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痛みから学ぶ#2_続けること手放すこと

古い英国製の革のサスペンダーを持っている。とても使い込まれていて色ムラや傷やシミなどたくさんの経年による変化が美しいサスペンダー。とても気に入っていてずっと使っているのだけど、いよいよ金具の部分が壊れかけてきたのをきっかけに、さてこの美しい子をまた一度リプロダクトしようと思い立った。私の手元にあるこの子のように、たとえ金具が壊れても金具だけを修理してまた使えるのは、皮革製品の大きな利点だ。しかも使い込むほどに美しさは増していく。

いわゆるエラスティック(ポリエステル/ポリウレタン製)のサスペンダーにはそれは望めない。ゴムの経年変化によって劣化した古着のサスペンダーを多く見てきたけれど、落ちないシミや伸びて波打ってしまうなど、リペアして再生できないものが大半。あと金具のクリップ部分が最も壊れやすい。(ゴム劣化でリペアしたとしても金具以外は総とっかえとなるので果たしてそれがリペアの領域なのか難しいところだけれど。金具の再利用…?か。)脱石油系を考えてもなるべく避けていきたい素材でもあるし、こういった耐久性が必要で長く使っていけるものを作る際の素材として皮革と並ぶものは多く無い。

リプロダクトしようと思った理由の1つに、私の昔からの大事な友人Mが皮革の仕事をしているというのがある。DEPTの古着の皮革製品のクリーニングや修繕法でもいつも相談にのってくれていて、今回この美しいサスペンダーを再現するには彼に頼むしかないと思った。企画初めての打ち合わせに現れたMは相変わらず優しくて丁寧で穏やかだった。心底彼に頼んで良かったとまだ出来上がってもいないのに思ったのを覚えている。

そしてここから人生の面白い交差が始まる。

私は2年半ほど前から健康への配慮を主な理由にほぼヴィーガン食で暮らしている。正直最初は自分への人体実験のようなつもりで始めたのだけど、今ではその生活がとても心地よく、普通食に戻れる気配がない。この日記に書いてきたように今年に入ってから、自分を取り巻く環境や自分の脳内をしっかり整理して向き合おうというエラに突入した。自分の生活もビジネスモデルも関心の高かった環境問題を柱に組み立て直すために勉強し行動に移していく中で、様々な問題は実は根底では繋がっているということ、個別の問題を引き起こしている大きなマグマの上に私たちは生きているということに気がついた。

ファッションビジネスの諸問題と環境汚染、環境汚染とウイルス問題、ウイルス問題と森林伐採、森林伐採と山火事、山火事と海洋汚染、海洋汚染と気候変動、気候変動と動物愛護、動物愛護と政治、政治と企業の癒着、企業の癒着と医療問題、医療問題と、、とまるでしりとりのように終わりなきチェーンが繋がり続ける。それは途方もなく長く、知りたいことがたくさんあるのにどこから手をつけていいのかわからないほど資料や情報は山積している。日々勉強していくと畜産ビジネスの中で動物たちがどんな扱いをされているかをよくよく目にすることになる。今自分が主に勉強している環境問題と密接に関係しているからなのだけど、いつも間にかその悲惨さに心を奪われ私がかつてしていた、人間が動物(のその乳や卵含む)を食べることについてより考えを深めていくようになった。

その問題を深く掘り下げて書くのはまた別の機会にするとして、人間の欲求を満たすために毎日約84万匹もの動物が(多くが非人道的に)殺され、なのにその人間は体のつくり自体が動物性を摂取するのに大変不向きであるという大きな矛盾に向き合わざるを得なくなる。

本当にこれだけの動物が犠牲になる必要がある?肉を食べることの代償の大きさはその食べる喜びに値するのか?色んな疑問が頭を巡る。

そしてここでその食肉の副産物である皮革製品の話が交差してくる。毛皮と違い一応形式上その皮のために動物を殺してはならない決まりなので、私たちが手にする皮革はもともとは食用だ。

