゃったんですか?」という問いかけもしています。その流れで見ると、上の回答は子供たちへの配慮よりも表現の自由を優先したと言っているに等しいものとなってしまうからです。

親の権限

 「何の権限があって」というところについては私自身は田村さんとは少し考え方が異なります。親も教師も完ぺきではなく偏ってしまっていることもありますし、子供は親の所有物ではありません。親や教師だけが育てるのではなく、本当はもっと地域の人々とも関わって社会全体で育てた方が良いと思うからです。ただ、良くも悪くもそうした村社会的なものは地方はともかく人口が密集する都会では希薄となっていて、近所の大人が子供に向ける目線と言えば騒ぎ声がうるさいなど、決して温かいものではないことが多いです。犯罪への懸念から「声掛け事案」などという言葉もあるくらいで、見知らぬ大人にはとにかく気をつけるよう子供には教えざるを得ません。
 見知らぬ大人には気をつけるよう教えられている子供に声をかけるにあたっては、例えそれが善意のものであっても細心の注意が必要だと思います。「表現の自由」を盾に見知らぬ子供にいきなり屠殺画像を見せるという行為を自分の子供にされて、心がざわつかない親は少ないんじゃないでしょうか。

子供に配慮した伝え方の例

 コメンテーターの五味さんが、今回は子供向けだったとのことだがパネルには「搾取」などの小学生が読めない漢字が書かれていて内容は大人向けではないかという主旨の問いをされていました。事実、パネルは全て大人向けのものをそのまま使ったそうです。

 ここでひとつご紹介したいのがインスタグラムのヴィーガン・キッズプロジェクトです。ご存知の方も多いかと思いますが、ヴィーガン教育を子供たちに届けるプロジェクトで、どの投稿も素晴らしい内容です。

https://www.instagram.com/p/Ci3a5KTpmxV/?hl=ja

 ヴィーガン活動家のTomoyaさんが、「子供に伝わる言い方をすることで大人も理解しやすくなる。本質は同じだから。」という主旨のことをご自身の動画でおっしゃっているのですが、本当にそうだなぁと思いました。

派手なアクションの是非

 小学校前アクションを、その学校の子供たちのことを真に思ってしたことだと主張するには「表現の自由」という言葉を使ってしまった以上無理があると感じます。世の人々に知らせるためのきっかけにしたのだとしたら、きっかけにされた子供たちはたまったものではないという田村さん主張には一理あります。もちろん、隠された実状を教えてくれたことに感謝する子供もいるかもしれませんし、もしかしたら全員がそうだったということもあり得ます。でも、例え一人でも、その後にずっと引きずる怖い思いをした子がいたとしたなら、そのアクションは成功と言えるでしょうか。その子はたまたまその小学校に通っていただけなのです。

 行動することに価値がある、行動しなければこうしてアベプラに取り上げられることもなかった、という意見もあるかと思います。しかしながら「行動することに価値がある」はこれまた子供たちを実験台にでもしているかのようなニュアンスを感じます。また、せっかく取り上げられても、それがアニマルライツの推進につながらないばかりか逆効果になるようなら、やらない方が良かったということになってしまうと思います。

 田村さんは、「今回のやり方を今でもあれでいいと思っているのか?」という質問を執拗に繰り返していました。同じ質問を繰り返す理由は、あの方法は間違っていたと認めてくれればもっと聞く耳を持てるがそうでないなら話のスタート地点にすら立てないからだと説明されています。箱山さんは聞かれる都度、はぐらかしているとも取られかねないようなYes/Noではない応答を繰り返しておられたのですが、最後の最後には、肉フェスなどのいろんなところで反応を見て来たので「ありなんじゃないかな」と答えたところで番組は終わります。
 途中、しびれを切らした田村さんは鈴木さんへも問いかけをされたのですが、鈴木さんは、今はわからないし考え中で今後の課題だと思うという旨を即答されました。田村さんにとっては内容もさることながら明確な即答を得られたことにかなり満足していたようです。

