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隙がない人になっている

 私は隙がない人になっています。これはきっと会社を辞めるにあたって心のどこかに不安があるためです。自由な生活をして何をしても良いのに、長いこと考えた結果であるのに、どうして不安を抱くのか考えていこうと思います。

 始めに隙がないと気づいたのはジムでの会話です。「最近の生活はどうですか?」と聞かれた際に「筋肉の名前や可動域を覚え始めている」とこたえる私がいるのです。これは事実なのですが、もう少し気楽に「ストレッチにハマっている」とか「カラダ動かすのに目覚めて日々ご機嫌です」なんてこたえても良いわけです。その後は「覚えた筋肉名は何なんですか?」という話が続くのですが、なんだかテストみたいだなぁと感じたのです。

 その後も隙がない私はいます。トレーナさんが私の目的に合わせて筋トレをしたりストレッチをしたりするのをサポートしてもらうわけなのですが、そのやり方や言葉を評価してしまうのです。トレーニングが終わった後に、今回のカラダの状態の評価と今後のアプローチの説明が曖昧だったな、より定量的に話たり、3つくらいに要点を抑えて伝えることもできるのになと考えるわけです。心のどこかで甲乙つけている私がいました。

 自分で勝手気ままに取り組んでいることでも同じです。私は日頃、絵を描いたり本を書いたりしているのですが、今の書き方だと硬いからもっとこの層に向けた書き方にしようと意識したり自分のあり方を評価する自分が現れたのです。元々研究を行っていた自分からすれば、この尺度を取り出すのはお手の物です。明確に目標や基準、効果を決めてアプローチを始めます。これまでの私はこれを避けてきました。なぜなら目標を決める事は「子どものような」ものを生み出すことには繋がらないからです。何かの下位互換のものしか生み出せません。

 なぜ目標を決めることが何かの下位互換のものしか生み出せないことに繋がるかと言えば「エゴ」があるからです。「エゴ」は「目標」を生みます。狙いや理想といっても同じことです。目標があれば、世の中で既に知られているものを組み合わせて最短ルーツを確立することができます。ゲームと同じような形です。世の中にはある程度ルールやシステム、傾向があって、それを踏まえた上で効率よく成果を出す方法というのは存在するのです。ざっくり言えばこの方法はロジカルシンキングと言われたりします。論理的な思考です。論理的な思考にも様々な考え方や切り口があるのですが、どれもやることは一緒です。考えることの範囲と切り口を決めて、目標に合わせて重要な要素を決めるのです。

 私は会社を辞める不安から隙がない人になっていました。何かの形式も基けばそこそこなところまで行けるので、そうなろうと心のどこかで思った自分がいました。すると神経質になります。趣味のトレーニングでも甲乙つけたがります。良し悪しを判断しようとします。自分がより満たされるためにと思って行っていることでも「作業」をして安心感を生み出そうとしていました。少しでも進んだという達成感から安心しようとしていました。しかしこのように振る舞うならば会社に属している時と同じです。自分に向き合うのが不安だから取り急ぎ条件が良いところにいる、手軽な安心感を得ると行った形です。

 私はどんなに成果が出ない不安に苛まれようと、自分で方向を決めた納得できることをしようと思って仕事を辞めるに至ります。仕事では組織の方向性があって、どうしてもそれに自分の意思を即なさければいけない時がありました。もう少し拘りたいと思ったところも、趣味の範囲と切り捨てて新しいことに着手しなければいけないあり方がそこにはありました。もちろん突き詰めれば納得などないかもしれません。それが分かっていても、自分の囚われをなくすようにアプローチしつつも追求するということをしたいのです。エゴがない表現の先へ行きたいのです。

 不安な人になっているな、隙がない人になっているなということを自覚しつつ、今日も執筆していこうと思います。やっぱり私にとって表現は満たされることだなと思います。理想はあるものの、理想を手放して、より満たされるようにアプローチしていっているところです

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