食肉に心を痛めている中でその”副産物”を使ってものをつくるのか。

レザーを主に使った製品なんてもう随分と長いこと作っていないのに、人生は実に巧妙な試練を与えてくる。改めて畜産業に対して懐疑的になり、自分が皮革製品に向き合う新たなきっかけとそれによる意識の変革が、去年から進んでいた今回のサスペンダーのリリースと合流することになったのだ。

私は古着屋を始めるときに皮革と毛皮は扱うと決めた。それは布地の服と同様に既にこの世に存在する服たちを少しでも長くこの世に存在させ、人に愛してもらえるようにきちんと綺麗にして世の中に出すことが我々の使命だと感じているから。自社ブランドでは自分が猫と暮らしているので”怖くて”毛皮を使うことはしてこなかった。ここで、猫にはエンパシーがあるけど、皮革の牛、豚、羊、馬、などには無いという私の中の種差別が起こっている。

勉強の中で牛が豚が鳥が様々な食用にされる動物がむごい殺され方をしているのを見ると、そこに加担したく無い、という気持ちが湧いてくる。たとえその皮革などのために命が奪われてなくとも、その副産物を欲することがとても非情なものに思えてきた。しかしそこで、自分の中にさらなる矛盾を見つけることになる。

私は一応ファッション界という中に在籍しているのだけど、冒頭に出てきた友人M然り、皮革製品を作り出す様々な日本の職人の人々に出会ってきた。彼らの技術はもちろん経験と自信に裏付けされた心意気にも触れてきた。古着の中で育ってきたというのもあり、半世紀を超えてもなお美しく機能的で生活に根付いた皮革製品とともに生きてきた。私の宝物は20年以上履いているDr.Martensのブーツと父が若い頃着ていて私が引き継いだライダースジャケットだ。そう、私は皮革製品を愛してしまっているのだ…。もともと食肉に対してそこまでの執着がなかった私にとって皮革製品との別れの方が険しい道のりになりそうだ。

今後私が自分のブランドの製品で皮革を使うかどうか、これは今の所かなり可能性が低いように思う。(古いもののリメイクなどは積極的に行っていきたいと思っているけれど、それもいずれ離れるのかもしれない。これだけ自分のリニューアルが繰り返されると自分の未来の行動なんて全く予想をつけられない)でもすでに進行したこのサスペンダーに対して私はどう向き合おう?となったときに、自分の中で咀嚼することも、この言葉を書くことも、自分が思っていたより時間も心のエネルギーも要した。なんだったら今なお明確な答えは出せていない。でも、この子を長く愛してもらいたい。そのために何ができるだろうという気持ちに正直に生きることにした。私自身は罪深いが愛する友人と作り出したこの作品に罪はない。

このサスペンダーをお買い上げくださった方には今後無償で修理をお受けすることにした。金具が壊れてしまったり、背中のテープが伸びてしまっても、レザー部分も可能な限り直す方法を見つけたい。職人さんたちの卓越した技術のもと作られた作品。生み出された後に私たちができることはそのくらいしか無いかもしれないけど、それによって少しでも長くこのサスペンダーが人の生活の中に生き続けてくれたらいいなと願う。

今日まで出来なかったことを恥じるのではなく、今日から何ができるかを考えよう。最近の私の呪文。久しぶりに苦しく暗い道のりだったけど、この経験がまた何かに活かされたらいい。こんな経験を私にさせてくれたサスペンダーにとっても感謝している。私ができうる限り大切にお客様にお届けしよう。

今回長く暗い道を一人トボトボ歩き続けて思ったのは、人生は気づきの連続だということ。気づきの中で変化を恐れないこと。変化のプロセスをないがしろにせず、痛みも発見もきちんと受け止めて分析することで、必ずなんらかの答え(それが途中経過でも)が導かれる。その答えが自分の辞書に書き加えられ、後で読み返したときにまた新しい気づきを与えてくれるはずなんだ。自分の気持ちの小さな変化も見逃さずに生きていきたい。



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