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どのくらい休めばいいのか、何をすればいいのか

不安を取るためには、どれほど休めばいいのか。いつこの気だるい感じは取れるのか。いつこの衝動的な気持ちは取れるのか、何をすればいいのか、と悩んだことはないだろうか。私は悩んだ。不安になった。何かをすることで気を紛らわしてきた。同じような人がきっといるのではと思い、休んだ時の身体や心の変化を語っていく。

やる気が出ない

自分の心に蓋をし続けると、最終的にはやる気がでなくなる。無気力になる。何をしてもワクワクしない。空っぽ、と表現するのが当てはまるような状態である。場合によっては、何もしないのに涙が出る人もいる。何故か頭痛がしたり、汗をかいたり、手足が震えたりする。

こんなにも空っぽになったのも、避けがたい困難があったためだ。生まれてから今に至るまで、大変な困難があった。それは周囲から比較され続けたことかもしれない。周囲から何か期待されたことかもしれない。何かと気分屋な人の機嫌をとってきたからかもしれない。こうならないと、将来大変だよと何かと言われ、努力を続けてきたのかもしれない。その積み重ねが、やる気が出ないに至った。それは避けられなかった。その置かれた環境で、周囲の人は限られていた。自分はこたえないといけなかった。無理をした。心に蓋をしてきた。

例えるならば、虐待されたペットのような状態である。過酷な環境に置かれた。それは避けられなかった。逃げ出そうとするならば、周囲はそれを許さなかった。その行動はエスカレートした。最初は抗った。嫌だと言った。抵抗した。自分が良くないのかもと、良い子として振る舞ったこともあった。しかし、周囲の行動はどこか支配的で、冷酷で、逃げ場がなかった。そのままでいいとされなかった。そうしているうちに、抵抗する気もなくなった。足掻いても無駄だと思うようになった。無気力になった。

過酷な環境にいて、そこから脱出したてである時も、無気力である。自分から動けない。そこはもう安全な環境であるけれども、心がそれがわからない。身体も動かない。

そんな中で生活するために必要なことはする。ご飯を食べる、寝る。空いている時間は暇なので、動画を見たりして過ごす。人によっては、学校に行ったり、会社に行ったりしているかもしれない。生活に必要と思い、なんとかそこに行っているが、もう限界に近い。何とか日々を送っていると、次の状態にうつる。

衝動的になる

やる気のない状態で休むと、衝動的になる。何かこれをしてみようかなと思ったりすることもあるが、急に消えてなくなりたいという感覚に襲われたりする。ここにいるということが辛い。気持ちの浮き沈みがあり、自分でも疲れる。やる気が出ないこともあるが、身体は動くので何かしたくなる。音楽を聞く、食べ物を食べる。最初はこの"ちょうどいい"状態がわからない。音楽を大きな音で聴くのがいいと思ったり、過剰に食べる、または食べない、どこか遠くに行きたい、誰か連絡を取りたい、次のために何か戦略を立てないととなる。調べる。情報をかき集める。できないことをできるようにしようとする。

この衝動的な状態が一番厄介だ。多くの人は知らず知らずここでループしている。やる気が出ない、衝動的になるを繰り返している。再び、虐待する人が待つ環境へ帰る。そこでしか生きられないと思っている。頑張る。ただ、その環境はそれまでの避けがたい困難の上で置かれた環境であり、虐待されない環境はある。自分がスキルを身につけようと思って、何か頑張らなくてもいいし、これをやってみたいなと思うことを、下手でもいいからやればいい。しかし、何か上手にできないといけないと思う。そうでないと、社会でやっていけないと思う。もちろん、自由に生活している人がいるのは知っているが、自分がそうなれるとは思わない。すぐに不安定な先の見えない生活になるかもしれないし、何より周囲がそれを反対する。誰に話しても、リスキーだねとか他の選択肢もあるんじゃない、となる。

頭を空っぽにする

衝動的な状態ややる気の出ない状態から、ひとりになることを選択してほしい。そうして休んでほしい。ゴロンと横になり、大の字のなって、ぼーっとしてほしい。最初は、何もしないということは大変苦痛である。嫌なことが思い浮かぶ。フラッシュバックする。そのため、思わずスマホを手にして気を紛らわすかもしれない。寝っ転がってみたものの、身体が痛くなるかもしれない。ずっとぼーっとして、時間だけが過ぎていくかもしれない。やる気が出ない、衝動的になるのどちらかにずっとなっているかもしれない。将来のことをあれこれ考えて、不安になるかもしれない。部屋の汚さに目がいくかもしれない。外の騒音が気になるかもしれない。そうこうしている間にお腹が空いてきたり、寝ているかもしれない。頭を空っぽにする、というのは、世の中の手段で言えば瞑想やマインドフルネスがあるのであるが、私個人の見解を言わせて貰えば、これらは嫌いだ。もうほんとに分からなかった。全く心地よくなんてならなかった。逆に疲れた。もはや憎しみすら持っている。あんなに辛かった私を救ってくれなかった。と思っている。