 田村さんの問いかけへの補足としてコメンテーターの松田さんが、こういう過激な活動をすることによって「ヴィーガンってやばいんじゃない?」という負のイメージが拡散されてかえってヴィーガンの考えが広まらないという逆効果になっているんじゃないか?という観点も踏まえて回答して欲しいとの依頼を添えられました。これに対する答えは「海外は違法なこともするが私には合法という線引きがある」、「私のやっていることは最も過激な部類だが、本来ヴィーガンの世界はとても穏やかで平和的でありそれを前面に(出して活動されている方もいる)」という2点だったのですが、箱山さんご自身も「答えになっているかどうか・・・」とおっしゃっていた通り、答えになっていないなと私は思いました。
 1点目については、現行法を守っているから問題ないなどと言い出したら肉食の否定などできるわけがありません。2点目の方は、もし、他の人が穏やかな活動をしているから私は過激で問題ないとおっしゃっているのであれば、質問はその過激さに対してなので、他の人の穏やかな活動を引き合いに出しても意味がないんじゃないかなぁと思います。

「真実」という言葉

 今回の記事についてひとつお断りをしなければならないことがあります。番組内で使われた言葉を、実際のものから意図的に変えたところがいくつかあるのです。それは「真実」という言葉が使われていた箇所で、「事実」、「実態」、「実状」等に置き換えをさせていただきました。「真実を知って下さい!」のように、屠殺のリアルを「真実」と表現することにはどうしても抵抗があったためです。置き換えさせてもらった3つの理由を最後に書いておきたいと思います。
 まず、私にとって「真実」という言葉には「本来そうあるべき正しさ」というイメージがあります。例えるなら、イルカが海で楽しそうに泳ぐ姿は「真実」であり、太地町の生け簀でどんよりした目で浮かんでいる姿は「現実」です。

 次に「真実」は人によって違うものであり、コナン君が言うようにひとつではないからです。これは私個人のイメージではなく一般的な考え方としてあるものです。

 上に引用のページでは、「事実は実際に起きた事柄、真実はその事柄に対する解釈が入る」と説明されています。屠殺の事実を前に、「こんな非倫理的なことで成り立つ肉食はやめるべきだ。」という真実を見るか、「これは人類の健康と嗜好を満たすための必要悪だ。」という真実を見るかはその人次第なのです。
 よって「真実を知って下さい。」では「私がこれをやめるべきだと思っていることを知って下さい。」となり、よく言われる「押し付け」になってしまう気がしています。
 知ってもらうべきは事実で、それを廃絶すべきものと解釈するか容認すべきものと解釈するかは知った本人次第であり、周りが無理矢理変えることなどできないように私には感じられるのです。

 3つ目は、仏教用語としての「真実」の意味をつい最近ツイッターで学んだことです。ちょうどこのノートを書きながら「この状態を真実とは呼びたくないなぁ・・・」と考えていた時でした。
 仏語の真実には「仮(かり)ではないこと。究極のもの。」という意味があり、永遠不変のものを指すそうです。
 古代日本において、言葉には、発した通りの結果をもたらす不思議な力、「言霊」が宿っていると信じられていました。悲惨な現状を真実と呼ぶことで、言霊の力によってそれが永遠不変になってしまうかもしれません。
 変わりゆく物事の今現在の状態を表す言葉としては「事実」の方が適している場合もあるというサジェスチョン投稿でした。
 早速この提言を受け入れた活動家さんもいらっしゃったので、良い提言をされたなぁと思いました😊私も改めて見直して、1か所だけまだ残っていた部分を差し替えさせていただきました。

 最後は少し本題から外れてしまいましたが、今回は小学校前アクションを取り上げた放送回について考えたことを書いてみました。大変長くなりましたが読んでくださりありがとうございます。

 次回はこのシリーズのタイトルでもあるKFC前活動を取り上げた放送回について思うところを書きたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?