アンチヴィーガンを増やさない⑤(終)
前回のノートでは、(現時点では)動物性食品の摂取は国が推奨するバランス食であり、それに従う人々は罵倒されて然るべき存在ではないということと、圧倒的マジョリティであるバランス食の人々に歩み寄ってもらわない限り社会を変えることはできないということを書きました。
今回のノートでは、長きに渡った前置きを踏まえて、アンチヴィーガンを増やさないためにはこうした方が良いと考えていることをTwitterに限定して書いてみたいと思います。Twitter以外のことについては、次回以降、各回のテーマの中の一部として綴る予定です😊
アンチヴィーガンとは
「アンチ」とはもともと単に「反対」、「対抗」の意味です。老化を防ぐ目的の行為をアンチエイジングと言ったりしますが、ここでのアンチには特に負の語感はありません。一方、ネット用語の「アンチ」は、特定のターゲットを攻撃的な言葉で叩く行為や、叩く行為をしている人を指しているため、アンチと呼ぶ側にはそのことへの嫌悪の感情が含まれています。
ネット用語の「アンチ」にはそういった負の感情が込められているため、反ヴィーガニズムの人々全てをアンチヴィーガンと呼ぶのは語弊があると考えています。
今回のノートで対象とするのはネット用語のアンチの方です。反ヴィーガニズム主義の人々全てではなく、明らかに嫌がらせ目的のツイートをしたり(肉料理の写真に「#ヴィーガン」のハッシュタグをつけて投稿するなど)、ヴィーガン関連のツイートに攻撃的なリプライを書き込んで荒らしてくる人々を対象にしています。
「ヴィーガンになろうとは思わないけど、ヴィーガンの人たちの言っていることには一理あると思う。」という立場の方はもちろん、畜産業界や食肉業界に身を置いていて信念を持って反ヴィーガニズムの立場を取ってはいるものの、ネットアンチのような行為はしない方々については、今回のノートでは対象としていません。
批判コメントはどんな人が書くのか
インターネットの創成期からずっと掲示板やSNSを見て来たひろゆきさんはこんな風に答えていました。
学校給食にヴィーガン食が導入されたというニュースが流れた時に(2か月に1度という低頻度の割にものすごく物議を醸していましたが・・・)、主食、副菜、汁物等すべての椀に白米を入れた写真(ご丁寧にお魚の形まで作って・・・)が流れていました。確かに相当暇な人にしかできませんね😅
なぜ批判コメントを書くのか
ネットアンチの行動原理としてよく言われるものに承認欲求があります。これは、成長したいというポジティブな自己実現欲求よりは低次元のものであり、何かしらの欠乏から生じる欲求です。
何が欠乏しているのかについては諸説ありますが、あまり踏み込むと人格攻撃的になってしまうので詳細は割愛します。要するに、現実世界で足りない何かを埋め合わせるために行っている行為だと推察されます。
承認欲求自体は誰にでもあるものですし、同じ趣味嗜好を持つ人からの同意や感謝や賞賛を得たいという思いからの投稿、投稿した後に「いいね」や好意的コメントが付くのを楽しみに待つ気持ち、通知ランプがついて嬉しいと思う気持ちはごく自然で健全なものだと思います。(極端に自慢やひけらかしに走っている投稿はちょっとギリギリだとしても・・・)
一方、普段何の関りもない人へ、いきなり攻撃的なコメントを書いて憂さ晴らししつつ、通知ランプがついたら「キタキター!」と喜び、期待通りの反応を見ては楽しみ、さらに侮蔑的なコメントを返す・・・といったことが行われている場合は、あまり健全な精神活動とは言えません。
何かしら反ヴィーガニズムの主張がしたいのであれば自身の投稿で行えばよいのですし、投稿内容への素朴な疑問がある場合でも普通の良識があれば丁寧な言葉で尋ねるはずです。自身の投稿で行わないのは、それだと反応が得られにくいからでしょうし、丁寧な言葉で聞いてこないのは、答えを聞くことが目的ではなく攻撃すること自体が目的だからでしょう。
