最近のテーマ:介護と育児と傾聴

本棚は考えているテーマの変遷

どういう趣旨で本を仕入れているのか聞かれることがありますが、毎回答えに困ります。簡単に「自分の趣味です」と答えることが多いのですが、もうちょっと正確にいうと、これまで辿ってきた興味の変遷です。その興味は少しずつ変わっているのですが、ベースは同じというか、あっちこっちに飛ぶのではなくて、一本の道をたどるように過去から現在までつながっているように思います。

「自分を取り巻くものごとはどういうふうになっているんだろう?という疑問」というふうに表現したこともありますが、つまりは「自分と他者(人に限らず)」に関係する大いなる謎があり、その謎を眺めるときに立つポイントが物理であったり脳科学であったり心理学であったり社会学であったり生物学であったりするのです。それが時期によって変わっていく考えるテーマになります。

「自分を取り巻くものごと」は変わっていきます。自分も、良くも悪くも変化していきます。最近のテーマはタイトルのとおり介護と育児と傾聴ですが、傾聴が最新のテーマになりつつあります。

脳がテーマだったころ、脳のはたらきが全部解明されたら心理学はいらなくなるんじゃないか、もしくは陳腐化するのではないかと考えていたこともありましたが、やっぱり「私」という強烈な意識はなくなりはしないし、「現実は脳の中で再構成されたもの」と言われても、やっぱり熱いものに触れたらやけどをして痛いし、ひどい仕打ちを受けたらつらいものです。そして、肉体をもち、群れを作って生きる動物である以上、誰(何)にも関わらずに生きることは不可能なのです。今のところは。

だとすれば、テクノロジーが解決してくれるまで、どうにかしてこの「私」と「他者(人に限らないが主に人)」の関係性をメンテナンスしていく必要があります。そして、現代社会を見える範囲で見渡してみると、これは私だけの問題ではないように思えるのです。

「あなたはいつも自分が重要な人物であると思われていたいのね」

北欧ミステリー「黄昏に眠る秋」(ヨハン・テオリン)という小説の中で、息子をなくした中年女性が、足が悪く介護ホームに住む父親に皮肉をこめて言うセリフがあります。正確ではありませんが、上記のようなセリフでした。

でも、これって、誰にとっても当たり前のことではないか、と思ったのです。誰もが「自分が重要である」と思っていたいし、理想的には社会全体がそうあってほしい。ましてや皮肉で言うようなことであってほしくない。では、「自分が重要である」というのはいったいどういう状態なのか。

ネットに接続され拡張された巨大な世界において、重要であるとみなされている人はほんの一握りで、発信しても話を聞いてもらえない人の方が大多数となりました。みんな発信するけれど、誰も真剣に聞いていないのです。

翻って、リアルな社会は経済活動優先で個人の話(事情)を聞く余裕がありません。
ネット上でもリアルでも誰も話を聞いてくれない。そうすると、どうしても「自分が重要である」というふうには思えなくなり、また、他者も重要だとは思えなくなる。

いつかは起きることに向かって

介護する立場(もしくはされる立場)になったとき、一人きりで育児をするとき、その大変さは当事者にしかわからないことだけれど、もし、誰かがその大変さを聞いて理解してくれたら、少しはましになるのだろうか。もしそうであるならば、それは配偶者や家族だけでなく誰でもできることじゃないのか。

もし将来、話を聞いてくれるAIができたとしたら、社会に普及するだろうか。人間は想像力が高いので意外と疑似的な人格で満足できるのではないかと思う反面「むなしい」と感じる人も多数いるように思える。

そんなことを考えつつ、できるだけ身近な人の話を聞こうとしているところです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?