しかし、私は頭を空っぽにすることを推奨している。人様に嫌いなことを推奨するなんて、と思うかもしれない。しかし、推奨する。これ意外の方法は対処療法といいますか、その場しのぎであるなと感じる。自分の過去を振り返ってあれこれ書くこと、自分の過去を肯定的に捉えること、将来の安心できる姿を思い描いて努力すること、何か作って達成感を感じること、世の中で言われるありとあらゆることを試したが、結局は不安は拭えなかった。また、やる気のない状態や衝動的な状態に戻った。

頭を空っぽにすると、自分は大丈夫と思える。そこで過去を肯定的に捉える必要もない。人に話して、それは頑張ったね、大丈夫だよなどと言われる必要もない。将来に対して、目標を立ててそれに向けてあれこれ努力だってしなくていい。それに囚われず、頭を空っぽにするのだ。頭と身体を筒のようにするのだ。後から考えれば、時間がものすごく長く感じたり、短く感じたりする、そんな無な状態を体験してほしい。人なので、空っぽにしようとしても、あれこれ考えが浮かぶ。思い出したりする。それらを、考えた時にそのまま考え続けないようにしてほしい。考えることを認知して、スルーしてほしい。後から考えれば、何も考えてないとはあのことか?と思えるような状態にしてほしい。

頭を空っぽにすると、意欲が湧いてくる。エゴのない意欲だ。ちょっとこれ気になるな、あれやって見ようかなという形である。この意欲は、実は頭を空っぽにしている時に感じていたりもする。気づくこともある。他には、頭を空っぽにした後に、あー喉乾いた。あーよく寝たと行動している時に閃くことかもしれない。これをやってみようかな、ああしてみようかな。

エゴのない意欲は、何か自分に今以上の特別な能力を持っている必要はない。例えば、ピアノを弾いてみたい。と思ったりする。ピアノに特にこれまで触ってきていないのに。楽譜も読めないのに。触ってみるといい。鍵盤を叩く、音が出る。そうして自分の好きなように弾いてみるといい。下手なままでいい。その音を出したり、何か自分が心地よいという状態を続けるのだ。しかし、できない。とすぐ飽きるかもしれない。夢中になれないのであればそれでいい。また、次の自分の意欲にこたえるといい。

私は本当に色々試した。カフェを巡ること、好きな絵を集めること、美味しいものを食べること、お花をいけること、クイズをつくること、絵を描くこと、お茶を立てること、本を読むこと、靴を磨くこと、弓を引くこと、走ること、革細工すること、絵を見ること、ガラス細工をつくること、洋服をつくること、新しい数式をつくること、部屋をキレイにすること、折り紙をおること、絵本を書くこと、プログラミングすること、人と話すこと、セミナーを開催すること、入浴剤を作ること、作曲すること、漫画を描くこと、ヨガをすること、本を読むこと。

もう書き始めると本当にキリがない。周囲からは飽き性、器用貧乏と思われた。ただ、色々試す中で無理なく続けられたことがある。このnoteを書くことだ。これは今のところ下手でもよく、人からどう思われようなどと気にせず、自由に書いている。上記に書いたことが正解というわけではない。人によって夢中になれるものは違う。

エゴのない意欲は、気づいたらやっている。うまくやろうなどと思わない。それ事態をやることを楽しむ。子供が走り回っている時に、どうして走っているの?と尋ねても答えようがない。気付いたらそうしてた。走りたいから。そうとしかこたえられないような状態である。そうしているうちに、続いている。ユニークになる。自分らしさが出る。何かの本を読んで、動画を見て、次はこれをやってみようなんて思わなくていい。自分の中で試行錯誤するのだ。時にはやってみても気づきになっていいかもしれないが、結局、自分で気づいたことが一番残る。

エゴのない意欲にこたえてやると、自分が疲れたことが分かる。疲れると休む。頭を空っぽにする。そうしてまた、自分の意欲にしたがって取り組む。その意欲は、もしかしたら全く違うことかもしれない。それか今夢中になっていることをやりたいと思うかもしれない。どちらでもいい。どちらでもいいから、無理せず、やってみるのだ。集中すると疲れる。そうしてまた休む。頭を空っぽにする。これを繰り返していると、ユニークになる。食べるものに困らなくなる。人と良好な関係が築けるようになる。未知なより満たされる世界が待っている。何者にでもなれる。


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