批判コメントへの対処方法
これはもう、黙殺につきると考えています。時間は何より貴重です。不健全な動機にもとづく暇つぶしに付き合うのはもったいないですし、攻撃的な言葉を受け続けることで自身の精神の健全性が少なからず削られてしまいます。たとえ自分は大丈夫だとしても、タイムライン上でのやり取りは多くの人の目に触れるので、自分をフォローしてくれている他の人のライフも削ってしまいます。何より、ヴィーガンに関心を持ち始めた人が、不毛な論争を目にして「どっちもどっちだなぁ~」と気持ちが萎えるようなことは防がなければなりません。
投げ返さない
蔑まない
憐れまない
子ども扱いしない
拡散しない
以上5点がアンチコメントに対処する上で大事だと思っているので、ひとつずつその理由を添えてみます。
①投げ返さない
下手に反応してもその後の展開が読めないので、すぐにミュートなりブロックなりして完全黙殺するのが一番だと思ます。一度やり取りしてしまうと、打ち止めしづらくなるような返しをする手練手管に相手は慣れているので引きずり込まれてしまいます。返すとしても、せいぜい一往復に留めるのが良いのではないでしょうか。反応しない相手をいつまでも攻撃し続けるのはモチベーションが持たないと思います。
②蔑まない
相手を蔑むようなコメントを返すことは反感を助長しかねないので避けて欲しいなと思います。顔の見えないネット上では、誰しもが攻撃的になってしまうものだそうです。対面で相手の顔を見ながら声に出して言う場合を想像してみて、言えないなと思ったらきっと書かない方が良い言葉ですよね。
「フォロワーが1人しかいない人に言われてもね!」という返しも、発言内容とは無関係にフォロワーの少なさを指摘するという個人攻撃に走っている点で、挑発に乗ってしまっているんじゃないでしょうか。冷静に考えるとあまり適切な発言ではなく、普通なら言わないようなことを言わされてしまっている状態だと思います。
グレタさんも最初は一人でした。賛同者が少ないことを罵りの材料に使うのは、現時点ではかなりのマイノリティであるヴィーガニズム実践者にそのまま返って来てしまう諸刃の剣です。賛同者が少ないことは、主張の正当性とは関係ありません。
③憐れまない
「こんな風にしか言えないなんてかわいそうね!」といった返しもよく見ます。しかしながら、ここでの「かわいそう」は、例えば道で転んで泣いているこどもに「あらあら?!転んじゃったの?かわいそうに!」という場合の「かわいそう」とは明らかに違うんじゃないでしょうか。実際に憐れんでいるわけではなく、捨て台詞的に言っているだけだと思うので、蔑んでいるのと変わらない気がします。
④子ども扱いしない
「こんなこともわからないなんて小学生か!」とか、「中学生に教えると思って説明してやるわ」というような返しを見ることもあります。はっきり言って小中学生に失礼です🤣
頭の良さには、理解力、表現力、創造力、知識の豊富さ等々いろいろありますが、下手な大人よりずっと優れた能力を持っていて、世の中のことを一生懸命考えている小学生、中学生はたくさんいます。子供は大人より劣っているという前提に立ったこれらの発言を気持ちよく思わない人も居るのではないでしょうか。
仮に子供が大人より劣っているとした場合には、人格攻撃に発展しているわけで、相手に対して失礼ですよね。先に暴言を投げられているのだから何を言っても良しとするのなら、もはや「売り言葉に買い言葉」状態なので、やはり言わない方がましです。
⑤拡散しない
アンチ投稿の例として挙げた、白米で作られたお魚の写真を私は何度見たかわかりません。フォローしている方々の投稿ですらなかなか全部は見られないのにもかかわらずです。リツイートするたびに、それにいいねをするたびに、コメントを書くたびに、チャリンチャリンと投稿者の通知ベルがなるのです。相手はそれが目的でやっているのに喜ばせてどうするのでしょう?それが新たなアンチ投稿のモチベーションになってしまいます。
