なんだか大変な状態を抜け出すためには

何かと頑張らないといけなかったり、好きなことが特にない人、やる気が出ない人は、次の2つのことに取り組んでみるといい。何もしないことと無頓着な人と一緒にいることだ。これらを取り組むとどのような世界にいくのか語っていく。

1.何もしない

何もしないのは、ゴロンと寝っ転がって何も考えないことだ。寝ようとする形に近い。スマホなども電源を切って外からの刺激が入ってこないようにする。すると、最初のうちは今日やることや昨日会ったことを思い浮かべるだろう。おそらく多くの場合は嫌なことがフラッシュバックする。または暇すぎて逆に辛くなる。何かしたい衝動に駆られる。こんな時間があるのなら何かをしたほうがいいと思える。

そうであっても、ふぅと一息つくことをおすすめする。寝っ転がると思考が反芻する。色々なことを考えている。いつの間にか。周囲の音や寝っ転がっている場所の居心地の悪さが気になり出すかもしれない。換気扇の音や周囲の人の音に対して反応してなぜか居心地を悪く感じるかもしれない。それでもふぅと一息ついてみることである。

すると、何かを衝動的にやりたくなる。人と話したくなる、スマホをいじりたくなる様々だ。ストレッチをしたくなるかもしれない。それらはあまりにも抑えきれない場合はやった方がいい。やって見てスッキリしたらまた元のゆっくり休む状態に戻ってほしい。何もしない状態に戻ってほしい。すると自分が何を今欲しているのか、何をしたいと思っているか気づく。それは衝動の赴くままに行動した結果でわかる場合もあるし、グッとその衝動を堪えて自分の考えていることを感じ取っている結果わかる場合もある。

何もしない時間を少しずつ長くすると、”エゴのない意欲”に気づく時が来る、エゴのない意欲はアイディアを連れてくる。想いが降ってくる。湧いてくる。

降ってくるのはこれまでの自分の経験や得てきた知識が繋がって得るアイディアのことだ。ワクワクするようなイメージだったりする。閃きのことだ。悩んできたことの解決策だったりする。なんだかそれが正解なような気がして仕方がないことだ。先々のことはどうなるかわからないが、とりあえずやってみたいなと思うことだ。

湧いてくるのは、あの料理が食べたい、と思ったり、動物と触れ合いたいと思うことだったりする。ただの自分の好奇心のことだ。上手いや下手、やったことがある、ないにしろ、今の自分がとりあえず”やってみたい”と思えることだ。

このような降ってくる、湧いてくる想いにこたえると、下手でもいいからそれをやることを楽しむ。自分なりにアレンジして物事を取り組む。例えば、ピアノであれば経験者であれば楽譜通りに弾くのではなく、上手くなくてもいいから自由に弾いてみる。アレンジを楽しむ。未経験者であれば音を出してみることを楽しむ。そうして自分なりに心地よい音の重なりを見るける。その連続でいつの間にか曲をつくっている。ジャズのようなものだ。

Youtubeなどで、音大などを出ていないのになぜか演奏者としてお金を得ていてどこか楽しそうな人を見たことはないだろうか?このような人は満たされた人である。周囲のこうしなければならない、ああするべきだといった声ではなく、自分にこたえた結果だ。下手でも楽しんだ。降ってくる、湧いてくる想いにこたえた。試行錯誤した。その結果である。

何もせず、降ってくる、湧いてくるエゴのない意欲に従って物事に取り組むとユニークになる。その人が取り組んだんだなとわかる形になる。すると、なぜかいつの間にかうまくなっている。周囲はそれを勉強したんだね、努力したんだねとして見るが、本人の感覚はそうではない。勉強のような地道なことはしていないし、気づいたらそうなっていたという形だ。これは我流だと思う。それが例え世の中の何かの法則に仮に則っていたとしても、自分なりにやったなと回想できる。

ユニークになると自分と同じような人に囲まれる。何かに集中している人だ。追求している人だ。試行錯誤している人だ。表現している人だ。すると、これまでのなんだか大変な時とは違い、不機嫌な人や恩着せがましい人はいない。冷酷な人はいない。マウントを取ってくる人はいない。皆それぞれ集中しているものがある。何かうまくいかなくてもそんなこともあるよねとこたえる。これまでは周囲に何かと決められた世界にいたのに、決められることがない。本人たちは人それぞれであるとよく理解しているし、無条件に相手を信じている。うまくいくと思っている。

ユニークな自分になり、周囲にも同じような人に囲まれると、いつの間にか生活に困らなくなる。以前はあんなにも何者かになるために必死に努力して、その場にしがみついていたのに、好きなことをしてなぜか生活できている環境となる。周囲はあれこれイベントが起こる様子を大変そうだねと話すが、自分にしてみれば全く大変ではない。自分が変わった先にあれこれイベントが起こった。どれも起こるべくして起こったなと思える。大切なことに思える。どんどんその流れが変わる様子に自分が成長していることを感じられる。

何かを成し遂げた後は、その積み上げたことに執着することなく、初心のような好奇心から別のことを始める。周囲にはもったいないと声をかける人もいるが自分はそうは思わない。やりたいことはやった。そうした新しい自分がその世界からやってみたいなと思えることをまたやっているだけである。何者にでもなれる。どんな状況でも満たされている。

2.無頓着な人と一緒にいる

 なんだか大変な環境の中に、人に対して無頓着な人はいないだろうか。何かこんなことがあったんだよと話すと、そうなんだね、とこたえる。あれこれ意見を言わない。言うとするならば、自分はこういうことがあったよとこたえる人である。

無頓着な人は物静かな人だ。一般的にモテるとか目立つ人ではない。気付いたらその集団の中にいる。しかしなぜかみんなと仲が良い。というよりも嫌われていない。盛り上げ役というわけではないため、何かのイベントに積極的に声をかけられるというわけではないが、誘われればひっそりとそこにいて周囲と楽しそうにしている人である。素朴な人である。謙虚な人である。

何かと大変なことに巻き込まれる人の周りには、おしゃべりな人がいると思う。例えば何か相談をすると親身になって聞いてくれる人だ。心配してくれる人だ。共感してくれる人だ。しかし、そのような人は拗らせると恩着せがましい人になる。自分の意見をあれこれ言ってきて、なんだかこっちが疲れる。何かしようとしていたのに、その気力が奪われている。

また、これと反対に冷酷な人、存在を無視してくるような人、あなたはここが良くない、良いとあれこれ言ってくる人がいると思う。そのような人で巧妙な人は、これはあなたのためだからといったニュアンスのことを話す。自分のことに対して一所懸命になる姿に心が打たれる。嬉しい。しかし、そのような人は相手を自分より”下”に見て自分が安心したいだけであったり、何か不安を抱えていて、それを発散したいだけだったりする。囚われがある。執着がある。最初はいい人のように思えた人でも、なぜかドロドロとした人間関係になっている。いつも気を使うようになる。一緒にいるといざこざが起こる。

これらのようなおしゃべりな人や冷酷な人と距離を置こうとしてもなかなかうまくいかないと思う。そのため、エネルギーをかけて離れるのではなく、無頓着な人と関わる時間を増やしてほしい。だんだんとシフトしていってほしい。すると、より満たされるための土壌が出来上がる。自分は自分のままで大丈夫なんだと思える。なんでもやってみようと思う。無頓着な人は自分の表現を見せてもいいんじゃない、と言う。それは受けとめているようにも見える。無頓着な人はどうなってもいいと思っている。人の変化に気づく。しかし、その在り方を束縛しようとしない。相手のことを無条件に信じている。


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