もし、私の周りにいる若い人たちが、そんな行為に快感を覚えて時間を使っているのだとしたら、一度しかない人生をもっと別のことに使って欲しいと思います。そのためにも、刺激せずに放っておいてあげて欲しいです。
不適切な投稿は、拡散せずに気づいた各人が即ツイッター社へ報告するのが良いのではないかと思います。これまで私自身が通報したアカウントについては全て「ルール違反と判明した」との応答が得られています。
エゴの自制
上記5点の対処をするために必要となるのがエゴとの戦いだと思います。言ってやりたい、言ってすっきりしたいという欲望に抗わなければならないからです。
先日、タイムライン上で論争しておられたヴィーガニズム実践者の方のある投稿が気になったので、「それはマウント行為に当たるのでは?」とお尋ねしたところ、「ブロックは性に合わない」という答えが返ってきました。
前回のノートで引用した「正義中毒」の中にこんな一節があります。
もし、本当に相手に自分の主張を分かってもらいたいという真摯な思いがあり、それが可能だと考えているのであれば、タイムラインを荒らさずダイレクトメッセージで議論すれば良く、上手く和解に持ち込めたなら、結果を要約したツイートを1回だけ投稿すればいいのではないでしょうか。
実際は、アンチ行為をする人に思い改めて欲しいと考えているわけではなく、何とか論破してやろうというのが目的になっているように思います。それをタイムライン上でショー感覚で行うのはまさしく大喜利大会ですよね。
アンチ行為の行動原理は概ね何らかの欠乏なので、それを満たすべく自分のライフを削って時間を費やし心を砕き、徹底的に寄り添って話し合ってみればもしかしたら何らかの和解が得られるかもしれません。そこまでの覚悟があるのなら、それこそダイレクトメッセージで直接やりとりするしかないと思います。衆人環視の中で本音トークなどできないでしょう。
しかし、アンチに凝り固まってしまっている人にそこまで心を砕いても、こちらに寄り添ってもらえる可能性はとても低いですよね。そこにかけるパワーは他の活動に回した方が良いので、ここはひとつ、エゴに打ち勝って「三十六計逃げるに如かず」ではないでしょうか。
アンチヴィーガン編の終わりに
当たり前ですが、ヴィーガンがいなければアンチヴィーガンもいません。よってアンチヴィーガンはヴィーガンが生み出しているとも言えます。過剰な反応をすることで、からかい甲斐のある人々だと思われて、よりターゲットにされてしまう面があるのではないでしょうか。
動物性食品を摂取する人のほとんどは、動物に危害を与えたいとは思っておらず、ヴィーガンの存在はその自己矛盾を思い出させる不快なものであるため、ヴィーガンへの偏見を維持することで内なる紛争を解決しているという分析もあります。そのせいもあってか、ヴィーガンへの偏見は、ヴィーガンが自身を道徳的に優れていると考えている場合により顕著になると言われています。「WikipediaのVegaphobia(ヴィーガン恐怖症)より抜粋」
「動物虐待に加担する人たちより私は優れているのだ!」という態度でヴィーガンではない人々を見下すことは、「人間は動物より優れているのだ!」という考えで搾取を肯定することと一部似てはいないでしょうか。何をもって優れているとするかはさておき、仮に優れているとしても、だからといって相手を罵倒したり搾取したりしていいということにはなりません。謙虚になるのはとても難しいことですが、大切なことだと思います。実のところ私も、自戒を込めてこうして繰り返し書くことで保とうとしています。
長らく続いたアンチヴィーガン編でしたが、今回で一旦終了します。駆け足で切り上げた感もあるので、いつかまた立ち戻るかもしれません。ここまで読んでくださってありがとうございました😊
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